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近代革命の社会力学(連載第387回)

2022-02-28 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐1〉「プラハの春」の残響
 1989年に始まる連続革命の中で、東ドイツ革命と並び、非武装平和革命の範例として記憶されているのが隣国チェコスロヴァキアにおける革命である。この革命は学生・知識人の決起を契機としたこと、最終的にチェコとスロヴァキアの二国分離に進展したことを特徴としている。
 この二つの特徴は、元来チェコとスロヴァキアの二国連邦として微妙な均衡のもとに維持されていたチェコスロヴァキアにおいて、革命前から顕在化していた動向と関連している。
 革命前のチェコスロヴァキアでは、ナチスドイツの占領から解放された第二次大戦後1946年の総選挙で共産党が第一党に躍進するという珍事の後、48年の政変で共産党が他党を排除して政権を独占して以来、ソ連同盟国としてソ連にならった共産党一党支配体制が続いていた。
 チェコスロヴァキアは戦前から東欧では最も工業化が進んでいたが、1960年代後半に入ると、中央計画経済の行き詰まりと、党国家の運営がチェコ中心に偏り差別されていると感じたスロヴァキア側の不満が顕在化し始めた。
 そこへ、当時の全世界的な学生・知識人による反体制抗議活動のうねりの影響から、作家や学生による異議申し立ての運動も加わり、当時のアントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記の指導部は動揺を来たした。その結果、ノヴォトニーは辞任に追い込まれ、1968年1月、スロヴァキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクが新たな党第一書記に就任して改革を打ち出した。
 「人間の顔をした社会主義」をスローガンとするドゥプチェク改革は、あくまでも体制の枠内での自由化を志向する限定改革策であったが、内容的には20年後のソ連におけるゴルバチョフ改革を先取るような内容であった。
 これをソ連からの離反と見て危機感を抱いた当時のソ連指導部は、チェコスロヴァキアも加盟していたワルシャワ条約機構を盾に取った「制限主権論」のロジックに基づき、軍事侵攻に踏み切り、武力をもってドゥプチェク指導部を転覆した。こうして、短い改革期であった「プラハの春」は挫折し、代わって「正常化」と呼ばれる反作用の親ソ抑圧体制が構築された。
 この反作用を主導したのは、本来ドゥプチェク派ながら寝返り、ソ連によって新たな党第一書記に抜擢されたグスターフ・フサークであった。その立場は1956年のハンガリー民主化未遂革命(ハンガリー動乱)の後にソ連に擁立されたカーダールに似るが、フサーク体制ははるかに教条的かつ抑圧的であった。
 そのような揺り戻しの中でも、「プラハの春」でいっとき解放された知識人・文化人の抗議運動は継続され、1977年には、242人の文化人らが署名をもってフサーク体制下の人権抑圧を訴え、1975年にソ連・東欧を含む東西の首脳が参集して合意した全欧安全保障協力会議におけるヘルシンキ宣言(人権尊重を含む)の順守と対話を求める文書を、当時の西側諸国の新聞に掲載した。
 この署名活動は「憲章77」と呼ばれ、それ自体は組織された反体制運動ではなかったが、フサーク体制側はこれを反国家的なブルジョワの活動とみなして署名者らを弾圧・迫害し、一切耳を貸そうとはしなかった。
 しかし、発起人・起草者には革命後最初の大統領となる劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルも名を連ねた憲章は綱領的文書として持続的な浸透力を持ち続け、革命が始まる1989年までに署名者は2000人近くに増加していた。
 このように、1968年「プラハの春」は短期で挫折しながら、その後の「正常化」体制下でもその残響は続いていき、1989年革命の遠い予行演習のような意義を持ったと言えるが、89年の「本番」の展開は、「プラハの春」とは真逆に短時日での体制崩壊を導くことになる。


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