ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第392回)

2022-03-10 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐1〉一族独裁体制の確立
 1989年に始まる連続革命の中で、ルーマニアは唯一、独裁者夫妻が革命政権によって処刑されるという古典的な流血革命の経過を辿っており、その特異性が注目された。ルーマニア革命だけがこのようなプロセスを見せたことには、それなりの理由があった。
 第二次大戦後のルーマニアも周辺東欧諸国の例に漏れず、ソ連の占領を受けた後、ソ連の傀儡的な社会主義勢力であるルーマニア労働者党が政権を握り、一党支配体制に入ったが、1965年に当時は少壮党幹部であったニコラエ・チャウシェスクが前任者の死去を受けて党第一書記に就いたところから大きな転機を迎える。
 チャウシェスクは労働者党を元の党名である共産党に復旧したうえ、67年からは元首格の国家評議会議長を兼ね、党国家の実権を掌握すると、ソ連を盟主とするワルシャワ条約機構に加盟しつつ、ソ連から距離を置き、西側と幅広く交流したほか、ソ連と対立していた中国にも接近するなど独自外交路線を選択した。
 しかし、このことは同時期のハンガリーのような統制緩和を意味しておらず、むしろ国内的には個人独裁を強化する路線が明瞭になった。当時のソ連・東欧社会主義圏では集団指導制を重視し、何らかの会議体を国家最高機関とする例が多い中、チャウシェスクは1974年に強大な権限を持つ大統領職を新設し、自ら就任した。
 この新体制下で、チャウシェスクは、ソ連よりも毛沢東時代の中国や金日成時代の北朝鮮のようなアジアの個人崇拝型社会主義体制をモデルとして自らの権威を高めるとともに、エレナ夫人を党・政府の要職に起用し、事実上の序列ナンバー2に押し上げたうえ、子息ニク(次男)を世襲の後継候補として「育成」するなど、欧州社会主義圏では特異な一族独裁体制を固めていった。
 こうした体制を防護するために、秘密政治警察兼対外諜報機関である国家保安部(通称セクリターテ)による抑圧監視を徹底的に強化した。この機関は80年代の最盛期には当時2300万人程度の人口で1万人を超える要員を抱えるまでに膨張し、体制というよりチャウシェスク一族に対して絶対的な忠誠を誓う保安機関に仕立てられたのである。
 また、思想統制も強化され、それは科学分野にも及んだ。その点では自身ほぼ独学に近い「化学者」で「発明家」でもあったエレナ夫人の影響が強く、エレナ自身が国家科学技術評議会議長として科学界の統制の中心に立っていた。
 こうして、1980年代までにアジア的な性格を帯びた個人崇拝型社会主義体制が確立され、ソ連圏でも独自の立場を占めるに至っていたルーマニアでは、アジアにおける同種体制とともに、ルーマニアを連続革命の潮流から免れさせる可能性を持っていた。


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