ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第106回)

2020-05-19 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(7)「護法革命」の不発
 袁世凱死去後の北洋軍閥支配の過程で台頭してきたのは、段祺瑞であった。彼はクーデターで実権を握ると、国会を解散し、共和制憲法としての中華民国臨時約法も一方的に破棄して、新政府を樹立していた。
 このような反革命的状況に対し、孫文ら革命派本流も対抗策として、1917年9月、解職された国会議員団を擁し、南部の広州に新体制を樹立した。その目的は、段によって破棄された臨時約法を護持することにあったが、ここでは、孫文を大総統ならぬ大元帥に選出し、北京政府の打倒を目指す対抗的軍政府の形態を採るに至った。
 この広東軍政府には軍閥の一部も賛同し、屋台骨を担うことになったため、孫文を指導者としながらも北京軍閥政府と対峙する軍事政権の性格が強いものとなり、実際、段祺瑞政府と交戦したが、結局、これは和議に終わり、決着はつかなかった。
 軍人が支える広東軍政府における孫文の立場は微妙であったが、この時の孫文は従来の君子然とした態度を変え、権力の掌握を目指して一度ならずクーデターを企てるなど、かなり政略的に動いている。
 一度目のクーデターは軍政府内部で増長してきた広西派軍閥を抑え込む目的であったが、失敗し、かえって広西派の実権が確立され、孫文は大元帥を辞職したうえ、上海への国内亡命を余儀なくされた。
 その後、1920年に孫文派の軍人・陳炯明が決起し、広州に進軍して広西派政府を打倒したことを受け、孫文は再び広州に帰還して改めて大総統に就任し、正式の中華民国の復活を宣言した。しかし、実質上は軍事クーデター政権であり、外国の承認を得られなかったうえ、北京政府に対する掃討作戦・北伐をめぐり、これに積極的な孫文と消極的な陳炯明の間で確執を生じた。
 当時、ある面では孫文より進歩的だった陳炯明は自身が樹立に貢献した新体制の下で絶大な権力を握っており、孫文を追い落とすのは容易であった。結局、軍を握る陳が総統府を攻撃するという手荒なクーデターにより、孫文を失権させ、再び上海亡命に追いやるのであった。
 この一連の動向は、孫文らが北京軍閥政府により破棄された臨時約法を取り戻そうとした過程という意味で、「護法運動」と呼ばれるが、その過程で成立した広東軍政府は北京政府と並立する形のまま終わり、結局のところ、再革命に発展せず、対抗権力の樹立にとどまる未然革命の状態に終始したのである。
 上述したように、「護法運動」における孫文はいつになく政略的に動こうとしていたが、元来策士の器量でないことに加え、軍人に依存したことで、軍人に革命を乗っ取られる格好となり、実権を確立することに失敗した。
 このように、革命が次第に軍人によって乗っ取られていく過程は、同時期の1910年ポルトガル共和革命の経過とも類似するところがある。ともに、革命に果たす文民の力量が不足し、民衆の参加も欠いており、職業軍人の手を借りたことが影響している。
 ところで、中国共和革命は17世紀以来の王朝体制を打倒した共和革命という点では、数年後に起きたロシア革命との共通性を持つが、ロシア革命との最大の相違は、ブルジョワ革命の線で終始し、それさえも挫折したうえ、社会主義革命が後続しなかったことである。
 中国では社会主義政党の結党は遅れており、20世紀初頭の段階では有力な社会主義政党は存在せず、1917年ロシア革命の影響から1921年に結党された共産党が本格的な初の社会主義政党であったが、中国共産党が最終的に革命により政権を握るまでには、抗日戦争及び国民党との内戦を経て28年の歳月を要している。
 一方、「護法革命」失敗後の孫文は、それまでの知識人中心の革命の限界を超えるべく、より大衆的な基盤を持った革命政党として中国国民党を結党し、急速に台頭してきた共産党とも連携する姿勢を示した。
 これがいわゆる「国共合作」であるが、この新たな局面はロシア革命後のソヴィエトの仲介によっており、1911年に始まる中国独自の共和革命とは切り離されるので、後にロシア革命の項で改めて取り上げることにする。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 共産法の体系(連載第38回) »