ザ・コミュニスト

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万年野党再考

2016-03-30 | 時評

今月発足した民進党への国民の期待値が上がらないようである。それもそのはず、選挙のたびに新党結成で野党が流動しているようでは有権者も判断不能になり、10年以上不動の自公連合のほうが、支持者でなくとも頼もしく映ってしまう。

ここで思い出すのは、かつての万年野党社会党である。今年は社会党が実質上消滅して20周年に当たる。民進党の母体の一つとなる民主党は万年野党ではなく、政権交代可能な野党を掲げて社会党に取って代わった勢力であった。

そのために、民主党は旧社会党的な社会主義や非武装平和論は却下し、資本主義も自衛隊もOKという「現実主義」を掲げた。その結果、たしかに民主党は政権を獲得できた。だが、その3年余りの政権担当期間は「失われた3年」と評されている。何が失われたかは評者によっていろいろな答えがあろうが、筆者は奇妙にも「野党」と答える。

ここで言う「野党」とは、与党を牽制する反対党のことである。一度政権交代が実現してしまったことで、野党は反対党ではなく、次の選挙で獲物の政権を狙う野獣のような政権交代待ちの次期与党候補にすぎなくなってしまったのだ。

しかし、そんなぎらついた肉食系?野党よりも万年野党のほうが好ましく思える。むやみに政権を追い求めるのではなく、与党の絶対多数を阻止するだけの議席は保持しつつ、高い理想を掲げて政権与党の政策を牽制し、勝手な真似はさせないのが万年野党である。

考えてみれば、社会党万年野党時代の自民党は常勝政権政党でありながら、綱領的文書には掲げていた改憲も事実上凍結し、現在より穏健で立憲的な統治を行なっていた。自民党が改憲の欲望をあらわにし始めたのは、社会党が消滅してからである。

そう考えると、民進党などという中途半端に進歩的なイメージを滲ませた新たなヌエ政党を立ち上げるくらいなら、社会党を復活させてはどうだろう。「立憲主義の回復」「戦争法廃止」などを叫ぶなら、まさしく社会党的ではないか。それとも、こうした勇ましい言葉たちも、政権獲得のための術策的スローガンにすぎないのだろうか。

21世紀の復刻社会党が結果としてまたしても万年野党となろうと、差し支えないだろう。自動車は変わらず運転手だけが交代するがごとき政権交代の虚しさは、まだ国民の記憶に新しいはずだからである。

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戦後ファシズム史(連載第28回)

2016-03-29 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐2:韓国の開発ファシズム(続)
 1979年の朴正煕大統領暗殺事件は、韓国にとって60年の李承晩政権打倒以来、およそ二十年ぶりにめぐってきた民主化のチャンスであった。しかし、これに対して、全斗煥将軍ら朴に忠実な右派軍人グループが介入する。
 全斗煥は朴体制下で中央情報部と並ぶ政治弾圧機関であった国軍保安司令部の司令官職にあったが、この立場を利用して、陸軍参謀総長ら軍上層部を拘束または退役に追い込み、実権を掌握した。この過程は「粛軍クーデター」と称されるが、実態は下克上的クーデターであった。
 軍の実権を握った全は翌年、朴暗殺事件後に敷かれていた非常戒厳令を拡大し、民主化運動を力で阻止した。この過程で、光州では戒厳軍が学生デモを武力鎮圧し、200人以上が死亡または行方不明となる事件が発生した。
 一方で、社会的不良分子の一掃を名目に数万人を検挙し、軍内に設置された特別教育隊で矯正訓練を受けさせ、肉体的・精神的な拷問に等しい虐待を組織的に行なうなど、朴政権でも見られなかったナチスばりの社会浄化政策が断行された。
 こうして民主化のチャンスはまたしても軍部によって奪われ、80年8月には全が大統領に就任、朴時代の憲法を修正したうえで、翌81年以降、全が改めて大統領に就任して全政権が正式に発足する。
 新憲法では大統領権限が若干制限され、再選禁止規定も盛り込まれるなどの修正が加えられたものの、朴政権下での政治弾圧において猛威を振るった反共法は国家保安法に統合・拡張されたほか、言論統制法も整備され、ある面では朴政権のファッショ性をいっそう強化する面も見られた。
 政治的には、新たな政権与党として民主正義党が組織された。朴時代の与党民主共和党に比べると「正義」のイデオロギー色が増した観はあるが、包括的右派政党としての機能の点では大差ないものであった。経済面でも、朴時代の末期にマイナス成長に転じていた経済を改善させるため、開発政策をより大統領主導で推進したため、全政権は基本的には開発ファシズム体制の延長という性格を帯びていた。
 ただ、全が朴と決定的に違ったのは、憲法の大統領再選禁止規定を遵守したことであった。80年憲法では任期七年とされていたが、全はこの規定に従い、88年に大統領を退任したのである。これは独立・建国以来初めて大統領が任期満了をもって平穏に退任した例であり、以後任期五年に短縮された今日までこの先例が踏襲されているのは、民主化を準備した全政権の「功績」と言える。
 その伏線は前年6月に全の最有力後継候補だった同期軍人出身の盧泰愚が大統領直接選挙制への(再)改憲を含む八項目から成る「民主化宣言」を発したことにあった。これには学生らの民主化要求デモの高まりと88年の開催が決定していたソウル五輪という内外事情が作用していたと考えられる。
 87年12月の大統領選挙では野党陣営の分裂にも助けられて盧泰愚が比較多数の得票で当選を果たした。盧政権は軍出身ながら漸進的な民主化移行政権の性格を持ち、続く93年の野党金永三政権の発足をもって朴体制以来の開発ファシズムは正式に終焉したのである。
 金永三政権下では、全・盧の両氏が80年の粛軍クーデターや光州事件に関連し、首謀者として訴追され、有罪判決を受け、開発ファシズムに対する一定の清算がなされた。なお、両氏は不正蓄財についても法的追及を受けたが、これは開発ファシズムに伴いがちな利権汚職の一面を示している。

