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近代革命の社会力学(連載第271回)

2021-07-29 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐3〉北イエメン共和革命と長期内戦
 北イエメンにおける反体制運動としては、1930年代にイスラーム急進主義的な立場からの自由イエメン運動が発足していたが、この運動は明確に共和革命を追求するものではなかった。
 保守的な北イエメンにあって、共和制運動は国策として例外的に近代化が一歩進んでいた軍以外に拠点を持つことができなかった。特にエジプトとの関係を強化したことで、エジプトで訓練を受けた将校を中心とする軍部内ナセリスト派がその急先鋒であった。
 王国は軍を近代化することで自らの命脈を縮めたと言えるわけであるが、1962年9月のアハマド国王の死去と新国王アル‐バドルの即位はその合図となった。この年の3月、アハマドは暗殺未遂に見舞われた際、重傷を負い、病床にあったところ、9月に急死したのであった。
 これを受けて、アハマドが統治不能となっていた間に職務を代行していた王太子アル‐バドルが新国王に即位した。実際のところ、アル‐バドルは父よりも開明的で、エジプトのナーセルに敬意を抱くアラブ民族主義者でもあり、エジプトとの関係強化でも重要な役割を果たしていた人物である。
 そのため、アル‐バドルの即位は時代の潮流にも合致するはずであったが、彼の即位直後に軍のナセリスト派による共和革命が勃発する。革命を率いたのは、アル‐バドル自身が参謀総長に引き上げたアブドゥラ・アル‐サラル大佐であった。
 アル‐サラル大佐は貧しい孤児の出身であったが、軍の近代化の過程でエリート士官候補として選抜され、イラクで訓練を受けた上級士官である。彼は48年のヤフヤー王暗殺事件に関与し、長く投獄されていたが、アル‐バドルの尽力で釈放され、軍に復帰していた。
 それほどアル‐バドルに恩義のあるアル‐サラルがなぜ共和革命でアル‐バドルを追放したかは不明であるが、当時の北イエメン軍内ではエジプトで訓練を受けたより急進的な共和主義の士官が育っており、サラルは彼らに担がれる形で共和革命に出たものと思われる。
 この革命集団は自由将校団こそ名乗らなかったものの、北イエメン共和革命もエジプトやイラクの場合と同様、急進派将校グループによるクーデターの形式を取ったことで、ひとまず電撃的な成功を収めた。しかし、その後の展開は前二者と大きく異なる。
 アル‐バドルは首都サナアから逃亡し、部族勢力と連携して王党派を結成、強力な反革命武装活動を開始したため、北イエメンはこの後、1970年の和平成立まで長い内戦に突入することになる。
 この内戦は、共和国側でエジプト(その背後にソ連)が、王党派側でサウジアラビア(その背後にイギリス)が支援したため、両国の代理戦争の様相を呈したことも長期化の原因となった。
 革命後、初代大統領に就任したアル‐サラルは社会主義者を名乗っていたが、これといったイデオロギーは持ち合わさず、革命指導者としての資質に欠けることも明らかになった。彼は内戦中、エジプトの傀儡のような存在となり、エジプトに滞在することが多いありさまであった。
 1967年に戦況の悪化からエジプトがイエメン派遣軍を撤退させると、後ろ盾を失ったアル‐サラルは無血クーデターにより失権、イラクへの亡命を強いられた。クーデター後に新大統領となったのは、自由イエメン運動から出たイスラーム法学者アブドゥル・ラーマン・アル‐イリアーニであった。
 彼は外国の介入に反対する穏健なイスラーム主義者であり、手堅い手腕で1970年の和平を導いた。ただし、王政復帰はならず、共和制は維持されたため、共和革命の成果は永続化することとなった。


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