ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第433回)

2022-05-27 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(2)セルビア革命

〈2‐1〉新ユーゴスラヴィアの成立とコソヴォ紛争
 旧ユーゴスラヴィア(以下、旧ユーゴ)では、レジスタンス革命の指導者で建国者でもあったチトー終身大統領が1980年に死去した後、しばらくは集団指導制による連邦の運営が続いたが、チトー個人のカリスマ性に支えられていた連邦の結束はすでに揺らいでいた。
 そうした中で1989年以降、中・東欧の社会主義体制が続々と崩壊していくと、それらソ連圏とは長く対立し、独自の自主管理社会主義を標榜していた旧ユーゴでも、セルビアとモンテネグロを除く連邦構成共和国の独立へ向けた動きが加速化していく。
 この動きは、1990年の連邦憲法の大改正によって、従来、連邦全体をつなぐ鎖であった共産主義者同盟による事実上の一党支配体制が転換され、各構成共和国で複数政党制が導入されたことにより決定的となった。
 クロアチアとスロヴェニアの独立宣言を皮切りとする連邦解体の動きがソ連と異なり凄惨な内戦に発展したのは、旧ユーゴ中枢国セルビアが連邦解体には強硬に反対し、順次、各構成共和国との間で武力紛争となったからである。その点、ソ連の中枢国ロシア自らがソ連解体を革命的に主導したのとは対照的な経過を辿った。
 しかし、結局のところ、旧ユーゴ解体を阻止することはできず、セルビアは親密なモンテネグロとともに、改めてユーゴスラヴィア連邦共和国(以下、新ユーゴ)を結成した。新ユーゴでは社会主義は国名から削除され、旧ユーゴ自慢の自主管理社会主義も撤回、なし崩しの市場経済化が進められた。
 とはいえ、この「連邦」は二か国のみの国家連合に等しいもので、その実態は人口や国力で上回るセルビアの隠れ蓑に近かった。その点、セルビアでは旧ユーゴ時代に台頭してきたスロボダン・ミロシェヴィチが1990年に共和国大統領に就任し、最高実力者として権力を増強していた。
 ミロシェヴィチはチトー時代には抑圧されていたセルビア民族主義を活性化させる扇動者の働きをしてきた人物である。その一方で旧ユーゴ中枢国としてのセルビアの弱体化につながる連邦の解体には反対し、独立阻止のため連邦軍を投入したため、内戦を招くことにもなった。その点で、彼は旧ユーゴ内戦の総帥であり、最大の戦犯でもあった。
 連邦解体阻止に失敗した後のミロシェヴィチは、妻で政治的同志でもあるミリャナ・マルコヴィチと二人三脚でセルビア国内の独裁支配を強化するとともに、1997年からは新ユーゴの連邦大統領を兼任し、新ユーゴの主導権も掌握した。
 新ユーゴの枠組み内で新たに浮上したのが、セルビア国内で自治を認められていたアルバニア系のコソヴォ‐メトヒヤ自治州(以下、単にコソヴォ)の分離独立運動である。
 この運動はスラブ系のセルビア人とは民族系統を異にするアルバニア人によってチトー没後の旧ユーゴ時代から始動していたものだが、1990年に自治権が大幅に制限されたことにより活性化され、ユーゴ内戦を経て、改めて新ユーゴ体制下で武力紛争として顕在化したのであった。
 コソヴォ問題そのものは本連載の主題から外れるので詳論しないが、ミロシェヴィチ政権はコソヴォの分離独立阻止のため、ユーゴ内戦時と同様の手法で、連邦軍を投入して武力鎮圧を図ったため、コソヴォは国際的にも注視される人道危機に陥ることになる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代科学の政治経済史(連載... »

コメントを投稿