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近代革命の社会力学(連載第138回)

2020-08-24 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(1)概観
 第一次世界大戦は、欧州のいくつかの大帝国に革命の波を引き起こしたが、ハプスブルク家が支配していたオーストリア‐ハンガリー帝国(以下、単にオーストリア帝国という)における革命も、前回まで見たドイツ革命と並び、その重要な一つである。
 ドイツとオーストリアにおける隣国同士の革命はほぼ共時的に発生・進行し、ドイツへの統合構想を通じて交差関係にあったことから、その展開にも共通点は多く、両者は双生関係にある事象と言ってもよい。特に穏健な社会民主党(オーストリア社会民主労働者党)が革命過程を主導し、急進派が前面に出ることがなかった点は重要な共通項である。
 とはいえ、オーストリア社会民主労働者党は「議会制の下での社会主義の実現」というテーゼを掲げ、実際、議会制の枠内で企業の国民的所有への移管を含む「社会化」を推進しようとするなど、ドイツのカウンターパートである社会民主党よりも、野心的であった。
 一方、オーストリア革命の過程でも急進的なレーテ、すなわち兵士評議会や労働者評議会が現れたが、ドイツのそれに比べれば穏当かつ非対抗的であり、社会民主労働者党とは緊密な協調関係にあった。
 しかし、不幸な共通点もある。それは、上掲の「社会化」に失敗した社会民主労働者党が早期に政権を離脱すると、革命過程は収束し、以後は保守的転回が起こることである。最終的には、ナチスドイツの第三帝国に併合され、ナチスの支配に下ることとなった。
 一方、ドイツ革命とは、相違点も多い。まず、オーストリア帝国は皇室ハプルブルク家を頂点にドイツ系を支配層としながらも、支配下にハンガリー人をはじめ、多数の非ドイツ系諸民族を従属させていたことから、帝国における革命は諸民族の分離独立の契機となり、最終的に帝国の分解に帰着したことである。その点、ドイツ系小邦だけで構成されていたドイツが、革命後も連邦共和制の下に統一を維持したのとは大きく異なる。
 さらに、帝国分解の過程で、同君連合を形成していたハンガリーでは共産党による二次革命が勃発し、短命ながら、革命体制としてハンガリー・ソヴィエト共和国が樹立されたことである。このハンガリー革命については、オーストリア革命の副次的革命として、後に分岐章を設けて見ることにする。
 オーストリア革命のもう一つの特徴として、それはロシア革命はもちろん、ドイツ革命に比してもはるかに穏当な展開を見せ、平和革命の事例に数えられることである。平和革命を可能にした要因として、元来、オーストリア帝国が人工的に作られた多民族国家だったこともあろう。
 そうした特殊性を踏まえても、オーストリア革命は君主制を打倒する共和革命の歴史において新たなページを開いたと言ってよく、また革命全体の歴史においても、非暴力平和革命の先例として参照すべき特徴を備えていると言える。


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