ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第270回)

2021-07-27 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(4)南北イエメン革命

〈4‐2〉北イエメンにおける近代化の遅滞
 前回見たように、北イエメンでは、オスマン帝国より独立したイエメン王国(正式名称イエメン・ムタワッキリテ王国)が改めて近代イエメンの担い手となったわけであるが、王国の担い手ラシード朝は千年以上の歴史を持つ古王朝だけに、その保守的な体質は近代の独立王国となっても本質的に変わらなかった。
 元来、北イエメンは結束の固い中世以来の部族勢力が山岳地帯に割拠する状態で、ラシード朝もその中のシーア派系のザイド派教義を信奉する勢力に支持された一種の教団体制にすぎなかったから、絶対的な権力を持ち得ない構造であり、急進的な近代化には無理があった。
 それでも、独立後最初の王となったイマーム(教主)のヤフヤーは、必要最小限度の近代化を進めた。中でも、北に急速に台頭してきたサウド家(後のサウジアラビア建国家)の勢力、南にイギリス領の南イエメンを抱える中、国防の要となる軍隊の近代化には注力した。
 そのため、1932年には革命前のイラク王国との間で軍の訓練を含む条約を締結し、イラクとの関係を強化した。これは事実上の鎖国政策から脱却する一歩であると同時に、イラクで訓練された近代的な上級士官の増加により軍部が近代主義者の政治拠点となり、後に王国の命脈を絶つ共和革命の土壌ともなったのは皮肉である。
 ヤフヤー国王は長い治世を保ったが、ライバルの部族勢力が仕掛けたクーデターの渦中、暗殺された。このクーデターは失敗に終わり、跡を継いだ王子のアフマド・ビン・ヤフヤーは、部族勢力を弱体化するべく、父よりは踏み込んだ近代化を進めたが、本質的に封建的な王国の体質を変えることはなかった。
 そうした中、1952年のエジプト共和革命の余波はいまだ閉鎖的な北イエメンにも届き、国内では汎アラブ主義者も力を持ち始めた。内外の圧力に押される形で、アフマド国王は1956年には相互防衛条約を締結したのに続き、58年にはエジプト・シリアのアラブ連合共和国とともにアラブ国家連合という枠組みを通じて、エジプト主導の汎アラブ主義に合流した。
 共和革命を経た水と油のエジプトとこれほど踏み込んだ関係を結んだ背景として、アフマド国王にはイギリス領南イエメンをイギリスに放出させ、これを併合する「大イエメン」構想を抱いていたためと言われ、両国は同床異夢の関係であった。
 結局、共和制のエジプト(及びシリア)といまだ封建的社会習慣を色濃く残す君主制の北イエメンがそれぞれ主権を維持しつつ連合するという変則的な枠組みには無理があり、アラブ国家連合はほとんど機能しないまま、1961年には解消された。
 とはいえ、50年代にエジプトとの関係が強化され、特に防衛条約を通じてエジプトで訓練された上級士官が増加したことは、軍部内にナセリストのグループが形成される重要な契機となり、間もなく共和革命を準備することとなる。その直接的な動因は1962年のアフマド国王の死と王太子アル‐バドルの即位であった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