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戦後ファシズム史(連載第27回)

2016-03-28 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐1:韓国の開発ファシズム
 韓国現代史上1961年の軍事クーデターから87年の「6.29民主化宣言」までは軍部が政治の中心にあったが、このおよそ四半世紀を仔細に見ると、単純な軍部独裁体制ではなく、経済開発を至上価値とする不真正ファシズムの特徴を認めることができる。
 その出発点となったのが、1961年の朴正煕将軍を中心とする少壮軍人によるクーデターであった。これは前年の「学生革命」により独立・建国以来の李承晩政権が倒れ、民主化移行期にあった中で、社会の左傾化を恐れる少壮軍人らが仕掛けた反革命的な政変であった。
 「革命公約」なるものを掲げた軍事政権は、その筆頭に「反共体制の再整備」を挙げ、これを軸とした国家体制の全体主義的な再編を狙っていたことからも、この政権は反共擬似ファシズムの性格を示していた。革命公約は最後に「革命事業の完遂後、清新な政治家への政権移譲」を挙げていたが、クーデターから二年後の63年には、朴自身が軍を退役して自ら民選大統領に就任し、形式上民政移管を実行した。
 これ以降の朴体制は出身の軍部を基盤としながらも、包括的右派政党の性質を持つ民主共和党を与党とする民政に衣替えして79年まで継続していくが、それは南北分断状況の中で、北韓(北朝鮮)との対峙を名目に、民主化運動や野党を弾圧する不真正ファシズムの体制であった。
 対外的には一貫した反共親米政策の下、とりわけベトナム戦争で異例の全面的な協力体制を取り、同盟国中では最大規模の支援部隊を派遣した。結果として、韓国軍は米軍とともにいくつかの反人道的作戦の協同者ともなった。
 一方、経済的には旧宗主国日本からの経済援助をベースに、ベトナム戦争特需も加わり、短期間での急速な経済開発・成長を主導した。そのために、国内の反対を押して65年には韓日国交正常化を果たし、対日請求権を放棄する策に出たことは、慰安婦問題の積み残しなどの禍根を残すこととなった。
 ただ、朴政権下の60年代後半から70年代にかけて、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長が見られたことは事実である。その面から言えば、韓流開発ファシズムは成功例の一つに数えられるが、それは抑圧体制下での多大な人的犠牲を代償としていたことも否定できない。
 朴は自身が制定した憲法の多選禁止規定を消去し、落選の危険のない大統領間接選挙制を導入するため、72年に非常戒厳令を発動して国会を翼賛機関化する憲法改正を強行し、事実上の終身政権への道を開いた。これ以降の朴政権(いわゆる維新体制)は真正ファシズムに限りなく接近し、この間、野党指導者金大中(後に大統領)拉致事件をはじめとする弾圧・冤罪事件が続発している。
 しかし磐石に見えた朴政権は79年、大統領暗殺という衝撃的事件によって突如終焉した。犯人が側近の金載圭中央情報部長だったことも衝撃を倍加した。中央情報部こそは、朴体制を支える中心的な政治弾圧機関だったからである。
 金載圭はスピード審理で死刑判決を受け、翌年には処刑されたため、背後関係を含めた事件の詳細な真相は不明のままであるが、彼の決死行動は結果として民主化の機会をもたらした。「ソウルの春」とも呼ばれたこの民主化チャンスはしかし、故・朴大統領子飼いの全斗煥将軍を中心とする少壮軍人グループによる新たなクーデターにより奪われた。
 1961年クーデターをなぞるような過程をたどって80年以降全斗煥政権が樹立されるが、この政権は朴政権の事実上の後継政権としての性格と民主化準備政権としての性格を併せ持つ両義的なものであるので、項を改めて見ることにする。

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「女」の世界歴史(連載第16回)

2016-03-23 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

②ゲルマン王権とサリカ法典
 西ローマ帝国がゲルマン人傭兵によって滅ばされて以降、西欧社会はゲルマン人を軸とした騎士封建社会を迎えるが、その中心を担ったのは、多岐に分かれたゲルマン人諸部族の中でも強力なフランク族であった。
 フランク族系統一王国の嚆矢となったメロヴィング朝は、その開祖クロヴィスの時代にサリカ法典と呼ばれる重要な基本法を制定した。この法典を有名にしたのは、女子の土地相続権を否定する条項である。フランク族を含むゲルマン民族の部族慣習によると、土地は父系男子の間で分割相続されたことから、サリカ法典にもこうした規定が明文をもって引き継がれたと考えられる。
 ただ、これはあくまでも不動産としての土地の相続に関する条項であるところ、拡大解釈されて、王権の継承にも適用されるようになった。おそらく国土は包括して王に属すると観念されるところから、このような拡大解釈が生まれたのであろう。
 その結果、ゲルマン系諸王朝では女性または女系子孫の王位継承は法律違反として禁じられることになった。この原理はフランク族の流れを汲むカペー朝の血統が続いたフランス王国では暗黙裡に最も厳格に貫徹され、結局、他の多くの欧州諸国とは対照的に、フランスでは市民革命を経て19世紀の最終的な王制廃止に至るまで、一人の女王も輩出することはなかった。
 このような女権排除は当然にも、先王に男子がない場合には深刻な後継者問題を生じさせることになる。この問題が最初に現実化したのは、カペー朝12代のルイ10世が1316年に死去した時である。10世の死後に出生した息子のジャン1世も生後間もなく死去したことで、男子継承者が断絶した。
 そこで重臣らの間ではルイ10世の娘ジャンヌを初の女王として推す声があったが、ジャンヌは生母の不倫による子ではないかとの疑惑が存在したことから、ルイの弟フィリップがサリカ法を持ち出してジャンヌの王位継承を阻止、自らフィリップ5世として即位した。
 ちなみに、フランス王位を外されたジャンヌは父からスペインのナバラ王国の王位を継承し、夫のフェリペ3世とともに共治女王フアナ2世となった(夫の死後は単独女王)。バスク系のナバラ王国にはサリカ法典の制約は及ばなかったからである。
 次により大きな動乱のもととなったのは、フィリップ5世を継いでいた弟のシャルル4世が1328年に男子継承者なくして死去した時であった。シャルル4世には末弟がいたが、すでに早世しており、サリカ法典を厳格に適用する限り、カペー朝はいよいよ断絶するはずであった。
 しかし、シャルルの従弟がフィリップ6世として即位することでつなぎとめ、カペー朝分流のヴァロワ朝を改めて創始した。ところが、これに対してイングランド国王エドワード3世が異議を唱え、自らフランス王位を請求したことで、英仏百年戦争が勃発する。
 エドワードの生母はシャルル4世の姉イザベラであり、母系を通じてフィリップ4世の孫に当たることが王位請求の根拠であったが、これはサリカ法典上王位継承が認められない女系子孫であり、法律的には難があった。
 中世欧州の大戦争であった英仏百年戦争は、フランスに勝利をもたらす女性戦士ジャンヌ・ダルクという稀代の女傑を生むが、これについては後に別項で論じることにする。

