ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

良心的裁判役拒否(連載第21回)

2012-01-28 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第10章 市民的不服従へ(続き)

(2)「プチ革命」の可能性
 戦後の日本支配層は、旧兵役制度のように国民全般に過酷な役務を強制するような制度の創設を長く自制していました。それは、―彼らにとっては不本意にも占領下で「押し付けられた」―現行憲法で規定されるようになった基本的人権及び自由に一定は譲歩して手控えてきた結果なのでしょう。
 戦後半世紀を過ぎて、そうした長年の自制を大きく転換したのが、裁判員制度と、「努力義務」の形を取りつつも実質的な戦争協力義務を国民一般に課する有事法制です。その意味で、裁判員制度の創設は、有事法制の整備と並んで戦後日本の画期点と言ってさしつかえないものです。ただし、画期点と言っても、前進へ向けての画期ではなく、個人の尊厳よりも国家の尊厳を優先する戦前の権威主義的な体制へ向けての逆行的な画期です。
 これはもはや本連載の主題を超えた話になりますが、管見によれば、戦後日本およそ70年の「発展」プロセスはその全体が戦前的な体制へ向けて逆走を続けてきた「後方への発展」の歴史であったと理解されるのですが、裁判員制度は同時に配備された有事法制とともに、そうした「逆走」のプロセスをいっそう加速化させる新たな道具立てなのです。
 その行き着く先には、―改憲を伴いつつ―軍事的な兵役制度の復活と旧治安維持法に準ずるような思想取締法規の再現前とが待ち構えているでしょう。
 そういう認識に立つとき、裁判員制度を市民的不服従によって廃止に追い込むことは、「逆走」の流れを―完全に阻止することは困難だとしても―歯止める「プチ革命」の意義をも帯びてきます。それだけに、当局としても裁判員経験者を使った世論工作の推進や罰則の強化など、状況を見ながら硬軟織り交ぜた制度防衛策を繰り出してくる可能性があります。
 そこで、「プチ革命」を成功へ導くためには、一般市民とともに弁護士たちが市民的不服従に合流することがカギになると思われるのです。
 裁判員裁判の対象事件は刑事訴訟法上はすべて弁護人が付かなければ開廷することのできないいわゆる「必要的弁護事件」です。従って、もし弁護士たちが裁判員裁判の対象事件での弁護を一斉にボイコットする一種のストライキに出れば、公判を開くこともできず、制度はたちまち立ち往生してしまいます。
 現状では日弁連が全面的に制度を支持・推進する立場にあるため、そんな「弁護士スト」は望み薄ではありますが、個々的に制度に反対する弁護士たちが、単に口で批判するだけにとどまらず、裁判員制度への協力を拒否することは制度を廃止させるうえで大きな動因となります。
 ただ、それは一方で、裁判員裁判を回避することが許されていない対象事件の被告人にとっては、弁護人がなかなか付かないという不利益をもたらすことになるため、弁護士倫理上の問題を生じかねないこともたしかです。
 しかし、正当な事由のない診療拒否が法律上禁じられている医師とは異なり(いわゆる応召義務)、弁護士の弁護拒否は違法ではありません。それは弁護という仕事が微妙な勝敗予測のうえに成り立つからというだけでなく、弁護士自身の思想・信条と無関係には成り立たないことにもよるものでしょう。弁護士にはある種の「良心的弁護拒否」が認められるのです。
 もっとも、裁判員制度推進の旗を振っている日弁連は、制度に批判的であるがゆえに対象事件の弁護を拒否する会員弁護士に懲戒処分を科そうとするかもしれません。しかし、法律のプロである弁護士は自身に対する不当な処分に対する高度の防御能力を備えているはずです。もちろん、日弁連が「改心」して制度反対論に転じてくれるのが一番良いのですが。
 いずれにせよ、裁判員制度の最終的な帰趨は弁護士層の動向いかんにかかっていると言っても過言でありません。その意味で、「弁護士の反乱」は裁判員制度の廃止をもたらす隠れた必須条件なのです。

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良心的裁判役拒否(連載第20回)

