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近代革命の社会力学(連載第130回)

2020-07-29 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(4)白衛軍の勝利とその後
 フィンランド社会主義労働者共和国の支配地域は首都ヘルシンキを含むフィンランド南部の枢要な工業地帯であり、支配面積から言えば有利な立場にあった。しかし、問題は、共和国の軍事部門である赤衛軍の練度や指揮系統など、軍事組織としての力量不足にあった。
 赤衛軍の総司令官アレクシ・アールトネンは帝政ロシア支配時代のロシア軍に入隊し、日露戦争に従軍した経験もある軍人ではあったが、1905年のロシア立憲革命に参加して除隊した後は、社会主義系のジャーナリストとなった人物である。
 他方、反革命白衛軍側は、その支配地域こそ当初は北部に限定されていたが、総司令官カール・マンネルヘイムは旧ロシア帝国軍のエリートであり、豊富な戦歴を持つ職業軍人であった。
 白衛軍は寄せ集めとはいえ、ドイツで訓練された士官に加え、スウェーデンからの義勇兵も援軍となり、総勢7万人の練度の高い軍事組織に仕上がっていた。
 赤衛軍もボリシェヴィキの赤軍から軍事訓練と武器供給を受け、緒戦こそどうにか善戦したものの、1918年3月になると、白衛軍に追い込まれていく。その背景として、ロシア側の内戦も激しさを増す中、ロシア赤軍にフィンランド赤衛軍を本格的に支援するゆとりがなかったことがある。
 一方、白衛軍はボリシェヴィキ政権との講和条約を締結した後のドイツを巧みに味方につけることに成功した。条約締結後もフィンランド内に駐留していたドイツ軍を後衛として利用しつつ、赤衛軍に攻勢をかけ、南部のタンペレを落とした後、ドイツの援軍が上陸し、首都ヘルシンキを無血で制圧したのである。
 戦闘は5月までに終結し、内戦は白衛軍の全面勝利に終わった。双方合わせて戦死者1万人以上に上ったフィンランド内戦は今日、北欧の平穏な福祉国家、ムーミンの国の知られざる近代史となっている。
 内戦結果はロシアとは真逆となったため、内戦終結後は反革命側による白色テロが横行し、社会主義労働者共和国・赤衛軍側関係者1万人が処刑された。赤衛軍司令官アールトネンも拘束され、5月に強制収容所で銃殺されている。
 しかし、共和国の政府機構を率いていたクッレルヴォ・マンネルほか少なからぬ幹部はソ連に亡命し、当地でフィンランド共産党を結党した。同党はソ連共産党の衛星政党となり、1939年にはスターリン治下のソ連がフィンランドに侵攻した際、国境地帯に傀儡政権を樹立した。
 こうした経緯からも、フィンランド共産党は1944年に至るまでフィンランド国内では禁止されたが、ソ連と長い国境を接するフィンランドは、安全保障上反ソ路線を貫徹できず、イデオロギー上は西側資本主義陣営に属しつつも、1948年以降、ソ連との間に友好協力相互援助条約を締結して、親ソ路線―いわゆる「フィンランド化」―を維持した。
 こうして、ロシア十月革命と連動したフィンランド革命は未遂に終わったとはいえ、その地政学的な位置関係から、フィンランドは、結局のところ、ソ連の影響圏に組み込まれることを選択せざるを得ないという形で、ロシア十月革命の余波を受けることとなったと言える。


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