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近代革命の社会力学(連載第91回)

2020-04-08 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(3)イラン立憲革命

〈3‐3〉第二議会と列強の反革命介入
 1906年末にイラン初の近代憲法に署名したモザッファロッディーン・シャーはすでに病床にあり、明けて1907年1月に死去したため、モハンマド・アリー・シャーが跡を継いだ。元来から反動的な彼は、立憲制に否定的であったため、即位するや、父が署名した新憲法の廃止を宣言した。
 その際、モハンマド・アリー・シャーは革命派内部の党争を有利に利用することができた。革命派内部に、伝統的なイスラーム法(シャリーア)に基づく立憲制を主張する保守派と近代憲法を擁護する革新派の対立関係が生じていたからである。
 こうした革命派内部の対立が各地で衝突に発展すると、モハンマド・アリー・シャーは事実上の宗主国であったロシアとイギリスの支援を受け、1908年、議会を砲撃して解散に追い込んだ。このクーデターはしかし、一時的な成功しか収めなかった。クーデターに対して、地方の民衆会議が抵抗を開始したからである。
 アンジョマンと呼ばれたこれら民衆会議の拠点となったのは、北西部の都市タブリーズであった。タブリーズのアンジョマンは第一議会の時代から事実上の自治体制を築き、独自の警察・司法権まで行使する存在になっていたからである。同時に、タブリーズ・アンジョマンは社会主義的な傾向を強め、イランでも最も革新的であった。
 王権側がタブリーズに鎮圧軍を差し向け、包囲戦を展開すると、アンジョマン側は階級横断的な義勇軍を組織して抗戦した。王権側がその鎮圧に手こずる中、各地のアンジョマンがタブリーズに続いて蜂起した。1909年には、これら革命勢力がテヘランに進軍すると、モハンマド・アリー・シャーはロシアへ亡命した。
 しかし、立憲革命第二期を画するこの民衆革命は一気呵成にカージャール朝を打倒する共和革命とはならず、引き続いてモハンマド・アリー・シャーの息子アフマド・シャー が即位しつつ、第二議会が開設された。第二議会は、階級別制限選挙かつテヘラン偏重の定数不均衡選挙によった第一議会の欠陥を正し、より民主的な議会制度となった。
 その結果として、議席の過半数を宗教指導者、地主、官僚などが占めるブルジョワ議会の性格を強め、革命を収束させる方向に動いた。これに対し、政教分離や農地改革などの急進的な政策を掲げる革新派が対立し、その対立は議会外でのテロリズムを助長した。このような内紛は、革命の進展には大きなマイナスであった。
 しかし、最終的な打撃となったのは、最大課題であった王朝の財政破綻を立て直すべく、アメリカ人のモルガン・シャスターを財務総監に招聘するという奇策であった。
 シャスターは、アメリカ支配下のキューバやフィリピンで税関長を務めた経験のある法律家であり、効率的な徴税機関や王族領地の接収などを断行しようとするも、ロシアの強い反対にあった。
 1911年、ロシアはシャスターの罷免を要求し、イラン北部に侵攻、第二議会を閉鎖するという挙に出た。実は、ロシアは第二議会開設前の1907年にライバルのイギリスと西アジア方面の権益分割を約する英露協商を締結し、イランに関しては北部をロシア、南部をイギリスの勢力圏とする合意を交わしていた。
 1911年のイラン侵攻はこうした協商に基づく軍事行動であり、イギリスの黙認の下に実行されたものであった。こうして、イラン立憲革命は列強の反革命介入により、終焉したのである。以後、カージャール朝自体は1925年まで持続するが、ロシアの支配の下で形骸化していった。
 民衆革命の成功例かに見えたイラン立憲革命がこのように外圧によって挫折する結果に終わったのは、宗教的なバックボーンが強い風土の中、革命派内部の対立を止揚できなかったことに加え、共和革命に進展させることをせず、王朝の背後にある列強の支配にも抵抗せず、内政問題にのみ集中するという革命派の政略のまずさもあっただろう。


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