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「女」の世界歴史(連載第15回)

2016-03-22 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第二章 女性の暗黒時代

[総説]:男性優位社会の確立
 古代国家の時代、女性の地位はすでに後退していたが、古代国家には女王・女帝の姿も見られた。しかし、古代を過ぎると女性の地位はいっそう低下し、「魔女狩り」のような大量的な女性抑圧事象も経験する暗黒時代となった。
 そうなった要因として、ポスト古代国家は戦士の時代だったことがある。欧州では騎士が社会の主役となったし、極東の日本でも武士の台頭が見られた。イスラーム世界も、イスラーム教団そのものが同時に戦士団でもあった。
 戦士は身体能力的に専ら男性の仕事である。そうした戦士が中心に立つ社会は必然的に男性主導型社会となり、女性には家庭の奥にあって夫を支える内助の功が求められる。女権はタブーとなり、「女性権力者=悪女」というイメージも高められたであろう。
 こうした女性の周縁化は、女神も活躍する古代の多神教に代わって、キリスト教やイスラーム教のように父権的な性格の強いセム系一神教の創唱と国際的な普及によっても後押しされ、男尊女卑思想も広まっていった。
 しかし、そうした中でも例外的に台頭し得た女傑は存在する。女傑たちは正式の政治的・軍事的な地位を得られなくとも、事実上の権勢家あるいは自ら戦士として男性たちを導くことさえあった。だが、そのために悲劇的な代価を支払わされることもあった。
 第二章ではこうした女性抑圧体制の世界歴史的な諸相と、その中にあって存在感を示した東西の女傑たちの事例を取り上げ、暗黒時代における「女」の姿をとらえていく。

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(1)女権抑圧体制の諸相

①キリスト教と女性
 ヨーロッパ中世における女性の受難を最初に予告した事件は、ローマ帝国東西分裂後の西暦415年に起きた女性哲学者ヒュパティアの虐殺事件であった。
 ヒュパティアは、プトレマイオス朝時代以来の伝統を持つエジプトのアレクサンドリア図書館の最後の館長を務めた天文学者・数学者にして哲学者でもあったテオンの娘にして、自身も文理にわたる広範な学識を持つ新プラトン主義の哲学者であった。
 ヒュパティアはアレクサンドリアの新プラトン主義の学園で哲学の講義を行っていたが、父と同様、天文学や数学に通じていた彼女の教えは、迷信を排し、自ら思考することの大切さを説くある種の科学的なものであったがゆえに、危険視された。
 というのも、時はローマ帝国がテオドシウス帝の治下、キリスト教を国教化して間もない頃で、キリスト教会の権勢が強まっていたからである。ヒュパティアの学問は、キリスト教の見地からは異端的であった。
 412年、原理主義的なキュリコスがアレクサンドリア総司教に就任すると暴力的な異端排撃の風潮は最高潮に達し、ついに415年、ヒュパティアの虐殺が起きる。学園への出勤中、武装した修道士に襲撃された彼女は、馬車から引き摺り下ろされ、教会内に連れ込まれて牡蠣の貝殻で生きたまま肉を骨から削ぎ落とすという残酷な方法で殺害された。明らかに見せしめのリンチ殺人であった。
 ヒュパティアの虐殺はアレクサンドリアの知識界に衝撃をもたらし、学者たちの亡命とギリシャ学問の終焉のきっかけとなったと評されるが、ヒュパティアがここまでむごたらしく見せしめにされたのは、女性だったこともあっただろう。ギリシャ哲学の長い伝統の中でも、女性哲学者は極めて異例であり、その異端性を倍加させていたからである。
 ヒュパティアの時代にはまだ「魔女狩り」は起きていなかったが、女性でありながら男性を相手に堂々と学問を説く彼女の存在は、キリスト教徒男性にとって魔性的な脅威と映ったはずである。
 一般的に、キリスト教は教義上女卑的であるわけではなく、原初教会には女性司祭も少なくなかったとされるが、ヒュパティア虐殺事件のあった5世紀頃までには女性司祭は排除されていたという。これは教義上よりも教会制度上の変化である。
 ちなみに、新約聖書でイエスの女性従者とされるマグダラのマリアも、その出自に関する確証はないにもかかわらず、カトリック教義ではいつしか「悔い改めた娼婦」であるとされるようになったのも、女卑観に基づくものと言えるかもしれない。

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カリブ海の雪解け

2016-03-21 | 時評

暖かなカリブ海を何十年も政治的に凍らせてきた米国とキューバの対立緊張関係がほぐれ始めている。米国‐キューバ関係は、南北朝鮮分断と並び、世界的にはすでに終焉した旧冷戦構造の残雪の一つであった。

