ザ・コミュニスト

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共通世界語エスペランテート(連載第1回)

2019-05-31 | 〆共通世界語エスペランテート

序文

 筆者はおよそ一年まえ、代表的な計画言語エスペラント語をベースに、これをより簡略化された標準世界語として考案した「エスペランテート」の概要を公表した。その際、つぎのような序文でその趣意をあきらかにした。

冒頭略

・・・・・・・・・簡略化されたエスペラント語は本来のエスペラント語とは相当に異なるものとなったため、エスペラント語の名称をそのまま使用することへの疑念が生じかねない。そこで、ここに改めて「エスペランテート」なる新たな世界語の創出を宣言することにした。  
 エスペランテート=ESPERRANTETOとは、エスペラントに小さなものを意味する接尾辞-etoを付した造語であり、直訳すれば「小エスペラント語」となるが、ここでは簡略化されたエスペラント語という含意を持たせる。  
 その場合、本来のエスペラントとエスペランテートは別言語なのか、それとも後者は前者の転訛言語なのかが一つの問題となるが、両者は文字体系や重要な文法にもかなりの相違が生じるため、同語族の別言語とみなすことにした。  
 その点、後に本論で検証するように、エスペラント語には16箇条にわたる変更不能な文法鉄則が存在しているところ、エスペランテートはこの16箇条にも変更を加えていることから、本来のエスペラントとは区別したほうが妥当と考えられる。  
 そのうえで、エスペランテートを世界中で共通の公用語として普及させるべく、いささか僭越ながら「標準世界語」と冠することとした。すなわち、連載タイトルの「標準世界語エスペランテート」である。本連載は、この新言語について、母体となったエスペラントと対比しながら概説していく。

 このような趣旨は現時点でも基本的にかわらないが、「標準世界語」なる命名はまさに僭越と感じられるため、「共通世界語」にあらためることにする。そのうえで、前回連載当時にしめしたエスペランテートの体系に一部変更をくわえる必要性を認識したことから、ここにあらためて新版を公表することとした次第である。

 そのこととは別に、当連載では―当連載限定で―日本語の表記に関しても一つの実験をこころみてみたい。それは、日本語のおおきな特徴である漢字の訓読を廃止することである。周知のように、日本語の標準的な表記法は漢字に二種類の仮名文字を併用するという異例の三文字併用主義である。  
 しかし、このことが外国人はもちろん、ときとして日本人自身にとっても文章表現上の障壁となっていることにかんがみ、特に法則性をかくおくり仮名の表記が個人によってまちまちとなりやすい訓読を廃することで、日本語表記法をいささかなりとも簡明なものとするこころみである。ただし、訓読廃止ルールには、つぎの三つの例外をもうける。

例外①: 「重箱/湯桶」「大文字/小文字」のような音訓折衷よみの漢字単語では、訓読漢字を表記する(「重ばこ/ゆ桶」「おお文字/こ文字」のような漢字仮名まじり表記はしない)。

例外②: 一つ・二つ・三つ・・・・のような和数詞は、漢字+おくり仮名で表記する。

例外③: 人名・地名のような固有名詞は、その固有の表記にしたがい、訓読を維持する。

 なお、このような訓読廃止の原則にも、難点がないわけではない。すでに既述部分にもあらわれているように、たとえば「かく」は「書く」「描く」「搔く」「欠く」のいずれなのか、同音異字語の判別が文字からはできず、文脈の解釈に依存することである。このような問題の検証は、日本語表記法を主題とするわけではない当連載の論外となるため、別の機会にゆずることとしたい。

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EU―ファシズム防壁の危機

2019-05-30 | 時評

2019年の欧州議会選挙は、加盟各国で伸張する反移民≒反イスラーム、反EUを掲げる国家主義諸政党が欧州議会でも伸張するかどうかが焦点であった。開票結果は表面上、中道保守系と社民主義系の二大勢力がいずれも後退しつつ、辛うじて相対的な二大勢力は保持するという微妙なものであった。

焦点の国家主義諸政党の中核会派は「諸国民と自由の欧州」(ENF)と見られているところ、このグループはプラス22議席と伸張したものの、勢力としては第6位にとどまった。しかし、国家主義勢力にはもう一つ「自由と直接民主主義の欧州」(EFDD)という二番手会派が後ろに控えており、こちらもプラス13議席と伸張した。

この二つの勢力を足し合わせると112議席となり、新議会第3位の勢力である。つまり、国家主義勢力が三桁の議席を持つ第三極にのし上がったわけである。この両勢力は有権者を欺く擬態として「自由」を冠しているが、その本質は白人優越の自国第一ファースティズムであり、ファースティズムとはファシズムの現代的表象としてのネオ・ファシズムへの連絡通路である。

これらの勢力はつとに欧州議会内に一定の地歩を築いてはいたが、反ファシズムを旗印とする欧州連合でこうした勢力が決定力を持つことは従来、困難であった。欧州では、欧州連合がファシズム防壁としての役割を果たしてきたのである。

しかし、ついに国家主義勢力が第三極として台頭したことで、ファシズム防壁としての欧州連合に危険信号がともったことになる。このことは、物事を中和化する妥協をこととしてきた「中道保守主義」と「社会民主主義」という互いに相似形化した二種の「中道」勢力の限界を明瞭に示している。

「中道」に失望した有権者を惹きつけた国家主義勢力が今後いっそう伸張して欧州議会の過半数を制するようなことになれば、欧州連合の解体ないしは換骨奪胎によって、防壁は無効化される事態もあり得ることだろう。

そうなれば東西ヨーロッパにまたがる「欧州拡大ファシズム連合」という戦前ファシズムでも見られなかった悪夢となる。そこまで進むかどうかは予断不許だが、欧州旧ファシズムの打倒から来年で75年。当時を体験した世代も少なくなり、ファシズムへの免疫を持たない戦後世代が多数を占める欧州人がファシズムの免疫を再び持つには、もう一度ファシズムを体験するしかないのかもしれない。

ちなみに、アメリカにおけるファシズム防壁は合衆国憲法とその下での古典的三権分立体制であるが、これを超憲法的な統治手法で解体しようとしているのがトランプ大統領である。ここでも、憲法という防壁が侵食にさらされている。

また戦前の擬似ファシズム軍国体制を解体した戦後日本でもアメリカが手を入れた戦後憲法がファシズム防壁となってきたが、こちらも国粋主義改憲勢力の議会制覇により大きく揺らいでいることは周知のとおりである。

欧州、米国、日本とそれぞれの仕方で築いてきたはずの諸国のファシズム防壁が揺らぐ時代である。これらすべてで防壁が決壊すれば、地球全域にネオ・ファシズムが拡散するだろう。その先にはどんな世界が待っているのか、このような問いもSF文学任せにできなくなりつつある。

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共産論(連載第42回)

2019-05-29 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(3)マス・メディアの帝国は解体される

