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近代革命の社会力学(連載第351回)

2021-12-21 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(7)干渉戦争とファッショ化
 1981年10月のハメネイ大統領の就任により、ホメイニー最高指導者‐ハメネイ大統領の子弟ラインによるイスラーム法学者の統治という独異な共和体制がひとまず確立されたが、これは、革命の対内的な防衛態勢が整備されたことと軌を一にする。
 その点、1979年5月のイスラーム革命防衛隊の創設が重要な意味を持った。これは、共和革命の時点で「中立」を守ったものの、ホメイニーをはじめ革命派の間では旧帝政時代の国軍に対する不信感が根強い中、革命防衛を目的とした独自の親衛組織として創設された武装組織であった。
 当初は民兵組織の域を出なかったが、短期間で拡充され、旧国軍を引き継いだ正規軍を凌ぐほどの装備と権限を持ち、系列企業さえも擁する軍産複合組織へと変貌し、今日に至るまで、イラン体制最大の守護者となっている。なお、ハメネイも短期間ながら、革命防衛隊の暫定最高司令官を歴任している。
 こうして、早期に対内的な革命防衛態勢が整備されたため、反革命派との内戦の勃発を抑止できたのであるが、対外的にはなお脆弱であった。周辺諸国にも波及する大規模な革命の常道として、1979年イラン革命にも、外国からの反革命干渉戦争の手が伸びてきたのである。
 それは西の隣国イラクからであった。当時、イラクでは世俗社会主義のバアス党支配体制内で政権交代があり、従前より事実上の最高実力者であったサダム・フセイン副大統領が1979年に大統領に昇格し、権力固めに余念がなかった。
 フセインは、イラク国内最大宗派ながら抑圧されてきたシーア派が拠点の南部でイラン革命に呼応して革命蜂起することを恐れており、このことと、イランの石油利権の喪失やイスラーム革命の連鎖を懸念する米欧、さらに東の隣国アフガニスタンの社会主義政権の後ろ盾であったソ連の利害は一致していた。
 こうして1980年9月、イラク軍の奇襲によって火蓋が切られた通称イラン‐イラク戦争―開戦経緯からすれば、イラク‐イラン戦争と呼ぶべきか―は、決定力を欠く両国の間で膠着し、1988年まで継続する長期消耗戦となった。
 この戦争は、二国間の戦争でありながら、背後では米欧、ソ連のほか、シーア派と対立的なサウジアラビアをはじめ中東のスンナ派イスラーム諸国も、イラクに直接間接の支援を行う代理戦争の性格を持った。
 中でも、レーガン共和党政権に交代したアメリカが戦時中の1984年にイラクと国交を回復し、多額の援助を行ったことは、フセイン政権の軍国主義的膨張、ひいてはイラクをめぐる二度の湾岸戦争の遠因ともなった。
 一方、ほぼ孤立無縁状態のイランは、この長期戦で前出の革命防衛隊を前線にも投入する総力戦を強いられたが、戦争を通じて、革命防衛隊は海軍や空軍をも備え、正規軍とともに対外戦争にも対処可能な軍事組織に成長していった。
 戦時中、革命体制は勝利を目指し、最高指導者ホメイニーを至上とする精神統一を進めたため、1989年のホメイニー死去までの時期は、統制的な戦時体制と相まって全体主義的な色彩を持ったある種のファシズム体制の様相を呈した(ファシズムの側面については、拙稿参照)。
 これはイスラーム法を基盤とした民主的共和体制を構想していたバニサドル初代大統領らの想定からは大きく外れた帰結であり、バニサドルに代表されるようなリベラルなイスラーム主義の革命潮流が、対イラク戦争の過程で一掃されたことを意味する。


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