無益な体制間対立が終わるのは必然的なことではあるが、ここへ来て、54年ぶりの国交回復、88年ぶりの米大統領のキューバ公式訪問と急速に両国関係が改善に向かっているのは、両国体制の弱体化の表れでもある。

米国のオバマ政権はあたかも旧ソ連最後のゴルバチョフ政権のように、覇権国家の終末期を象徴する「改革」政権であり、片やキューバの現カストロ政権は歴史的な後ろ盾ソ連を失い、苦境に陥る中、高齢の革命指導者フェデル・カストロが引退した後を受けた実弟ラウルの「改革」政権である。

17年に退陣するオバマ政権は極右からは「社会主義」に見えるほど、米国戦後史上最も「左傾化」した政権であり―実際は中道寄り―、一方、18年退陣予定のラウル政権は社会主義の枠内で市場経済化を進める「右傾化」した政権であり、ちょうど両者間である種の収斂化現象が起きて、緊張緩和に向かっている。

両体制は、目と鼻の先でかつてのような激しい政治対決を続けるだけの覇気をもはや持っていない。相互に貿易や観光での関係を強化し、市場経済協力をせざるを得ない状況である。

それによってキューバが革命前の対米従属経済に逆戻りする可能性もあるが、それは標榜上の「社会主義」によって抑止されるのかどうか、これはキューバがカストロ兄弟の手を離れる次期政権の手腕にかかっている。

他方、米国保守派の中には「人権問題」などを口実に対キューバ融和に反対する勢力もあるが、中米カリブ地域をかつてのように戦略的な「米国の庭」に戻そうとするのは、はかない夢にすぎない。

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真の変革対象は「二党支配制」

2016-03-16 | 時評

教科書的には、米国の政治システムは「二大政党制」と呼ばれている。しかし、正確ではない。米国では連邦、州、自治体を問わず、事実上民主・共和両党しか政権を担うことができない仕組みが徹底しており、その実態は両党で全米を山分けする「二党支配制」である。

米国は法的には多党制であり、両党以外の政党の結成も自由だが、小党候補者が選挙で当選に必要な得票をすることができない仕組みが作られている。「集金力=集票力」という選挙の鉄則が米国では徹底しているからである。

そうした金権選挙システムの頂点にあるのが、合衆国大統領選挙である。結果として、人材の党派的偏りと富裕なエスタブリッシュメントに属しない候補者の大統領就任は不可能な状況が作り出されてきた。

民主党で「社会主義者」サンダースが「主流派」のクリントン候補を相手に「善戦」し、共和党でも「主流派」が脱落し、極右系候補の争いとなっているのも、永年の二党支配制に対する米国民の苛立ちと不満を表現しているように思える。

サンダースは従来、無所属の上院議員として二党支配制の枠外で議席を維持していた数少ない政治家だったが、大統領選に当たっては集票しやすい民主党から立候補している。彼は「変革」を訴えているが、真の変革対象はまさに彼自身もそれに依拠しようとしている二党支配制のはずだ。

であれば、無所属のまま立候補するか、その政治信条に沿った第三政党として「社会党」を結党して立候補するか、いずれかが筋ではなかったか。この問題を素通りするなら、「サンダース社会主義」は「トランプ福祉」と同じくらい疑わしいものとなるだろう。

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極右化する米共和党

2016-03-16 | 時評

米共和党の大統領候補者指名選挙で、「主流派」と目されたルビオ候補が撤退を表明したことで、レースは首位を行くトランプとクルーズ二者の争いにほぼ絞られた。だが、これによって共和党の候補者争いは、差別主義者対宗教右派の対決構図となったことになる。

トランプを周回遅れで追走しているクルーズ上院議員は超保守的な南部バプティスト連盟に所属するキリスト教右派にして、反福祉・富者優先主義のティーパーティ運動の支持も得ている筋金入り保守強硬派である。

その政策信条には、自由貿易促進・米国愛国者法再法制化・死刑制度支持・銃規制反対・進化論否定・地球温暖化否定・人工妊娠中絶反対・国民皆保険制度反対・均等税導入・最低賃金引き上げ反対・不法移民合法化反対・LGBTの権利確立反対・マリファナ合法化反対・障害者権利条約の批准阻止・小さな政府と新自由主義支持・イスラエルとの同盟強化・イランやキューバとの融和路線反対・イスラム国に対する絨毯爆撃実施等々、アメリカにおける超保守派の政策のすべてが網羅されている(WIKIPEDIA日本語版の紹介による)

トランプとの違いがあるとすれば、宗教右派的な信条と福祉政策である。トランプはその本心はともかく、ティーパーティー派とは一線を画し、年金制度や医療保険制度などの維持も主張している。しかし「トランプ福祉」はナチスなども駆使した右派ポピュリズムの飴玉政策であり、ニューディール政策のような社会民主主義的な志向性を持つものではない。

結局のところ、トランプとクルーズのレースは、毛色と支持層を異にする極右同士の争いにすぎず、「主流派」が早々と脱落した米共和党は今や単なる保守政党ではなく、極右政党に変質しつつあると言うほかない。

指名選挙を制して本選挙に進んだいずれの共和党候補が勝利しても極右政権が成立することは間違いないだろう。「トランプ政権」なら米国史上最もファシズムに接近する政権となり、「クルーズ政権」なら米国史上最も反動的な超保守政権となる。どちらにせよ世界の拒絶反応は避けられず、米国は孤立するだろう。

※追記
クルーズ候補は、5月3日、指名選挙からの撤退を表明した。

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戦後ファシズム史(連載第26回)