◇メディアの多様化
 資本主義社会の言論装置として、今日マス・メディアの支配力を無視することはできないが、このことはインターネット時代にあっても―支配の形態や影響力に多少の変化はあれ―本質的に変わりない。
 マス・メディアはそれ自身が情報=商品を販売する商業資本であると同時に、一般商品の広告も受託するというように、商品価値の文化体系の担い手でもあり、また文学・芸術の商業的スポンサーとして市場的検閲の一端をも掌握している。まさに、マス・メディアは文化の帝国である。
 共産主義社会ではこのマス・メディアの帝国支配に終止符が打たれる。といっても、マス・メディアが権力的統制下に置かれてしまうからではなく、その運営及び内容の両面で多様化されるからである。
 共産主義社会のマス・メディアは、過度集中排除の観点から、少なくとも新聞とテレビは完全に分離されたうえで、「メディア協同組合」のような新たな組織形態の下、非商業的に運営されるようになる。これによって、今日、テレビとインターネットに押され気味の新聞も、販売部数に拘泥せず自由に発行できるようになるため、多種多様な新しい新聞の創刊を見ることができるに違いない。
 またテレビの世界でも、スポンサー資本の圧力を受けた視聴率至上の商業主義路線が廃される結果、視聴率に拘泥せず社会的な問題を掘り下げる硬派番組も自由に制作できる可能性が増し、かえって番組の多様化が進展することが予測される。
 ところで、かつては放送メディアの元祖として重要な媒体であったラジオの斜陽化が著しいが、共産主義社会ではメディア全般が商業主義から解放される結果、案外ラジオという古典的メディアが再発見され、蘇生するかもしれない。

◇誰もが記者に
 このようにしてマス・メディアの帝国支配が解体されることで、社会のコミュニケーションのあり方全般が変革されるであろう。すなわち画一的なマス・コミュニケーションはその比重を低下させ、より多様で直接的なコミュニケーションの世界が開かれる。これは旧式の伝承や口コミに依存した情報後進的な世界とも異なり、誰もが作家・芸術家になれるという事態に対応するものとしての、誰もが記者になれる世界の到来である。
 すでにインターネットの世界では一般市民が時にマス・メディアよりも早い写真や動画の配信を含め、一種の記者活動を展開しているように、共産主義社会ではこうした「市民記者」的な活動がよりいっそう盛んになるであろうし、そのような活動が集団化されて新しいメディアが結成される動きも活発化してくるだろう。
 その点、基礎教育課程において論理的な文章を書くことの訓練が徹底されることは(拙稿参照)、一般市民の筆力の向上を結果し、市民的記者活動の質の担保として働くことが期待される。
 このようにして、「報道の自由」というものもマス・メディアの特権ではなくなり、みんなのものとして民衆の手に渡されるのである。これも、メディア統制などとは全く正反対の、「共産主義的自由」の発露であると言えよう。(※)

※言論の自由が保障される限りメディアというものは自生的に形成されていくから、共産主義社会におけるメディアのあり方を確定的に描くことは困難であるが、一例として別連載『共産主義生活百科』の拙稿を参照されたい。

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共産論(連載第41回)

2019-05-28 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(2)誰もが作家・芸術家

◇市場の検閲
 商品価値の文化体系が自由を抑圧する作用を持つこともある。その犠牲的影響が最も大きいのは創作活動の世界である。創作の価値を「売れるか売れないか」、この一点だけで審判するのは一面的であるが、商品価値の文化体系は商品価値への反抗を許さない。
 かくして、文学・芸術生産も商品価値の論理に絡め取られていき、ここでもまがい物が横行する一方、文学的・芸術的価値はあっても作品が売れなければ世に出ることはできず、いわゆるプロフェッショナルの作家・芸術家としては認知されないことになる。
 これに対し、商品価値の文化体系を司る文化産業資本の側からは、売れるかどうか、つまりは大衆の支持を受けるかどうかという評価基準は、純粋に文学的・芸術的価値があるかどうかという評価基準よりも客観的であるとの反論もあり得よう。
 しかし、それは本末転倒の議論である。文化産業資本自らが大衆の支持をマーケティング技術によって作り出しておいて、「売れる」ように仕組んでいるとすれば、たとえは悪いが、自ら放火した者がその火を指してあの赤々と燃えている火は客観的だと評するようなものである。
 たしかに、純粋の文学的・芸術的価値というものは主観的であるから、例えばある創作者の作品Pを評価する人が世界に数人しかいないということもあり得る。しかし数人でも評価する人がいるなら、作品Pには「価値」があると言える。ところが商品として見れば、世界に数人しか買い手がつきそうにない作品Pは、商品価値を認められないから、この作品は世に出ないであろう。
 これが市場によって文学・芸術作品の価値が審査される「市場の検閲」と呼ぶべき作用である。この場合、検閲を司るのは各々の分野に応じて出版社であったり、画商であったり、音楽事務所であったりする。要するに、総体としての文化産業資本である。
 ここで、市場の検閲よりも国家の検閲の方がよほど恐ろしいという反論も聞かれよう。たしかに国家の検閲は強権的であり、しばしば恣意的でもあり、有害なものである。
 この点、共産主義は国家という主体を擁しないないから、論理上国家の検閲も当然あり得ない。そのうえに商品としての文学・芸術生産も廃されるから市場の検閲も消失するのである。これによって何が起きるか。誰もが作家・芸術家、である。

◇インターネット・コモンズの予示
 誰もが作家・芸術家になれるなどと豪語すれば失笑されるかもしれないが、しかしすでにこういう現象は一部先取り的に現実のものとなりつつある。
 インターネットの普及は「売れない」作家・芸術家が自分の作品を商品化することなく世に送り出す手段を与えている。その作品を鑑賞する人がたとえわずかであっても、発表のチャンスは失われない。その作品は無償の共有物として扱われる。インターネット空間がコモンズ(=共有地)とも称されるゆえんである。
 このインターネット・コモンズの世界ではまさにコモンズ(=庶民)が思い思いの表現活動を展開し始めている。もちろん時代はまだ資本主義であるから、そうしたコモンズの自由な作品の大多数は商品価値を認められず、従ってまた創作を「職業」として認知されるチャンスも稀である。それでもインターネットの世界は、共産主義的未来の創作活動のありようを部分的に予示しているように見える。

◇開花する表現の自由
 もちろん共産主義社会でも、作品が公衆の広い支持を受けるかどうかで創作者の評価と知名度に差が出ることは避けられないが、資本主義社会のように作品が商品として商業的成功を収めるかどうかでプロフェッショナルとアマチュアの差が分かれることはもはやなく、そもそもプロとアマの境界自体があいまいになっていくであろう。このことは、根本的な次元で、名実ともに表現の自由が確立されてくることを意味する。
 今、“リベラル”な資本主義社会では国家の検閲制度は廃止され、おおむね表現の自由の法的な保障は与えられているが、現実には市場の検閲という壁が厚く立ちはだかり、事実上表現の自由は商業的成功を収めた一部プロの「表現特権」と化している。
 これまた国際常識に反することかもしれないが、共産主義社会においてこそ、表現の自由が本当の意味で開花する。そう宣言してもよい。

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共産論(連載第40回)

2019-05-27 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

共産主義的文化の特徴はシンプルさ。それはがつがつした「競争」でなく、ゆったりした「共走」の文化でもある。そこでは表現の自由も大きく花咲く。そのわけは?