2012-01-27 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第10章 市民的不服従へ

(1)個人的拒否から集団的拒否へ 
 
前回まで、裁判員制度は不正の制度であり、その廃止を公然求めることをためらう必要はないこと、そしてその突破口は良心的拒否にあることを論じてきました。
 ただ、良心的拒否は本質的に個人的な実践であって、それを通じて直ちに制度の廃止につなげることは困難です。それはまだ、制度の維持を前提に「少数者」の尊重を求めるというレベルにとどまります。
 そこで、言葉の真の意味で「拒否から廃止へ」を実現するためには、個人的な拒否を集団的な拒否へと高めていく必要があります。このような個別的な良心的拒否を超えた集団的な良心的拒否は、もはや狭い意味の「良心的拒否」にとどまらない市民としての不服従=市民的不服従へと発展していきます。
 良心的拒否の先覚者ソローが論文タイトルに冠した「市民的不服従」は、彼が示したような孤独な単独行動ではなく、集団的な連帯行動のうねりに高められて初めて生きてくるのです。
 そこで考えなくてはならないことは、今はまだ各地で個々ばらばらに実践されているであろう良心的裁判役拒否の集団的なうねりをどのようにして作り出せるだろうかということです。
 最も端的なのは、一種の運動体を結成することです。こうした運動体は裁判員候補者として抽選される前の市民同士の予備的なものであれば、現状何ら問題なく結成できるのですが、問題はいざ裁判員候補者に抽選され、呼び出されてしまった場合です。
 そうした場合、候補者は連携して情報交換し合い、励まし合いながら拒否行動に出たいところですが、裁判員法はこうした連帯行動を妨げるかのような規定を置いているのです。
 すなわち同法101条1項前段は「何人も、裁判員、補充裁判員、選任予定裁判員又は裁判員候補者若しくはその予定者の氏名、住所その他の個人を特定するに足りる情報を公にしてはならない。」と定めています。
 この規定は一見して「個人情報保護」を趣旨とするように読めますが、それは本人以外の第三者―特に裁判所職員をはじめとする訴訟関係者―にも個人特定情報の保護が義務づけられている限りにおいてのことです。「何人も」という文言には本人自身も含まれるわけで、例えば、裁判員候補者に抽選されたあなたや筆者が自らその事実を個人が特定されるような形で公表することも禁じられているのです。このことによって、裁判員候補者同士(裁判員同士も)が横に連帯することが妨げられてしまいます。
 ただ現行法上、この規定には違反した場合の罰則が設けられておらず、いわゆる訓示規定にとどまることが一つの救いです。従って、この規定に公然と違反して裁判員候補者同士が徒党を組んでもそれだけで制裁を科せられることはないわけです。
 もっとも、訓示規定とはいえ、法の規定に違反することは例の「不公平な裁判をするおそれ」の認定に影響する可能性はあり、排除されることも考えられますが、裁判役を拒否したい市民にとってはかえって好都合なことでしょう。
 もし今後、裁判員制度に対する市民的不服従の運動が盛り上がれば、当局は先の法101条に過料あるいは刑罰の制裁規定を付加する法改正で応じてくる可能性もないことはありませんが、そこまでの挙に出られた場合は、匿名で参加できる形の運動体を結成すること―その際は、インターネットが有用でしょう―を考えればよいと思われます。
 ただ、注意すべきは、態度を決めかねている裁判員候補者に対して、裁判役を拒否するよう説得することは、場合により裁判員法107条に定める裁判員等に対する威迫罪に問われるおそれがあることです。
 同条は第1項で過去の裁判員経験者等への威迫罪を定めていますが、第2項では現役裁判員、裁判員候補者等やその親族に対してまで、「面会、文書の送付、電話をかけることその他のいかなる方法をもってするかを問わず、威迫の行為」をすることを最大で2年の懲役刑をもって禁じているのです。裁判員法上の様々な罰則規定―過料から罰金、懲役刑まで罰則のデパートでもあります―の中でも一番重いのがこの威迫罪です。
 処罰されるのは「威迫」ですから、常識的な範囲内で裁判役を拒否するよう勧めることは「威迫」に当たらないはずですが、「威迫」とは「脅迫」より広く漠然とした言葉で、一般に「他人に対して、言語、動作で気勢を示して、不安、困惑の念を生じさせること」とされていますから、迷っている裁判員候補者にやや強い調子で拒否を説得して悩ませたりするようなことをすると、「威迫罪」が成立しかねないおそれがあるのです。
 従って、裁判役を集団的に拒否するにあたっても、理解ある弁護士の助言は不可欠になるでしょう。