2016-03-15 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5:開発ファシズム
 戦後、帝国日本や欧米の植民地支配から解放され、独立したアジア・アフリカ諸国では、低開発状態から急速な経済開発・成長を達成するために、あえて独裁的な体制を構築する例が少なくなかった。
 その中でも、ソ連型ないしは「独自」の社会主義的な志向性を持った体制は別として、反共・資本主義路線を志向した体制は、左派勢力を排除しつつ、国家主導による経済開発を上から強力に推進するため、国家絶対の全体主義的な体制を構築する傾向があった。
 こうした体制は東アジアから東南アジアにかけて1960年代以降林立するようになり、しばしば漠然と「開発独裁」と指称されたが、「開発独裁」とは仔細に見れば、資本主義的な経済開発を一元的な至上価値として国民を政治的に動員する「開発ファシズム」と呼ぶべき実質を備えていた。
 その嚆矢の一つが前回見た台湾における60年代以降の国民党ファシズム体制であったが、それ以外にも、韓国、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどに順次類似の体制が構築されていった。このうち、シンガポールは開発ファシズムから現代型の管理ファシズムに転形された現在進行形の事例でもあるので、続く第四部に回し、第三部ではその余の事例を取り上げることにする。
 これら開発ファシズムの権力基盤は軍人が主導する場合は軍部に置かれたが、長期支配を可能とするために形式上民政移管したうえで翼賛的な政党を結成し、政治動員マシンとして活用するのが通例であった。文民主導の場合も含め、開発ファシズムの政党組織は綱領上ファシズムを採用せず、あいまいな包括的反共右派政党の形態を採ったので、開発ファシズムとは類型上不真正ファシズムであった。
 このような体制がとりわけ東南アジアを含む広い意味での東アジアに集中した理由を明確に言い当てるのは難しいが、一つには東アジアに共通する権威主義的な政治文化の土壌の上に成り立った「アジアン・ファシズム」という共通根を持つように思われる。
 東アジア以外の地域では、戦後、アジアよりも遅れて低開発状態からスタートしたアフリカの新興諸国にもわずかながら開発ファシズムの特徴を持つ体制が現われたが、それらは東アジアの諸体制のような成功を収めることはなかった。第二部でも指摘したように、アフリカでは多民族・多部族社会を単一の国家に束ねて国民を動員することの困難さがつきまとったからであった。
 ただ、参照的な比較のため、ここでは、最終的には失敗に終わったものの時限的な成功例に数えられる西アフリカのコートディボワールと東アフリカのマラウィの事例を個別に取り上げることにする。

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戦後ファシズム史(連載第25回)

2016-03-14 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

4:台湾の国民党ファシズム
 
戦後、帝国日本や欧米列強の植民地支配から解放された新興アジア諸国は直ちに民主化へと向かわず、程度の差はあれ独裁的な体制が出現しがちであったが、いくつかの国では不真正ファシズムの特徴を持つ体制も立ち現われた。その嚆矢は、台湾である。
 周知のように、中国では日本の敗戦・撤退後、それまで共通の敵日本に対処するため、便宜上「合作」していた国民党と共産党の対立が再燃、内戦となり、1949年に共産党が勝利、蒋介石に率いられた国民党は台湾へ敗走した。
 国民党は沿革的には孫文に指導されて1912年辛亥革命を主導したブルジョワ民主主義勢力であり、ファシズムを綱領とする政党ではないが、台湾占領後の蒋介石は国民党を事実上のファシズム体制のマシンに改変してしまった。
 その重要な契機となったのは、47年の2・28事件であった。これは同年2月28日、日本の撤収後に進駐してきていた国民党当局の不正や腐敗に抗議する台湾本省人による民衆デモに対して、治安部隊が無差別発砲で武力鎮圧した事件である。全島規模に拡大した騒乱の犠牲者は最大推計で約3万人に上ると見られる。
 これ以降、国民党当局は87年の解除まで戒厳令を恒常的に敷き、国民党支配体制に反抗する者には徹底した弾圧を加えた。ブルジョワ民主憲法の性質を持っていた中華民国憲法は付属条項として追加された動員戡乱時期臨時条款によって事実上効力を停止され、その間、蒋介石は75年の死去まで事実上の終身総統として君臨し、個人崇拝が行なわれた。
 こうした軍人蒋介石の個人的権威を核とした全体主義体制は、戦後同時期に並立したスペインのフランコ体制にも類似した権威ファシズムの特徴を濃厚に持っていたと言える。ただ、蒋介石は伝統ある国民党そのものは自己の統治マシンとして利用しつつも維持し続けた。
 大陸反攻の機を窺う蒋介石体制は大陸側を支配する共産党への対抗から当然にも反共主義を内外政策の核心としていたが、大陸反攻の可能性が次第に潰え、71年には国連における地位を共産党中国に取って代えられ、後ろ盾のアメリカもついに共産党中国の国家承認に方針転換すると、蒋介石体制は台湾政権として純化されていく。
 すでに60年代から米日を中心とした外資導入による経済開発が開始され、蒋介石晩年の73年頃まで「黄金の10年」と称される高度経済成長を経験していた。この頃から、国民党体制は次項で改めて見る「開発ファシズム」の性格を帯び始めていたとも言える。
 この傾向は、75年に蒋介石が死去し、息子の蒋経国が後任総統に就任すると、いちだんと強まる。経国は父とは異なり文民出身であり、台湾の工業化、国際競争力の強化に重点を置き、その成果をもとに体制の民主化に着手する。皮肉にも世襲という非民主的な政権継承により体制は徐々に民主化へと向かうのである。
 経国政権末期の87年には戒厳令が解除され、経国が死去した88年以降、後を継いだ本省人テクノクラート出身の李登輝総統のもと、96年に史上初の総統直接選挙、そして2000年には野党民主進歩党(民進党)への政権交代と台湾の民主化が進んだ。
 現在の国民党は台湾独立論に傾斜した台湾ナショナリズムの傾向を持つ民進党と並ぶ台湾二大政党政における共産党融和派の保守系政党として存続しており、ある意味では孫文時代の原点に戻ったとも言える。
 結局のところ、台湾における不真正ファシズムは蒋介石・経国父子時代における国民党独裁の時限的現象であり、それは李登輝時代の動員戡乱時期臨時条款廃止、憲法改正を経て民主的な立法院(国会)総選挙が実施された92年をもって終焉したと評価できる。