(1)商品崇拝から解放される

◇「人間も商品なり」の資本主義
 共産主義に固有の文化価値とは何であろうか。このような問いかけは、かつて中国社会を恐怖と混乱に陥れた「文化大革命」を思い起こさせるかもしれないが、歴史上の「文化大革命」とは中国共産党内の熾烈な権力闘争の代名詞にすぎなかった。ここで言う「文化」とは、政治闘争を離れた文字通りの文化である。
 まず対比上、資本主義的な文化価値とは何かを考えてみると、その最大のものは商品価値で間違いない。商品生産を基軸とする資本主義社会では、商品価値は経済的価値であると同時にそれ自体が文化価値でもあるからだ。商品が社会の主人公であり、ほとんどすべての事物がいったん商品という交換価値形態を取らなければ世に出ることはできない。
 人間そのものも商品とみなされる。といっても古典的な人身売買のことではない。人間に対する評価基準全般が以前にもまして「中身」=人間性(言わば人間の使用価値)云々よりも表面的な「スキル」=労働力や、より皮相的な「見た目」=容姿(言わば人間の交換価値)重視になってきている。これも人間=商品化現象の一つの証しである。
 こうした文化価値としての商品価値は大衆によっても根強く信奉されているからこそ、普遍的な文化価値となるのである。大衆自身、商品に何か特殊な力が備わっているかのように感じている。それが商品崇拝である。
 この資本主義的アニミズムの特徴は、交換価値という表面的な値札をあがめるという点にある。偽ブランド品の大量流通はその象徴である。我々は偽物をつかまされると憤慨するが、偽物と判明するまではまがい物の値札に眩惑されているのだ。
 このように、商品崇拝はまがい物の横行―人間の「まがい者」も含めて―に手を貸している。かつてマルクスの論敵であったプルードンは「所有とは盗みだ!」と叫んだが、彼はむしろ「商業とは詐欺だ!」と叫ぶべきであった。ただし、商人=詐欺師なのではなく―文字どおりの詐欺師も横行しているが、かれらは資本主義の主役ではない―、大衆があまりにも商品をあがめ、求めるから詐欺被害に遭う確率が高まるだけなのではあるが。

◇本物・中身勝負の世界へ
 これに対して、共産主義社会では商品生産が廃されることによって商品崇拝にも終止符が打たれる。モノは商品形態を剥ぎ取られて、言わば「モノ自体」として評価されるようになる。前に、共産主義は使用価値中心の世界だと論じたとおりである。
 共産主義とは、モノにせよヒトにせよ、すべてにおいて本物勝負・中身勝負の世界であるため、ある意味では本質が問われる厳しい世界だと言えるかもしれない。
 しかし、商品的仮象の世界に住み慣れている我々も、本当は心のどこかで本物・中身の世界を希求してはいないであろうか。まがい物の商品をつかまされ、まがい者の人間に支配され、人間=商品価値で優劣を判定される社会に住み続けたいという人はそれほど多くはあるまい。
 共産主義社会において言葉の真の意味での「文化大革命」があるとすれば、それは商品価値の文化体系が全面的に転覆されるということである。そのような「文化大革命」であれば、我々を恐怖と混乱に導く代わりに、商品崇拝の罠から救い出してくれるであろう。

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犯則と処遇(連載第50回)

2019-05-26 | 犯則と処遇

43 特別人権裁判について

 犯罪の処理に関わる法執行及び矯正の業務は、その性質上人権の侵害と隣り合わせである。実際、深刻な人権侵害の多くがこの分野に集中しているのは古今東西の歴史であり、また現状でもある。とりわけ、「犯罪→刑罰」体系によると、犯罪者を糾弾し、懲らしめるという目的が前面に出やすいため、犯罪者の扱いはとかく手荒なものとなりやすい。

 これに対して、刑罰という制度から解放される「犯則→処遇」体系の下では、犯罪者を糾弾するという発想をそもそもしないので、人権侵害の発生確率は極めて低いと想定されるが、実際のところ、対象者の身柄拘束等の強制的な措置は避けられないから、その過程で何らかの人権侵害が発生する可能性は否定できない。
 しかし、往々にして法執行や矯正分野での人権侵害は表面化しにくく、不問に付されやすい。そのように闇に葬られる形で人権侵害に関わった公務員(以下、準公務員を含む)が不当に免責されることのないよう、特別な裁判手続きが用意される。これが特別人権裁判である。  

 特別人権裁判はおよそ公務員による人権侵害を審理するための裁判制度であって、「犯則→処遇」体系上にあって、例外的に訴追→裁判というプロセスを辿る。ただし、審理を行なう特別人権法廷は事案ごとに設置される非常置の裁判所であり、設置を決めるのは人身保護監である。  
 およそ公務員によって人権を侵害されたと認識する者は、人身保護監に対し当該公務員を告発することができる。告発を受けた人身保護監は事案を予備的に調査したうえ、容疑が重大と認めるときは、特別人権法廷の設置を決定しなければならない。容疑がさほど重大でない場合は、当該公務員が所属する機関の内部監察部門へ送致する。

 特別人権法廷は訴追を担当する検事局と審理を担当する裁判部から成り、まずは検事局が捜査のうえ、起訴するかどうかを決定する。起訴されると、審理は三人の判事によって行なわれる。  
 審理の結果、有罪とされた場合、有罪判決に不服の被告人は控訴の申立てをすることができる。この場合、人身保護監は改めて特別人権裁判の控訴審を設置するが、控訴審判決が終局性を持つ。他方、無罪判決に対する検察側控訴は認められない。

 特別人権裁判による処罰の内容は公民権の無期限または期限付きでの停止、または公民権停止に加重された社会奉仕労働である。公民権を停止されている間は、再びおよそ公務員となることが許されない。
 社会奉仕労働は最も重い処分であり、これを言い渡された者は清掃、建設、工場などの指定された肉体労働部門で、一定期間労役に就くことが強制される。  

 なお、公務員が人権侵害の域を越えて、傷害や殺人、性暴力等の重大な犯則行為に及んでいる場合は、特別人権法廷は有罪判決を受けた被告人を改めて矯正保護委員会に送致し、同委員会での処遇審査に付さなければならない。その後のプロセスは既述のとおりである。

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犯則と処遇(連載第49回)

2019-05-25 | 犯則と処遇

42 社会病理分析について

 犯則行為者に対して、将来の改善と更生へ向けた処遇を課することを旨とする「犯則→処遇」の体系においては、社会も無責任ではあり得ないことは以前の回でも述べた。
 すなわち、個々の犯則行為は何らかの社会的諸関係の歪みを症候的に映し出しているという意味で、犯則行為とは比喩的な意味で社会体の疾患症状であり、社会は犯則行為に温床を提供し、犯則行為者を生み出したことに対して責任を負うのであった。

 このように、犯則行為を社会病理として把握する視点によるならば、個々の犯則事件の処理として単に犯行者に処遇を課するだけでは足りず、同種事犯の再発防止のためにも、犯則行為の諸要因を現実に剔出し、分析することが要求される。
 こうした観点に立った個々の犯則事案の分析を「社会病理分析」と呼ぶ。「犯則→処遇」体系では、社会を免責することは許されず、個々の犯則事件において犯則行為の要因となった社会病理を抉り出すためにも、社会病理分析が司法的プロセスの一環として正式に組み込まれることになる。