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良心的裁判役拒否(連載第19回)

2012-01-21 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第9章 超法規的に拒否する方法(続き)

(4)制裁のリスク
 
超法規的な方法による良心的拒否を実践するときに念頭に置かねばならないのは制裁を科せられるリスクです。特に、理由を示さない全面的不出頭は裁判所側から「正当な理由」を欠くと判断されやすいため、注意を要するところです。
 この場合に科せられる可能性があるのは、何度か指摘してきた過料(最大10万円)です。過料は罰金と似ていますが、刑事罰である罰金とは異なり、行政的なペナルティーです。従って、捜査機関によって身柄を拘束されるような心配はありません。
 ですが、過料は非訟手続という特殊な裁判手続を通じて科せられ、その際に裁判所は予め検察官の意見を聴くものとされ(非訟事件手続法162条1項)、過料の執行は検察官が行うことになっています(同法163条1項)。このように、過料という制度は刑事手続とは異なりながら、検察官が関与してくるという点では罰金の制度に近似しています。
 もちろん当事者は争うこともできますが、それは即時抗告という簡易な手続によってです(裁判員法113条)。当事者はここで不出頭に「正当な理由」があったことを証明し、過料処分の不当性を訴えることができます。ただ、そうすると、結果として自分自身の信条の内容を裁判所で明かさざるを得なくなるというジレンマもありますし、それなら最初からそのように申し出ればよかったとして、即時抗告を棄却されてしまうこともあり得ます。
 ところで、この即時抗告を通じて裁判員制度の違憲性を主張し、憲法訴訟に発展させるという方法もあります。これは最も断固たる訴訟の方法ではありますが、落とし穴もあります。
 それは裁判所が裁判員制度の違憲性を認める可能性は乏しく、合憲の判断が示される公算が高いということです。というのも、最高裁当局は憲法の番人としてあらゆる国家制度の憲法適合性を中立な立場で審査するという憲法上の職責に反して、政府とタッグを組んで裁判員制度のPRに努めてきた手前、今さら憲法違反を言い出せなくなっているからです。
 実際、昨年11月には、裁判員裁判を受けた被告人側が裁判員制度の違憲性を主張した上告に対して、最高裁は明白に合憲とする判決を出しました。この判決で、最高裁は裁判役を義務づけることは憲法18条が禁ずる「意に反する苦役」に当たらないとも明言しています。
 この判決は15人の判事の全員一致であったことからして、仮に裁判員候補者が憲法違反を主張して争った場合でも同一の結論となる公算は高いと見られます。
 憲法訴訟を提起して最高裁まで争った末に合憲判断を引き出してしまうと、最高裁の判例は先例として大きな重みを持ちますから、やぶへびとなる危険が高いわけです。従って、憲法訴訟を提起するかどうかについては慎重に熟慮したほうがよいと思われます(当面は提起しないほうがよいというのが私見です)。
 なお、前回見た良心的守秘義務違反に対して想定される制裁は、「6ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金」という投獄を含むまぎれもない刑罰です。従って、当事者は捜査機関によって身柄を拘束され、刑事訴追される危険にも直面します。
 万一捜査が始まってしまったら、少なくとも身柄拘束は回避するため、捜査機関の任意出頭要請は受け入れ、捜査に協力したほうがよいでしょう。さらに、刑事訴追を避けるためには、冤罪を明らかにするなどの正当な目的でのやむにやまれぬ行動であったことを説明し、不起訴処分とするよう検察官に要請することです。それでも起訴を強行されてしまった場合は、実質的な違法性がないことを主張して起訴事実を争い、無罪判決の獲得を目指します。
 以上の検討からも明らかなように、裁判員制度とは、各人の良心の領域に対して、民事・刑事の両面から制裁=抑圧を加える衝動を隠さない、まさにファッショ的な制度なのです。
 それだけに、限られた有効な法的対抗措置を検討するうえでは弁護士の助言と支援が欠かせないでしょう。その際は、裁判員制度全般に批判的・否定的な弁護士を探すべきだと思われます。
 現在、日弁連は理論編でも指摘したような経緯から総体として裁判員制度を支持・推進する翼賛的な立場をとっていますが、個々的には制度を厳しく批判し、反対運動に身を投じている弁護士も少なくありませんから、そうした弁護士のほうが一般的な弁護士よりも的確な助言と熱心な支援とを得られやすいと考えられるのです。