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「女」の世界歴史(連載第14回)

2016-03-08 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑥奈良朝「女帝の時代」
 前回触れたように、日本の奈良朝時代は「女帝の時代」として、日本史上はもちろん、同時代の世界史上も稀有の一時期となっている。この時代は藤原京から平城京への遷都に始まるが、その当時の天皇が女帝の元明天皇であったから、まさに女帝の治世で始まっている。元明天皇は天智天皇を父に持ち、藤原京を完成させた持統天皇の異母妹にして息子の嫁でもあった。
 そのような血脈から、草壁皇子との間の子であった文武天皇が夭折した後を受けて即位した。皇后を経ず即位し、生涯非婚を通した最初の女帝であり、かつ前天皇の生母が即位した唯一の例でもある。しかも、元明天皇は715年、やはり草壁皇子との間の娘である元正天皇に譲位した。女帝が二代連続したのも皇位が母から子へ譲位されたのも唯一の事例であり、この時代の異例さがわかる。
 ここまで異例の皇位継承が続いた実際的な理由は、「本命」である文武天皇の遺児・首皇子〔おびとのみこ:後の聖武天皇〕がまだ年少であったこともあろうが、それ以上に持統天皇によって作り出された女権尊重の風潮が強かったことも考え合わせなければ、十分な説明はつかない。
 満を持して724年に即位した聖武天皇は久しぶりの男帝であったが、正妃光明子は藤原不比等と橘三千代の間の娘であり、彼女が史上初めて皇族以外から立后されるに当たっても母の三千代が何らかの関与をしたと思われ、二代の女帝時代から続く女性官僚三千代の権勢は皇后生母としてさらに増強されたと考えられる。
 熱心な仏教徒だった光明皇后は悲田院や施薬院の創設に代表されるように、国家による救貧・医療政策の先駆けとなる施策を主導したが、こうした民生重視の姿勢には史上初の人臣出身皇后としての視点も読み取れる。
 聖武天皇は病弱だったと言われ、在位中から政治的な野心が強かったらしい光明皇后の影響下にあったようである。聖武天皇と光明皇后の間には男児も生まれたが夭折したため、738年、長女の阿倍内親王を皇太子とした。これは史上最初にして唯一の女性皇太子である。この立太子には光明皇后の意向も強く働いたと見られ、ここにもまた女権の強い奈良朝の異例さが現われている。
 阿倍内親王は749年、聖武天皇の譲位を受け、即位する(孝謙天皇)。しかし、母の光明皇太后は皇后の家政機関であった皇后宮職を紫微中台と改称し、野心家の甥藤原仲麻呂を長官に抜擢して、天皇の後見人の立場で政治の実権を握った。
 この間、孝謙天皇は光明皇太后存命中の758年に天武天皇の孫に当たる大炊王〔おおいおう:淳仁天皇〕にいったん譲位し、上皇に退くが、女帝の時代はこれで終わらなかった。764年、孝謙上皇は淳仁天皇の下で専横していた仲麻呂を討ち、天皇を廃位・配流に追い込んだうえ、自ら天皇に復位したからである。
 こうして事実上のクーデターで重祚を果たした孝謙上皇改め称徳天皇の治世がさらに770年まで続く。この第二次治世は怪僧道鏡が天皇側近として権勢を持つ専制的な寵臣政治に陥り、有名な宇佐八幡宮神託事件をはじめとする政治的怪事件や皇族への粛清が続発する不穏な時期であった。
 しかし、生涯非婚で継嗣のない天皇が770年に病没すると、道鏡も下野薬師寺別当に左遷され、次代天皇は天智天皇の孫に当たる男帝の光仁天皇となった。これ以降、女帝は江戸時代初期の明正天皇に至るまで、実に859年もの間途絶する。

補説:女帝回避時代
 古代日本の「女帝の時代」は称徳天皇をもって終焉したが、この後も近代になるまで女性天皇は法制上否定されることはなかった。にもかかわらず、900年近くも女帝が回避された理由は定かでないが、称徳天皇の治世があまりに専制化・不穏化したため、「女帝では治まらない」という意識が朝廷に定着し、後世にも悪しき先例として参酌されたことがあるかもしれない。ちなみに称徳天皇と道鏡は愛人関係にあったという風説もあり、実際そう疑われても不思議はないほどの密着ぶりではあったが、確証はなく、これも後世、女帝回避の名分として創作された「醜聞」であった可能性がある。

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「女」の世界歴史(連載第13回)

