ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第341回)

2021-12-06 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(5)1978年社会主義革命
 1973年共和革命によって成立したダーウード政権が次第にダーウード大統領の個人独裁に傾斜すると、最も敏感な反作用を示したのは、人民民主党(PDPA)であった。PDPAは以前の回でも見たように、急進的な人民派と穏健な旗派とに事実上分党されていたところ、後者は共和革命にも協力し、政権にも参加しながら、次第に排除されていた。
 そうした中、1978年4月、一人の旗派幹部が暗殺される事件があった。この事件の真相は不明であり、PDPAの内部犯行説から、ソ連、アメリカ、イランの関与説まで諸説林立状態であったが、PDPAではダーウード政権が関与したものと宣伝した。
 この宣伝工作が功を奏し、事件後、PDPA支持者による1万人以上が参加する抗議デモが首都カブールで発生した。これに危機感を強めたダーウード政権はPDPAに対する大弾圧に乗り出し、その主要幹部を拘束・投獄した。
 しかし、この強権発動はかえって逆効果となる。この頃には、軍部内にもPDPAが深く浸透していたため、獄中の党幹部の指令に基づき、軍部のPDPA支持派勢力がクーデター決起し、ダーウード政権の打倒に成功した。
 これは形態としては軍事クーデターであったが、その後、釈放されたPDPA幹部を中心に社会主義体制が樹立されたため、「四月革命」と呼ばれる革命に進展した。それにしても、暗殺事件の4月17日から、革命の27日‐28日までわずか10日余りの電撃的な政変であったことから、すべて事前に計画されていた可能性もなしとしない。
 実際、革命を主導したのは、暗殺された幹部が属した旗派ではなく、人民派であった。もっとも、党組織はソ連の仲介を得て前年度に再統合を果たしていたが、多分にして形式的な再統合であり、革命の時点では人民派が優位にあった。
 そのため、ヌール・ムハンマド・タラキー党書記長を議長とする革命評議会は人民派が中心となり、急進的な政策を追求する。それを象徴するのが、反革命派に対する報復である。ダーウード大統領とその家族も殺害されたほか、旧王族も多数が処刑または投獄された。
 君主制は共和革命によりすでに廃されていたにもかかわらず、改めて旧王族が標的となったのは、革命政権がダーウードも属していたバーラクザイ部族の支配の終焉を宣伝するための象徴的な報復であったが、政権はさらに過激化し、1978年‐79年の間、社会主義に反対する宗教保守派などおよそ2万7千人を処刑したと推計されている。
 経済政策面でも、人民派がかねて最大の焦点としていた農地改革を展開し、部族有力者の所有する土地の無償接収と再分配を断行したが、その性急さのため、農業生産力の低下という逆効果をもたらした。このことは、地方農民にも反政府感情を植え付け、内戦の端緒ともなる。
 一方、社会政策面でのよりポジティブな施策として、女性の権利の向上がある。PDPAは両性平等を政策化し、封建的なイスラーム社会習慣の打破を目指した。その象徴として、革命評議会のメンバーに選出され、後に同副議長を務めるアナヒタ・ラテブザードのような女性幹部の存在があった。ただし、こうした平等政策は首都カブールに偏り、間もなく始まる内戦の拠点となる地方農村には十分に及ばなかった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 民事弾圧を許した「憲法の番人」 | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