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近代革命の社会力学(連載第155回)

2020-10-12 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(4)解放戦争から革命へ
 アンカラに創設された対抗権力の大国民会議が指導する解放戦争は、対アルメニアの東部戦線、対フランスの南部戦線、対ギリシャの西部戦線の三つの大戦線で戦われたが、このうち東部戦線と南部戦線は、1921年までに終結した。
 最大の難関は、対ギリシャの西部戦線であった。バルカン諸国の中では一足早い19世紀前半にオスマン帝国から独立を果たしていたギリシャは、大ギリシャ主義を掲げ、かつてギリシャ人の植民都市や王国のあったアナトリア半島にも侵出し、一種のギリシャ帝国を樹立せんとする野望をあらわにしていた。第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北は、その最大のチャンスと見ていたのだった。
 そのため、ギリシャは総力を挙げてオスマン帝国に敵対しており、西部戦線は一個の独立した戦争(希土戦争)の様相を呈していた。ギリシャ軍がアンカラ近郊まで迫ると、大国民会議を率いていたムスタファ・ケマルは全軍司令官として自ら指揮を執り、22年9月にはギリシャ軍をアナトリア半島から撃退することに成功した。
 この対ギリシャ戦争の勝利をもって、大国民会議の解放戦争はほぼ終結した。これに先立ち、大国民会議はソ連との間に友好条約(モスクワ条約)を締結し、ソ連と結ぶ姿勢を見せていたことも外交的な圧力となり、連合国側も態度を改め、大国民会議との間で新条約を締結し直す方針に転換した。
 ここに至り、アンカラ大国民会議は、国際社会により事実上新生トルコの公式な代表組織として承認されたことになる。そうなると、イスタンブールに残存する皇帝と帝国政府との二重性が改めて問われることになった。帝政は残したうえで、大国民会議を帝国の新たな議会として統合するという道もあり得たが、ケマルは、新条約の交渉を主導するうえでも、大国民会議が単独の政府となる道を選択した。
 1922年11月1日に行われたこの大国民会議決定は、しかし、スルタン(皇帝)を廃するが、カリフ(教主)は存続させるという妥協的な決定であった。これにより、メフメト6世は廃位され、亡命することとなったが、カリフ制は存置され、メフメト6世の従弟がカリフに就任するという複雑な決定がなされた。
 このように、ストレートに共和制移行がなされなかったのは、従来、オスマン皇帝が教主を兼ねるというスルタン=カリフ制によって統治されていたことに由来するもので、イスラーム世界特有の統治論による迂遠な革命プロセスが現れたのであった。
 この時点ではまだ新条約の内容も未定であり、国内ではオスマン家の君主を象徴的に残し、西欧の立憲君主制的な新体制を構築しようという意見や、中世以来のカリフ制を廃することへの保守派の抵抗も考慮されたことが、こうしたいささか中途半端な中間革命を導いたと考えられる。


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