ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第330回)

2021-11-16 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐2〉右派クーデターから内戦へ
 シハヌークの人民社会主義共同体(サンクム)は、右派から中立派、左派までを包括するある種の翼賛体制であり、その点で、ラオスが脆弱な君主制のもと、中立派を含めた三派間で内乱状態に陥ったのは異なり、政治的な安定性を一定担保し得る体制であった。
 とはいえ、そのイデオロギー的軸となっていた「仏教社会主義」は漠然とした思想であり、政治的諸派の対立を止揚するに足るものではなかった。そのことが露呈したのは、1960年代後半期である。特に67年の総選挙で全議席を獲得したサンクム内の右派が躍進したことにより、体制内パワーバランスに乱れが生じた。
 結果として、右派内閣が発足したことに対して、シハヌークはサンクム内左派から成る影の政府を形成して右派を牽制した。このように左派の力が増したことは、当然にも右派に不満をもたらした。
 特に外交上、シハヌークは元来、非同盟中立を志向しながらも、隣国ベトナムでの戦争/革命が進展すると、北ベトナムによるカンボジア領内の拠点使用を黙認し、南ベトナムの臨時革命政府を外交的に承認するという挙に出た。
 こうした戦略は、右派及びアメリカからは「容共的」と受け取られ、次第にシハヌーク排除の機運が高まった。その極点として、1970年3月、前年に首相に就任していた右派のロン・ノル将軍がシハヌークの中国訪問中にクーデターを起こし、全権を掌握、自らを大統領とする「クメール共和国」の樹立を宣言した。
 これは政体変更を伴ったものの、革命ではなく、まさしくクーデターであり、これ以降、クメール共和国は親米反共体制としてアメリカに協力姿勢を取ったため、アメリカはカンボジアにも公式に戦線を拡大し、カンボジア領内の北ベトナム拠点を攻撃できるようになった。
 一方、政権を追われたシハヌークは直ちに亡命政府「カンプチア王国民族連合政府」を北京にて結成し、中国の支援を得てクメール共和国に対抗した。注目すべきは、「連合政府」には共産党が参加したことである。カンボジアの共産党は旧インドシナ共産党の流れを汲む政党であり、1951年から活動を開始したが、60年代に政府の弾圧により、その主力は密林地帯に逃れ、ゲリラ化していた。
 その点、シハヌークと共産党の関係性は複雑で、元来、シハヌークが与した仏教社会主義は反共的色彩が強く、特にビルマのネ・ウィン独裁下では共産党は弾圧排除されたが、シハヌークはパワーバランスを重視し、サンクム翼賛体制にも一部の共産主義者を取り込んでいた。
 その一方で、国内での左派学生や農民の反体制運動が高揚すると、対抗上共産主義者弾圧に動き、サンクム内の共産主義者も密林地帯に逃亡していた。しかし、1970年のクーデターで政権を追われたシハヌークは、権力奪回のため、明確に共産党との連合に踏み切ったのであった。
 こうして、親米ロン・ノル共和体制と親中シハヌーク亡命連合政府という対立図式が明瞭になると、カンボジアでもベトナム戦争と連動した内戦が勃発する。特に1972年にロン・ノルが改憲により独裁体制を確立すると、共産党は武装活動を本格化させた。


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