 具体的には、矯正処遇委員会の審査または少年審判が終了した後のプロセスとして予定される。ただし、全事件について社会病理分析に付する必要はなく、保護観察にとどまる軽微な事件では特に必要性が認められない限り、省略してよい。それ以外の事件は、必要的に社会病理分析に付せられる。  

 分析に当たるのは、社会病理学の専門的な知見を有する「社会病理分析監」である。社会病理分析監は固有の事務所を構え、検視監と同様に準司法職の一種であり、他の機関からも独立して職務に当たる。従って、単なる補助的な鑑定人ではない。なお、社会病理分析監の指揮下で実務に当たるのは、社会病理分析監補である。
 社会病理分析監は、矯正処遇委員会または少年審判所から送致された事件について、所定の分析を加えた後、正式の分析報告書を作成し、公表しなければならない。

 また社会病理分析監は、法的な制度や施策の問題点や欠陥が犯則事件の要因の一つとなったと結論づけた場合は、関係機関に対して、文書で正式に提報し、所要の対応措置を勧告することができる。
 この勧告に法的な拘束力はないが、一つの公的勧告であるからには、該当機関はこれを無視放置することは許されず、その内容について検討する義務を負う。

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犯則と処遇(連載第48回)

2019-05-24 | 犯則と処遇

41 修復について

 捜査機関から人身保護監に送致された時点で、事案軽微にして、被疑者も真実委員会の招集を求めない場合であっても、被害者のある犯則事件では、被害者と加害者の間で司法を通じた関係性の修復が行なわれることが望ましい。これを司法的修復と呼ぶ。  
 司法的修復は民事紛争の和解と似ているが、和解のように具体的な項目について法的な合意を交わすのではなく、被害者と加害者の間での対話を通じて、加害者側の真摯な対面謝罪を促しつつ、被害感情の緩和・宥恕を導くプロセスである。

 従って、こうした司法的修復は専門的な訓練を受けた修復委員だけがこれを行なうことができる。修復委員は独立した司法職としての地位を持ち、外部からの指令や指示を受けることなく、独自に修復のプロセスを主導する。  
 修復を円滑に進めるためには、修復委員と被害者・加害者双方との個人的な信頼関係が重要であるから、修復委員は常に単独で任務に当たり、合議制は採らない。
 また、主張‐反論のような論争の場と化すことがないように、被害者・加害者側も原則として一対一で対面し、代理人や付添人は修復の場に同席することができない(同行し、別室待機することはできる)。

 修復は被害者及び加害者双方の個別的な同意に基づいて開始される。開始後も被害者または加害者はいつでも理由を述べることなく修復の中断を求めることができ、中断の要請があった場合、修復委員はこれを認め、中断を宣言しなければならない。
 修復のプロセスに期限はなく、複数回のセッションを通じて行なわれる。修復は必ず司法公署の所定の部屋で、両当事者の出席のもとに行なわなければならず、私宅や外部の施設で代用的に行なうことは許されない。
 また修復プロセスが進行中は被害者と加害者は個人的に連絡を取り合ってはならず、また修復委員も個人的に両者と連絡を取ったり、個別に接触を図ってもならない。  

 修復委員が被害者‐加害者間で十分に修復がなされたと判断したときは、終了を宣言する。修復の終了宣言は口頭で行なわれ、公的に記録される。ひとたび修復の終了が宣言されたときは確定力を持ち、再度の修復は行なわれない。

 以上の司法的修復とは別に、矯正処遇を受けた者に対して、処遇の一環として行なわれる修復も想定することができる。これを修復的処遇と呼ぶ。  
 このような修復的処遇を行なうかどうかは、矯正保護委員会の判断事項となるが、修復的処遇が適用されるのは、比較的重い犯則行為の場合であり、被害者側が加害者との対面に心理的抵抗や恐怖心を示すこともあり得るため、その適否は慎重に判断する必要がある。  

 修復的処遇は訓練を受けたスタッフが矯正センター内で行なうが、このスタッフは司法職としてではなく、あくまでも矯正員として任務に当たることになる。
 修復的処遇のプロセスは、上述のとおり、比較的重い犯則行為を犯した犯行者への処遇の一環であることを考慮し、そのプロセスは処遇対象者の改善と更生の到達度、さらには被害者側の感情的な機微をも勘案しながら、慎重かつ計画的に進められる必要がある。

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犯則と処遇(連載第47回)

2019-05-23 | 犯則と処遇

40 不服審及び救済審について

 真実委員会、矯正保護委員会、少年審判所といった各司法機関の審決に対して不服のある当事者は、審決の確定前に不服申立てをすることができる。これが不服審である。不服審の担当機関とその手続きは、各司法機関によって異なっている。

 真相解明を行なう真実委員会の審決に対する事実誤認の不服申立ては、人身保護監督に対して行なう。これを行なうことができるのは、犯行者として特定された者またはその代理人である。なお、真実委員会の制度は訴追というプロセスを採らない以上、公訴官(検察官)からの不服申立てということもあり得ない。  
 不服申立ては審決の言い渡し日から所定の期間内にしなければならないが、ひとたび申立てがなされれば、次のステップである矯正保護委員会への送致は保留される。不服申し立てを受けた人身保護監は、直ちに再び真実委員会を招集しなければならない。  

 この第二次真実委員会は第一次委員会とは全く別のメンバーによる新たな審議を行なうが、新たな証拠を加えて審議することはできず、第一次委員会に提出された限りの証拠で改めて審議を行なうものである。  
 その結果、第一次委員会の事実認定を妥当と認めるときは、第二次委員会はその旨を審決し、訂正が必要と判断したときは、新たな審決を示す。第二次委員会の審決には終局性があり、これに対する二度目の不服申立ては許されない。

 矯正保護委員会の審決に対する処遇不当の不服申立ては、各地方矯正保護委員会の上級機関である中央矯正保護委員会に対して行なう。これを行なうことができるのは、処遇決定を受けた者またはその代理人である。
 中央矯正保護委員会では、審議のうえ、地方矯正保護委員会の審決を支持するか、破棄差し戻しするか、または破棄自判するかを決定する。破棄差し戻しとなった場合、原地方矯正保護委員会では別のメンバーによる再審議を行ない、改めて審決を出さなければならない。

 事実認定と処遇決定を併せて行なう少年審判所の審決に対する不服申立ては、事実誤認または処遇不当のいずれかを理由として、各地方少年審判所の上級機関である中央少年審判所に対して行なう。これを行なうことができるのは、被審人たる少年またはその親権者に限られる。中央少年審判所における審議とその後の手続きは、矯正保護委員会のそれに準じる。

 いずれの司法機関の審決であろうと、一度確定した審決は覆すことができないが、真実委員会及び少年審判所の審決に関しては、新たな証拠が発見された場合、再審を求めることができる。これが救済審である。救済審の担当機関とその手続きも各司法機関により異なる。  
 
 真実委員会の審決に対する再審請求は、まず人身保護監に対して行なう。請求権者は不服審における犯行者として特定された者またはその代理人に加え、ここでは被害者も含まれる。
 請求を受けた人身保護監は提出証拠の新規性を審査したうえで、要件を満たすと判断すれば、再審委員会を招集する。この救済審としての再審委員会の審議は一回限りで、同一の証拠による不服申立ては認められない。
 
