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近代革命の社会力学(連載第339回)

2021-12-02 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(3)人民民主党の結成と分党
 概して、イスラーム圏では無神論を基本とするマルクス‐レーニン主義は広範な支持を得にくく、共産党支配下のソ連邦の構成共和国に組み込まれたコーカサス・中央アジア地域のイスラーム系諸国を除けば、同主義の政党はそもそも禁圧されるか、合法化されても少数派政党にとどまっていた。
 ところが、アフガニスタンでは、1960年代に結党されたマルクス‐レーニン主義政党が発展し、70年代の二つの革命で、大きな役割を果たした。これが、アフガニスタン人民民主党(PDPA)である。
 この党は、王政時代の1965年、ジャーナリスト出身のヌール・ムハンマド・タラキーと政府職員出身のバブラク・カルマルの二人を中心に結党された。この両人は社会主義革命後、それぞれ最初と三番目の政権トップに就くことになる。
 このような政党が立ち上がった背景として、前年の近代的憲法の制定に加え、1953年から10年続いたダーウード政権の近代化政策の結果、封建遺風の残るアフガニスタンでも、近代化の拠点であった首都カブールを中心に、革新的な学生運動や労働運動が隆起してきた社会変動があった。
 また、ダーウード自身はマルクス主義者ではなかったが、首相在任中、主として軍の近代化という実利的な観点からソ連に接近して軍事援助を要請したため、この時期にソ連との関係が深まり、ソ連に留学する将校を輩出したことは、PDPAが軍内にも浸透することに寄与したと考えられる。
 もう一つの隠された背景として、パシュトゥン人の伝統的な二大部族連合のうち、バーラクザイ部族の王家を初め支配層を成していたドゥッラーニー部族連合系に対し、PDPAは二人の共同創設者をはじめ、劣勢にあったガルジー部族連合系出自の者が中心を成したというアフガニスタン固有の部族社会的構造が革新政党の中にすら埋め込まれていた。
 PDPAは当初、選挙参加方針を採り、65年に施行された史上初の自由選挙で、早くも4人の当選者を出した。しかし、この最初の小さな成功は党を結束させることにならなかった。というのも、党は早くも共同創設者タラキーとカルマルがそれぞれ率いる派閥に分裂したからである。
 最初の対立点は、結党時の綱領政策の一つでもあった農地改革をめぐるものであり、タラキーは労働者や地方知識人などに支持された人民派(ハルク派)を率いて急進的な農地分配を唱えたのに対し、一方のカルマルは都市のエリート知識人に支持を基盤を置く旗派(パルチャム派)を率いて、より穏健な経済改革を主張したのである。
 この対立は、あたかもロシアにおけるマルクス主義政党・社会民主労働者党がボリシェヴィキ(後の共産党)とメンシェヴィキとに分裂した状況に類似しており、その点でも、ロシア革命をなぞるような経緯が見られる。
 党内力学的に、タラキーが書記長を務める党中央委員会では人民派が優位であったのも、レーニンのボリシェヴィキが優位化する状況に似ていた。
 結局、旗派のカルマルは中央委員を辞任、その結果、1967年には、党は明確に二派に分裂し、事実上は二つの政党に分党されるに等しい形になった。このことは、1969年の第二回総選挙にも影響し、PDPAは獲得議席を半減させ、二議席にとどまる結果に終わった。
 こうして、事実上分党化されたPDPAは議会政党としてはおよそ躍進とは程遠いマイナー政党となったが、一方で、首相を退任した後、政治活動を禁じられながらも、独自に革命構想を練っていたダーウードが旗派に接近していったことが、新段階を開くことになる。


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