2016-03-07 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑤古代日本の女権
 古代日本は中国から多くの文物を摂取したことは周知のとおりであるが、中国王朝とは対照的に、かつ同時代の古代国家としても異例なほど女帝を多く輩出した。当時の日本の女権に関する観念は、東アジア全体でも相当に異質的であったようである。
 記録上、日本最初の女性君主と目されるのは邪馬台国の女王卑弥呼である。邪馬台国の主要な情報源である中国史書『魏志』によれば、本来は巫女である彼女が登位した経緯は通常の王位継承によるものではなく、その宗教的な権威を利用して小国間の内乱を平定し、ある種の連邦国家を創設するためとされる。
 従って、邪馬台国自体が一種の平和条約体制であったと考えられ、卑弥呼の役割は統合の象徴的なもので、政治的な実権はほとんどなかったとも想定できる。卑弥呼の没後はいったん男王が継いだが、再び内乱となったため、卑弥呼の親族に当たる台与が女王に就いたとされる。しかし台与の治世及びその後についての詳細な記録はなく、邪馬台国の情報は途絶える。
 その後300年以上を経て、いわゆるヤマト王権が確立された6世紀末に出た推古天皇(当時まだ天皇号はなかったが、ここでは便宜上天皇呼称に従う)を皮切りに、8世紀の奈良朝にかけてのべ八代(実数では六人)の女性天皇を輩出する時代を迎える。なかでも奈良朝時代はのべ四代、通算で32年にわたり女性天皇の治世を経験した「女帝の時代」でもあった。
 対照的に女性天皇が法律上否定されている今日からすると、時代が逆転しているかのように古代日本に女性君主が多数輩出された理由は、定かでない。ただ、弥生時代に属する卑弥呼は別として、飛鳥・奈良時代の女性天皇の出自をみると、いくつかの特徴がある。
 まず飛鳥時代の推古、皇極=斉明(重祚)、持統の三天皇はいずれも皇后を経験している。言わば、皇后からの昇格型である。ただし、推古朝では聖徳太子及び蘇我馬子、皇極朝では蘇我入鹿、斉明朝では中大兄皇子といった男性執政者が実権を持ち、女性天皇に実権はほとんどなかったようである。筆者は、推古天皇については自身も王位に就いた蘇我馬子との共同統治、皇極=斉明天皇は正式の「天皇」ではなかったとする異説に立つが、ここでは行論上『日本書紀』をベースとする通説に従っておく。
 しかし、持統天皇は夫の天武天皇から早世した実子の皇太子草壁皇子の遺子(後の文武天皇)につなぐまでの中継ぎのように見えながら、上皇時代を含めた自身の治世では律令的天皇制国家の確立を主導するべく、専制的な権力を振るっており、中継ぎ以上の「本格派」女帝であった。
 持統天皇はまた女性官僚の登用にも熱心で、藤原氏隆盛の基盤を築く藤原不等比と再婚して光明皇后を生んだ橘三千代のような有力女性官僚を輩出させた。奈良朝の三人の女帝はいずれも持統天皇の血縁者たちであり、奈良朝はフェミニスト持統天皇によって開かれたとも言えるかもしれない。

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戦後ファシズム史(連載第24回)

2016-03-02 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

3:南アフリカのアパルトヘイト体制
 カナダ・ケベック州の民族同盟体制と同時期に立ち現われた国家レベルでの不真正ファシズムに数えられるのは、南アフリカで半世紀に及ぶ悪名高い人種隔離政策(アパルトヘイト)を敷くことになる国民党体制である。
 南アフリカの国民党は、1910年に英国自治領として実質上独立した南アフリカの支配層である主としてオランダ系白人(アフリカーナー)の権益を護持することを目的として1915年に結成された白人至上主義政党である。その意味では民族主義的政党であり、党名Nasionale Party(英語名National Party)は本来「民族党」と訳すべきだが、ここでは定訳の「国民党」に従うことにする。
 このように国民党はナチ党やイタリアのファシスト党よりも歴史の古い政党であり、綱領上も純粋のファシスト政党とは言えない。しかし、戦前にはナチスに共鳴する幹部党員も少なくなく、思想的なつながりは強い。
 国民党は戦前にも24年から34年にかけて政権を担った経験を持つが(24年から33年までは労働党との連立)、本格的に政権を担うのは、戦後の48年総選挙で勝利して以降である。ただし、この時は従来の政権党でより穏健な連合党を5議席上回るだけの辛勝であり、選挙協定を結んだアフリカーナー党との連立政権となった。
 51年にアフリカーナー党と合併してからは、94年の史上初となる全人種参加選挙で敗北するまで、実に総選挙十連勝の常勝・政権独占政党として戦後南アに君臨する。その中心的な施策アパルトヘイトの内容については人種差別という観点からの膨大な解説・分析がすでに存在するが、その政治思想的性格については必ずしも十分に解明されているように見えない。
 アパルトヘイト政策の底流にあるのは、まさしくナチ的な白人優越思想であった。ただし、南ア社会は人口の10パーセント程度を占めるにすぎない白人だけでは維持できず、圧倒的多数を占める黒人層は安価な被搾取労働力として不可欠であったため、大量殺戮のような民族浄化ではなく、参政権を与えず、厳格な居住制限と婚姻制限をかけることで「隔離」することが主要な政策手段となった。
 そのために、政治経済の根幹に関わる黒人参政権の否定と原住民土地法、集団地域法(居住制限)が三本柱となり、これを雑婚禁止法、背徳法(白人‐有色人種間の性交禁止)、パス法(身分証明書携帯義務)といった生活統制法が支えるアパルトヘイト法体系が整備されていった。
 ちなみに、こうしたアパルトヘイト法体系とは別途、治安法規として共産主義鎮圧法という反共立法も備えていた。これは白人の共産主義者にも適用され得る汎人種的立法の形を取ってはいるが、南ア当局は同法を反アパルトヘイト運動全般に拡大適用したため、同法は本来の共産主義抑圧よりも、黒人解放運動の弾圧手段として機能していた。
 他方、この間、政体としては議会制が維持され、61年にアパルトヘイトを非難した英国への反発から英連邦を離脱し、大統領共和制へ移行してからも、大統領は議会によって選出される複選制を採用するなど、議会中心主義が保持された。従って、48年から94年の政権喪失まで南ア国民党体制は独裁者と呼ぶべき指導者は一人も出さなかった。言わば「独裁者なきファシズム」である。
 この点で、南ア国民党体制はファシズムの成立にカリスマ型独裁者の存在は不可欠と解するある種の政治常識を覆す事例だったとも言える。とはいえ、多数派黒人の参政を排除した白人オンリーの野党勢力は脆弱で、国民党の圧倒的優位という事実上の一党独裁を結果し、そうした「集団独裁」の上に成り立つファシズム体制であった。
 アパルトヘイトは表向き国際社会から非難されながらも、アフリカ有数の資源大国にしてアフリカ随一の資本主義経済大国に成長した南アとの経済関係を維持したい西側諸国―そこには「名誉白人」待遇を受けていた日本も含まれる―及び南ア経済に依存する周辺の黒人系新興諸国によっても支えられ、半世紀も生き延びることができた。
 しかし、国際社会による経済制裁や国際競技会からの締め出しなどの南ア孤立化政策が次第に功を奏し、80年代以降、徐々にアパルトヘイトの緩和が進んでいった。最終的には、ここでも冷戦終結が体制転換の決定因となる。
 90年には黒人解放運動の英雄的存在ネルソン・マンデラの27年ぶり釈放、翌年2月、当時のデクラーク大統領によるアパルトヘイト廃止宣言を経て、94年の全人種選挙での国民党敗北、マンデラ大統領誕生をもって国民党支配体制は終焉した。
 南アの国民党体制はアフリカにありながら入植白人が支配層を形成するという特異な体制下での特殊なファシズム体制であり、それ自体の復活はもはやあり得ない状況であるが、人種差別思想は決して世界から根絶されておらず、上述したように議会制に適応化した議会制ファシズムという形態の点でも、現代型ファシズムの先駆けと言えることは見逃せない。