 少年審判所の審決に対する再審請求は、中央少年審判所に対して行なう。請求権者は少年及びその親権者に限られる。
 請求を受けた中央少年審判所は提出証拠の新規性及び信用性をも審査したうえで、要件を満たすと判断すれば原審決を出した地方少年審判所に対し、再審を命ずる。この救済審としての少年審判も一回限りで、同じ証拠による不服申立ては認められない。

 ところで、以上いずれの司法機関の審決であれ審決の法令違反または法令解釈の誤りを理由とする不服申立ては、独立した有権解釈機関に対して行なう。これに関しては当連載の本旨から逸れるので、別稿に委ねることにする。

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共産論(連載第39回)

2019-05-21 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(6)真の生涯教育が保障される

◇リセット教育のシステム
 “生涯学習”といったスローガンはよく聞かれるが、そこで言われているのはせいぜい一般市民がカルチャーセンターに通って趣味の学問に触れる程度のことである。これに対して、「生涯教育」とはいつでも人生やり直しを可能とするようなリセット教育のシステムをいう。
 人間を労働力として生産活動に動員することを中心に組み立てられた資本主義社会では、何歳までにしかじかのことを済ませておかねばならないといった「ライフ・ステージ」による制約が多く、正規の学校課程を中退した者や学校課程は終えたが何らかの事情で人生に失敗し、社会生活から脱落した者などの再出発は大変に難しい。また先天的か後天的かを問わず障碍者の人生設計も大きな制約を受ける。
 総じて資本企業は標準モデルの賃金体系を適用できない規格外の労働力を好まないため、人生設計のやり直しは困難となりがちである。これに対し、賃労働制が廃される共産主義社会では、年齢や経験にかかわらず、いつでも人生やり直しをサポートし、求職者に適職を配分することが可能となるのである。

◇多目的大学校と専門技能学校
 人生やり直しをいつでも可能とするためには、適宜の継続教育によって新しい知識・技能を修得したり、もう一度学び直したりするチャンスがすべての人に等しく保障されていなければならない。
 それを可能とするため各地に設立されるのが、「多目的大学校」である。これは、すでに一貫制義務教育の課程(基礎教育課程)を終えていったん就職した人がさらに高度の、あるいはまったく別分野の知識・技能を修得できるように用意された教育機関である。
 しかし、現存大学制度とは根本的に異なり、入学試験やそれに準じた選抜はせず、先着全入制を採る。もちろん完全無償である。しかも、現存の大学よりも実用性の高い学科を数多く提供し、人生設計の練り直しを可能とする知識・技能を修得できるようにするものである。
 また一貫制義務教育を長期休学した人や、障碍者のように成長のスピードが緩やかな人のために、一貫制義務教育の内容を補習的に提供するプログラムのほか、一方では先に述べた学術研究センターと連携して学術の最先端の講座も用意するなど、まさに多目的な成人教育機関である。
 こうした成人向け大学校は、広域自治体としての地方圏が運営主体となり、地方圏内の地域圏ごとに最低1校は開設され、職業紹介所とも連携しながら修了者の就職・再就職につなげることができるように工夫される。
 同時に、各種の専門的技能を単科的に指導する「専門技能学校」の設立も促進される。これは、多目的大学校と並び、主として成人向けの再教育プログラムを提供する学校であるが、多目的大学校とは異なり、すべて私立である。
 大学が廃止される共産主義社会では、こうした多目的大学校と専門技能学校、さらに次項の高度専門職学院とが、より実践的な生涯教育体系を構成することになる。

◇高度専門職学院 
 前回、種々の高度専門職も最低5年以上の職歴を持つ有職者の中から選考・養成すると述べたが、これもまた一つの生涯教育のあり方である。従って、例えば長く別の仕事をしていた人が40歳を過ぎてから医師に転身するといったことも決して珍しいことではなくなろう。
 一方で、高度専門職の資格・免許は一度取得すれば終身間有効な特権であるべきではなく、適切な継続教育を通じて少なくとも10年程度ごとに更新されていく必要がある。これも、高度専門職の社会的責任の重さに応じた一つの生涯教育のあり方である。
 こうした高度専門職の養成は、前述した医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院が担うわけであるが、いずれも“難関入試”に依存することなく、職歴や人格的要素を優先する選考によることで、より広い見識と公共奉仕の精神を備えた専門職を得ることができ、ウェーバーが近代社会全般の弊として指摘した「精神なき専門人」の問題を克服する手がかりとなることも期待できるのである。

◇ライフ・リセット社会へ
 最後に、大胆に単純化してまとめれば、資本主義、さらには資本主義的要素をなお引きずっていた社会主義も含む広義の「近代」社会とは、人生やり直しを困難にする画一的なライフ・サイクル社会であったのに対し、共産主義社会は人生やり直しをいつでも可能とする自由なライフ・リセット社会であり、これこそが「ポスト近代」社会の要件である。
 「ポスト近代」とは近代が獲得した精神の自由―言わば観念的な自由―にとどまらず、現実の人間の可能性―言葉の真の意味での自由―が最大限に開かれることを意味しているのでなければならない。現代共産主義が生涯教育に厚く配慮するのも、そうした意味での「ポスト近代」社会を現実的に保証するためなのである。

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共産論(連載第38回)

2019-05-20 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(5)一貫制義務教育が始まる

◇ふるい落としからすくい取りへ
 大学の廃止は決して教育全般の衰退を意味しない。それどころか、大学の廃止によって全く新しい義務教育のシステムが発達してくるだろう。
 現在の資本主義的教育システムが「一流大学」へ進学するというゴールをめざす大学至上の、ふるい落としのシステムであるとすれば、大学廃止後の共産主義的教育は個々人の可能性を最大限開花させることに重点を置いたすくい取りのシステムである。
 具体的にはまず義務教育の小学校・中学校等の区分けが撤廃され一本化されたうえ(一貫制)、その全体が入学試験なしでつながる基礎教育課程として再編される。すなわち(1)で述べた義務保育制に続く就学年齢6歳から18歳まで(標準的な場合)の一貫制教育である。
 前回見たとおり、基礎教育は通信制を原則として提供されるのであり、学年とか学級といった等級分けも一切存在しない。開始年齢は定められるが、修了年限はなく、13に区切られた各ステップを順次修了した時点で完結する。
 さらに、共産教育における基礎教育課程は、既存教育制度とは異なり、健常者教育と障碍者教育とを分離しない統合教育を基本とする。共産主義社会は、障碍の有無で人の社会的立場を分けることのない対等な社会参加を軸とするものだからである(詳細は別稿参照)。
 この一貫制義務教育の実施主体は市町村ではなく、中間自治体としての地域圏に一元化される。反面、私学による義務教育の運営は認められない。

◇基本七科の概要
 新しい一貫制義務教育課程では、従来の国語・数学(算数)・理科・社会の旧式な教科学習は廃され、より実践的で、願わくは楽しくもありたいカリキュラムが導入される。その大まかな概要を示しておこう。なお、各科目の詳細については別連載『共産教育論』に委ねる(以下各小見出しからリンク)。

1:言語表現
 これは、各領域圏ごとの公用語(複数ある場合はすべて)及び世界語としてのエスペラント語とによる表現力を身につける科目である。
 最終章で改めて論ずるように、共産主義的な世界共同体は暫定的な世界公用語としてエスペラント語を指定するので、各領域圏の義務教育においても初期からエスペラント語教育を行う。
 しかもそれを「外語」として分立させるのではなく、各領域圏の公用語(例えば日本語)と結合して教育することに「言語表現」科目の主旨がある。従って、例えば同じ文を日本語とエスペラント語の双方で書いてもらうといった方法になろう。
 こうした「言語表現」科目の内容的な特徴は、読むことより以上に書くことに重点が置かれる点にある。読むことは表現行為の基礎であり、読み解釈する作用(読解)を通じて表現行為の一環ではあるけれども、それは本質的に受身の表現行為である。子どもたちの構想力‐独創性を引き出すためには、一定の事柄に対する自己の見解を論理的に書くことの積極的な訓練が求められるのである。
 同時に、当科目はメディアやインターネット経由の情報の正確かつ批判的な読解力―情報リテラシー―を習得する教育を包含する。

2:数的思考
 従来の数学(算数)に対応する科目であるが、決定的に異なるのは数という概念そのものを教えることである。従来の数学教育は計算問題中心であり、計算力を訓練することに力点があった。このことが、数学を公式や定理の単なる暗記科目に矮小化させ、数学嫌いを増やす要因ともなっている。
 しかし数学とは数字という世界共通文字(ないし図形)を用いた一つの論理的な表現行為である。その意味で、数学は言語表現の一種であると同時に、科学的思考法の有力な手段ともなる。まさに数的「思考」であり、それは「言語表現」科目と次の「科学基礎」科目とをつなぐ科目でもあるのである。
 そのような性格を持つ「数的思考」科目は単に1+1=2という計算ができることに重点を置くのでなく、この数式がいかなる数的概念を表現するものなのかを考えさせるように努める。これはより複雑な数式や定理についても同様である。

3:科学基礎
 
科学基礎科目は、諸科学の基礎を学ぶ科目である。ここで言う「科学」は最も狭義の自然科学に限らず、一部人文・社会科学にまたがる広義の「科学」を意味している。その点で、伝統的な学校教科としての「理科」より広範囲に及び、伝統教科の「社会科」に一部またがる領域を持つ。
 その点で、いわゆる文系と理系という形式的な区別を撤廃した文理総合的な科学の素養を涵養することを目的とする科目であると言える。これを通じて、迷信や疑似科学的な俗説にとらわれない科学的な市民の育成が目指される。
 具体的には、生物学と物理学・化学の基礎を学ぶ「自然・生命科学系」、地理学と経済学の基礎を学ぶ「人文・社会科学系」、地球物理学及び環境科学の基礎を学ぶ「地球・環境科学系」の三分野から成る。非常に広汎な内容を持つ分野であるため、各系がさらに細分化されることになるが、詳細は上掲別稿に譲る。

4:歴史社会
 歴史社会は、歴史及び現存社会について学ぶ科目である。歴史分野では、伝統的な歴史教育のように国史(例えば日本史)と世界史を分離する教育が転換される。世界史から切り離された国史はまさにナショナリズム教育の最前線であり、国家が廃止される共産主義社会では存在しないカテゴリーである。
 ただ、共産主義の下でも個々の領域圏の歴史というものはなお残るのであり(例えば日本領域圏史)、それを世界史の中に統合的に位置づけながら教育することは行なわれる。
 それと同時に、先史時代から現代までを総覧的に教えるのではなく、近現代史(具体的には、おおむね産業革命以降の歴史)に特化し、それ以前の歴史については自学に委ねれば十分である。
 社会分野では、歴史的到達点としての共産主義的な政治・法律の仕組みを総合的・客観的に理解させることに重点を置く。これは、民衆会議代議員という重要な市民的任務を果たすうえで必要な初歩的理解を身につけさせることに主眼がある。

5:生活技能(一部通学科目)
 共産主義社会では各人の生活体験に根ざす判断力が重視されるため、日常生活の基本技能を学ぶ生活技術教育は一般教科と同等の重要性を持つ。
 全般に、資本主義のもたらした技術革新は利便性を偏重し、自分の手で何かを作ったり、直したりする体験を子どものうちから奪った結果、人間はその本来の創造性を失いつつあるように見える。一方で、利便性を促進する機械化・自動化の波を押し戻すことは、共産主義革命といえども無理であり、日常的に使用する機械を正しく安全に操作する訓練も重要である。
 特に未来社会ではよりいっそう全般化するロボットを含めた情報機器の構造理解や操作法はもちろん、生活の一部となった情報ネットワークの安全かつ正当な利用法の習得も当科目の重要な内容となる。
 こうした機械化対応に加えて、この「生活技術」科目では、性別を問わず全生徒に家事・育児の基礎的技能を修得することも大きな柱とする。かつては各家庭で伝授できたこうした技能も、現代では義務教育を通じて学習すべき必要性がますます高まっているからである。

6:健康体育(通学科目)
 従来の体育教育は多種の競技を総花式に教える競技体育を中心としているが、これは個々の生徒の適性や関心を無視した競技の押し付けであるばかりか、個々の競技の技能も上達しない無駄の多い教育方法である。
 これに対して、共産主義的体育教育は、病気やけがを予防するための体操やトレーニングを中心とし、個々の運動神経にかかわりなく可能な健康体育に転換される。一方、競技体育は民間のスポーツクラブ等に委ねられる。

7:社会道徳(一部通学科目)
 共産主義的道徳教育の重点は、反差別教育である。このことは、前章でも先取りしたように、共産主義社会が社会的協力=助け合いの社会であるからには、互いに異質な者同士も協力し合う社会慣習が不可欠であることに由来する。
 そこで、「人間をその先天的または後天的に獲得された特徴・属性のゆえに劣等視してはならない」というごく単純な道徳規範を一貫制義務教育の全体を通じて徹底的に教育していかなければならない。
 このことはまた、いじめの防止にも効果的と考えられる。なぜなら、対象生徒の自殺を招くような深刻ないじめとは子どもの領分における差別(その多くは容姿に関わる。)にほかならないからである。
 この反差別教育は、義務教育の前半では障碍のある生徒や海外出身の生徒などとの交流を通じた体験学習を中心とし、後半ではより広く被差別当事者(少数民族、性的少数者、容貌/体型少数者等々)をゲストに迎え、その話を聞き質疑応答するといった教科学習的な方法を採ることが有効と考えられる。

 以上に概観した基本七科(言語表現・数的思考・科学基礎・歴史社会・生活技術・健康体育・社会道徳)が一貫制義務教育の必修科目として、その全課程において、反復的かつ発展的に割り振られていくことになる。
 なお、音楽、美術(図工)などの芸術系科目は全くもって個々人の趣向と適性に依存するため、義務教育課程の科目からは除外され、民間の指導教室に委ねられる。