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戦後ファシズム史(連載第23回)

2016-03-01 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

2:カナダ・ケベック州の「大暗黒時代」
 第三部で取り上げるべき典型的な不真正ファシズムの真の先駆けないし雛型と言えるのは、戦前・戦後にかけて通算19年に及んだカナダ・ケベック州の地方政権・民族同盟体制であると考えられる。
 カナダのケベック州は連邦国家カナダにおけるフランス語圏の中心州であり、伝統的にカトリックが優勢で保守的な土地柄であった。しかし州政では19世紀末以来、世俗主義のリベラル政党ケベック自由党が一貫して政権の座にあった。そうした中、自由党支配への倦怠と長期政権の腐敗に対する州民の不満を吸収する形で現われたのが、弁護士出身のモーリス・デュプレシに率いられた新たな保守政党民族同盟であった。 
 デュプレシは永年野党に甘んじていたケベック保守党と自由党を離党した反主流派グループを統合する形で民族同盟を結成し、1936年の州議会選挙に勝利して政権獲得に成功、州首相に就任したのである。
 ただ、一期目は政権基盤が確立されておらず、カナダがドイツに宣戦布告した直後に行なわれた39年の選挙では、自由党が徴兵免除を公約したことも響いて敗北、民族同盟は3年で下野することとなった。しかし、第二次大戦末期の44年に行なわれた選挙で民族同盟は政権を奪回、以後は59年のデュプレシ首相の急死をまたいで60年まで政権を独占した。
 民族同盟自体は、前述したように保守党と自由党反主流派の合同により成立した保守系新党で、この種の合同政党にありがちなように綱領には曖昧な点があったが、デュプレシ政権は一期目からその強固な反共主義とカトリック教権主義の立場をあらわにした。その象徴が37年に制定された通称パッドロック法である。
 パッドロックとは南京錠のことであるが、まさに共産主義に南京錠をかけて封じるというイメージを表わした通称である。この法律は極めてあいまいに定義された共産主義的プロパガンダを禁じる言論統制法であり、これによって州警察を動員し、共産主義的とみなされた新聞社の封鎖や出版物の没収などが実行された。
 またデュプレシ政権は反労働組合の立場を鮮明にし、警察力を使ってストを弾圧した。これは反共主義とも連動しており、54年には労組員が共産主義を支持することを禁じ、共産主義を支持するメンバーが一人でも存在する労組の法的資格を取り消すという抑圧策を導入している。
 こうした強権統治の基盤はカトリック教会と地方農村にあり、デュプレシ政権は農村ばらまき政策と同時に、聖職者に公的資金を供与して公教育や医療その他の社会サービスを委ねる一方、州は社会サービスに関与しない福祉消極政策を採った。聖職者らは選挙での支持によってこれに答え、自由党支持者を破門にするなど反デュプレシ派迫害の中心を担った。
 いつしか「首領」と通称されるようになったデュプレシの時代は、体験者の回想によれば「沈黙による服従、慣れの惰性」が支配し、否定的に「大暗黒時代」とも呼ばれている。ただし、この間、デュプレシはヒトラーのような全権執政者に就任したわけではなく、州議会制の枠内で規定どおり四年ごとの選挙に四連勝して州政権を維持している。そのため、彼の体制は単なる超保守政権にすぎないと見ることも可能であり、事実カナダ史上もそのようにみなされているようである。
 しかし、今日的な視点からとらえ直すと、デュプレシ体制は議会制に適応化した不真正ファシズム(議会制ファシズム)の先駆けないし雛型と見ることができる。もし「首領」デュプレシが急死していなければ、政権はさらに十年以上継続された可能性もあった。
 だが、59年、デュプレシは脳卒中で死去し、後継首相のポール・ソーヴェもわずか四か月で急死するという連続的な不運に見舞われた民族同盟は60年の選挙に敗北、ケベック自由党が政権を奪回した。以後は66年まで自由党政権の下、デュプレシ時代の清算と社会民主主義的な社会改革が矢継ぎ早に行なわれたため、この転換期は「静かな革命」とも呼ばれる。
 民族同盟は66年の総選挙で再び政権を奪回するも、すでに穏健化されており、70年選挙で惨敗した後はすみやかに退潮した。71年にケベック連合と党名変更した後も二度と政権に返り咲くことなく、81年以降は議席を喪失、89年に至り解党・消滅した。
 デュプレシ時代の強固な反共政策、そして民族同盟が冷戦終結と時を同じくして消滅したことからすれば、ケベックの民族同盟体制もまた反共ファシズムの一環だったと見ることもできるが、一方でデュプレシ政権がユニオンジャックに代えて制定したケベック州旗は今なお維持されているなど、ケベック地方主義の先駆けという歴史的意義も認められる。
 従って、このタイプの地方主義と結びついた「地方ファシズム」は、現代でも連邦国家や地方自治国家の内部から発現してくる可能性があるという意味では、今日的な意義も見逃すことはできない。

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