◇職業導入教育
 さて、一貫制義務教育では、以上のような教科学習と並んで、職業導入教育に力点が置かれる。
 職業導入教育とは、一貫制義務教育の中盤から、労働現場に触れさせる体験学習である。これによって、10代から職業イメージを持ち、将来の人生設計を準備することが容易になれば、いわゆるニート化のようなモラトリアム期間の遷延を防ぐことができ、また第3章で論じた純粋自発労働制の可能性にも道を開くことができるかもしれない。
 具体的には、職業導入教育が始まる一貫制義務教育の中盤では「社会科見学」方式で様々な労働現場を直接に見学して回る。終盤では工業、情報、一般事務、農業、水産、福祉、医療、研究等々、代表的な職域ごとの職業指導に加えてインターンシップを導入し、希望する職場で短期間体験労働に従事する。
 このようにして一貫制義務教育を修了した段階で、原則として全員がひとまずは就職する体制が作られる。そのために、心理学や社会学の知識を備えた専門教員を養成・配置したうえ、職業紹介所と連携して生徒の適性と志望に合った職場を紹介するシステムが構築される。
 なお、医師、法律家、教員などの高度専門職については、少なくとも5年以上の就労経験を持つ有職者を対象に、選抜試験に依存せず、職歴内容や使命感、人格識見などを主要素として選考したうえ、前回触れた高度専門職学院で養成する。知識階級制のない共産主義社会では高度専門職の純粋エリート培養は廃されるのである。

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犯則と処遇(連載第46回)

2019-05-16 | 犯則と処遇

39 少年司法について

 前章までの議論は、主として成人の犯則行為をめぐる司法手続きを念頭に置いたものであったが、本章では少年の犯則行為をめぐる司法手続きについて論じる。
 少年は未熟であるがゆえに、処遇との関係では将来の更生可能性に広く開かれた人格的可塑性という特質を持つが、反面、司法との関係では防御力の弱さという特質を持つため、そうした特質に十分配慮された固有の司法制度が用意されている必要がある。

 その点でまず問題となるのは、少年被疑者の身柄拘束のあり方である。中でも16歳未満の年少少年については、防御力の弱さに加え、身柄拘束が教育福祉上にもたらす悪影響をも考慮して、成人並みの身柄拘束は禁じられる(移動制限命令と出頭命令に関してはこの限りでない)。

 この年代の少年被疑者の身柄を何らかの形で確保したい場合は、「補導観護」という特殊な制度をもって対処される。これは少年被疑者を留置場でなく、少年観察所に収容する制度であって、身体のゆるやかな拘束を伴うが、拘束中も学習を課するなど教育的にも配慮されたものである。
 ただし、補導観護は成人なら第二種以上の矯正処遇相当の犯則行為を犯した疑いのある少年にのみ適用される。また、これも一種の未決拘束の制度であるからには、人身保護監の令状に基づかねばならないが、その令状審査に際しては教育福祉上の考慮も必要となるため、令状審査に当たっては少年審判を担当する少年審判委員の意見を求めなければならない。

 一方、16歳以上の少年被疑者については成人同様の身柄拘束が認められるが、勾留は成人なら第二種以上の矯正処遇相当の犯則行為を犯した疑いのある場合に限り、勾留期間も成人の半分の日数(15日)に制限される。
 また留置場所に関しても、成人区画からは完全に遮断された別区としなければならない。留置場の構造上、完全別区とすることに限界がある場合は、少年観察所を代用する。

 さて、少年事件の処理は少年処遇を適用するかどうかによって手続きが大きく分かれる。以前に触れたように、18歳未満は少年処遇の絶対的適用となるが、18歳から23歳までは該当者に対する科学的な鑑別を経て決定される。
 後者の場合はひとまず通常の真実委員会→矯正保護委員会という二段階手続きで行なわれるが、真実委員会の審決の後、矯正保護委員会の審査において少年処遇を課するかどうかの決定がなされることになる。

 これに対し、少年処遇の絶対的適用となる18歳未満の場合は、通常の司法手続きとは異なる少年審判が行われる。通常の司法手続きと異なるのは、少年審判においては真実委員会と矯正保護委員会の二段階手続きを経ず、一回の少年審判で決せられる点である。
 少年審判は非公開で行なわれ、少年審判委員は原則として単独で審判に臨むが、複雑な事案では、二名態勢で臨むことができる。被審人たる少年は一人以上の付添人を立てることができるが、付添人の一人は法律家でなければならない。

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共産論(連載第37回)

2019-05-14 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(4)遠隔通信教育が原則となる

◇学校という名の収容所
 これまで共産主義教育の概要について論じてきたが、教育と言えばそれは学校という施設を通じて行なうということが、現代の国際常識となっている。その結果、各国で様々な種別の学校制度が用意され、先進国を標榜している諸国では大半の青少年が何らかの学校に在籍・通学しているのが通例である。
 しかし、その学校で異変が見られる。不登校やいじめ問題は、その集約的な象徴である。そもそも学校とは、生徒らを予め定められたカリキュラムとスケジュールに服従させ、学校という一定の施設に通学させ、一定時間を拘束し、無断退出を禁ずるある種の「子ども収容所」である。
 収容所という特異な環境は、人間に強いストレスをもたらすことが知られる。学校という名の収容所も同様である。学校という場の現場管理者である教師と生徒の上下関係、生徒間の長幼・学年による上下関係、同級生徒間での「カースト」関係のような施設内階級関係の形成は収容所制度の特徴であり、それが教職員を含めたすべての当事者にとってストレス要因となる。
 中でも最も深刻なのは、いじめ問題である。いじめは加害者の側から見れば、ある種のストレス発散行動とも読み解けるものである。そして学校集団内で特定の特徴を持つ同輩を弁別し、悪意をもって排斥するいじめとは子どもの領分における差別にほかならず、このような差別の訓練所となっているのは家庭以上に、集団化された学校なのである。
 他方、学校制度の効用として力説される知的な鍛錬という点に関しても、知的な興味関心や学習速度が様々な子どもたちを集団的に一斉指導する学校教育の方法論は決して効果的なものではなく、むしろカリキュラムについていけない「落ちこぼれ」を毎年連綿と何世代にもわたって輩出し続けることになる。
 とはいえ、実のところ学校という制度は共産主義教育とも両立する制度であり、学校制度廃止を共産主義から直接に導くことは論理の飛躍になりかねないが、現代的な共産主義においては、学校という制度はもはや必要なくなっていると言える。

◇脱学校化へ向けて
 現代的な共産主義は、教育の脱学校化を実行する。すなわち共産主義的教育は原則として遠隔通信制をもって提供される。この大胆な教育革命は決して夢物語ではなく、すでに資本主義下で進展している情報通信技術の発達がその技術的基盤を保証する。
 実際、資本主義社会でも遠隔通信教育はすでに多方面で開始されているが、通信制教育はあくまでも通学制学校教育の補完的・補充的な意義を担うものにとどまっている。その最大の理由は、全生徒・学生を漏れなくカバーする包摂的な教育通信ネットワークの構築が経済的に至難であるという資本主義社会における物質的な限界にある。
 これに対し、貨幣経済によらない共産主義社会では、そうした物質的な限界が取り払われることは他分野におけると同様であり、脱学校化へ向けた道が現実的に開かれるのである、具体的には、後で述べる一貫制基礎教育(義務教育)の課程も、体育のように性質上通信では実施し難い一部科目を除き、原則として通信教材をもって提供される。そのために必要な通信備品はすべて公的に無償貸与される。
 このようなシステムにおいて、教師はもはや指導管理者ではなく、学習アドバイザー的な役割に純化される。教師は生徒らの必要に応じて質問や面談に応じるが、そうした対面指導もテレビ電話などの通信手段を通じて実施することが可能であり、どちらかが出向く必要もないのである。
 このようなシステムにおいても、観念的には「学校」を想定することはでき、公教育においては地域ごとの生徒のまとまりを一単位として教育サービスを提供することが効率的であろうが、これは技術的な政策に属することである。
 こうした遠隔通信教育は「原則」であって、いくつかの例外がある。上述した通信制による提供が困難な科目はその一つであるが、個別化教育が不可欠な障碍児教育も専門教員による訪問教育のような家庭教師型の教育メソッドが併用される。
 また後に述べる生涯教育機関としての多目的大学校または専門技能学校が提供する科目のうち実技指導を要するもの、さらに医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院は、実地教育が不可欠である性質上、通学制となる(ただし、性質上通信で提供可能な科目は個別に通信化され得る)。

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共産論(連載第36回)

2019-05-13 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(3)大学は廃止・転換される

◇知識階級制の牙城・大学
 各国で高等教育体系の頂点に立つ大学こそ、知識資本制の土台の上にそびえる知識階級制の牙城である。資本主義の下で大学が知識階級制の牙城となっているのは今日、大卒学歴は資本主義社会が提供する収入の高い職種のほとんどすべてで事実上要求されているからである。
 資本企業の経営者層も今日では創業家の世襲よりは経営幹部候補の上級労働者層―言わば資本企業版ノーメンクラツーラ(幹部候補者名簿)―の中から抜擢されるようになっているが、この上級労働者の認証資格も大卒またはその上位の大学院修了とされていることがほとんどである。
 そのうえに、大学間に序列のある諸国ではより序列の高い大学の卒業証書を獲得することが優良資本企業幹部への道を保証するため、子どもの時分から「一流大学」をめざす競争に親子ともども狂奔することになる。
 現在、こうした大学というゴールへ向けての記憶力‐反応性教育のシステムが最も発達しているのは、大学制度本家の西欧以上に、西欧から大学制度を移入したアジア諸国である。
 そこでは記憶力‐反応性をテストするための試験制度が幅を利かせているが、その頂点に大学入試がある。大学入試を突破することこそがまずは人生前半の大目標となり、それが達成されなければ、よほどの幸運に恵まれない限り、生涯一般労働者で終わることを覚悟しなければならない。そして、家庭の教育投資力が十分でない一般労働者階級の子弟はそうした覚悟を人生の早い段階で決めざるを得ない。
 もっとも、世界にはさほど明瞭に学歴に基づく知識階級制が固着していない国もあるだろう。しかし、大学が知識階級制の牙城である限り、それは本質的な差異ではない。そういうわけで、共産主義的教育革命では大学が第一の標的となる。すなわち共産主義は大学制度を廃止する。

◇学術研究センター化
 大学制度廃止などと宣言すれば、やはり知識人抹殺をたくらむクメール・ルージュの再来かと警戒されるかもしれない。しかし決してそうではない。大学を廃止するといっても大学教授たちを収容所送りにするわけではなく、大学を研究機関の集合体としての「学術研究センター」(以下、単に「研究センター」という)に転換するだけである。
 現在の大学も研究機関としての性格は持っているものの、その基本性格はあくまでも教育機関である。この二面性ゆえに、大学教員の過重負担、研究時間の不足を嘆く声も聞こえる。大学の研究センター化はこの状況を変え、研究者が本来の研究活動に専念できる環境を与えてくれるであろう。これなら収容所送りどころか、楽園送りではあるまいか。
 同時に現在、「産学連携」の名において大学が資本の従属下に置かれつつある状況をも変え、より対等かつ相互的な「学産協同」を可能にするであろう。例えば、先進的な環境技術開発をサポートする環境工学や新しい共産主義的生産組織の経営方法を考究する共産主義経営学、賃労働制廃止後の労働のあり方を省察する労働人間科学などの新しい学問分野で、研究センターと生産現場との協同が期待されるのである。
 また資本主義的産学連携と政府による研究助成名目の選別化の中で淘汰されがちな基礎科学研究分野や哲学・文学などの人文系分野も、大学の研究センター化によって再生される可能性が生まれるであろう。一方で、大学の研究センター化は一般市民向けの学術講演会やシンポジウムなどの開催をより活発化し、学術の一般普及に貢献する余地をも広げる。
 こうした大学の研究センター化は私立大学を含めて一斉に実行され、旧国公立大学については社会的所有法人型の研究センターとして公共的な性格を保持していく。
 これに伴い、従来は大学及び大学院が担っていた研究者養成は各研究センターが自前で担うことになる。すなわち各研究センターはそれぞれ独自の方法と条件で研究生を公募・採用し、センター内の固有の養成プロセスを通じて研究者を養成していく。この研究生選考は従来の大学入試をはじめとするアドミッションとは異なり、研究志望者の「就職」の一種であって、純粋に研究者養成に特化した選考システムである。
 なお、医学系、法学系、教育学系などのように高度専門職の養成を担ってきた大学(学部)または大学院課程はそれぞれ医学院、法学院、教育学院といった「高度専門職学院」として研究センターから独立させることで、より実践的な専門職養成が期待できるようになる。

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共産教育論(連載第1回)

2019-05-11 | 〆共産教育論

序説

 もとより、いかなる社会も単に生産のような物質的営為の反復継続だけで維持していけるわけではなく、社会を支える担い手たる人間の育成をも不可欠とする。その点で、教育は当該社会の将来の担い手を育成し、社会を維持していくうえで不可欠の精神的営為である。
 そのため、いかなる社会も何らかの教育制度または慣習を備えている。文明を受け入れず、伝統的な生活様式を固守し続けるいわゆる未接触部族の非制度的な社会ですら、子どもを教育するための慣習的過程は備えている。それは、文明社会において文明を維持継承していくための教育課程が法令上制度化されていることを常とするのと並行的な関係にある。
 文明社会における制度的教育の中心は今日、その主義を問わず、学校制度に代表されるようになっている。学校という制度をおよそ備えない文明社会は存在しないと言ってよいであろう。教育と言えば学校を想起するのが、文明人の常識である。
 中でも、現代世界においては資本主義を基調とする社会がますます多数を占めるに至っているところ、資本主義社会における教育は、子どもが貨幣を基軸とする市場経済の担い手となるべく、貨幣収入を稼得するための職業へ結びつける制度を中核としている。
 その中心にあるのが、通常は有償で提供される学校教育制度である。もっとも、義務教育を無償とする政策が趨勢となっており、教育制度そのものは必ずしも資本主義的原理で貫かれているわけではないけれども、資本主義教育制度の最終目標が子どもを資本主義社会に適応させることにあることは言うまでもない。
 筆者が当ブログの核となる『共産論』において構想提示した共産主義社会もまた文明社会の一つの範型であるから、そこにおける教育課程は制度的に整備されるが、資本主義社会における教育制度とは自ずから異なるものとなるであろう。その概要については、『共産論』第6章にて示したところであったが、共産主義社会の全体像を示すという連載の性質上、個々の制度について詳述することはできなかった。
 そこで、その点を補充するべく、当連載は共産主義社会における教育制度のありようを集中的に論じることを目的とする。その際、当連載では既存の諸制度との具体的な比較対照を通じて、異同を浮き彫りにし、精確な理解の一助となるように心がけるつもりである。

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