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良心的裁判役拒否(連載第18回)

2012-01-20 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第9章 超法規的に拒否する方法(続き)

(3)良心的守秘義務違反
 
今回は、本来の主題からは外れますが、裁判員経験者が自らの良心に従い、あえて守秘義務に違反して評議の秘密等を公表する「良心的守秘義務違反」の問題に触れておきたいと思います。
 裁判員制度施行後現在までのところ、このような事例は生じていないようですが、自らが関わった有罪判決に冤罪の疑いが生じてきた、あるいは冤罪として再審無罪が確定してしまったといった場合に、一審裁判当時無罪意見を述べながら有罪の多数意見に押し切られた元裁判員が良心の呵責を感じて自分は無罪意見を述べたという事実をメディアなどに公表し、自らも関与させられた有罪判決を批判するといった行動に出ることはあり得ます。
 しかし、理論編でも述べたように、守秘義務は自分自身を含む評議時の「裁判員の意見」から「事実の認定の当否」にも及ぶのですから、元裁判員が上のような行動に出れば、守秘義務違反の罪に問われ、最大で6ヶ月の懲役刑に処せられることになります。
 実は、裁判員制度施行前の職業裁判官裁判の時代に、同様の事態が生じたことがあります。元プロボクサーの袴田巌氏が勤務先であった会社の専務一家を殺害し金品を奪ったとして、強盗殺人等の罪に問われ、最高裁でも死刑判決が確定しながら、現在では戦後の代表的な冤罪事件として再審開始が待たれている「袴田事件」をめぐって、この事件の第一審死刑判決(昭和43年静岡地裁判決)に陪席裁判官として関与した元判事の熊本典道氏が、当時自分は無罪の意見を述べたが、2:1の評決で有罪・死刑判決の結果となったという事実を記者会見して公表したのです。そのうえで、熊本氏は当時の一審判決は誤りだったとも明言し、同事件の再審支援を表明しました。
 ちなみに、袴田氏は昭和55年に死刑判決が確定した後、精神に変調を来たし、正常なコミュニケーションができない状態が現在も続いているということで、冤罪の重圧が当事者の精神障碍まで引き起こした点でも最も悲劇的な冤罪事件の一つです。
 さて、このような異例の、しかし良心的な行動に出た熊本元判事は守秘義務違反の罪に問われないのかというと、何の咎めもありません。職業裁判官は裁判員のような形で法律上守秘義務を課せられていないからです。これも不公平な話ですが、職業裁判官の場合は評議の秘密を一生涯守り通すことが職業上の不文律となっており、わざわざ罰則を置いて取り締まるまでもないと考えられているようです。
 ただ、法律上守秘義務を課せられる裁判員の場合にあっても、良心的守秘義務違反は、良心的裁判役拒否と同様に、思想良心の自由の発露ですから、形式上守秘義務の罪を構成するからといって、直ちに処罰されるべきではありません。金銭目的などでなく、真摯な気持ちから自らの良心に従ってあえて守秘義務を破ったと認められる限り、社会的にも正当な行為として、そもそも不起訴とされるべきでしょう。
 同様に、そのような元裁判員に接触して談話を取り、公表に協力したジャーナリストその他の表現者も共犯の罪に問われるべきではありません。

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良心的裁判役拒否(連載第17回)

2012-01-14 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第9章 超法規的に拒否する方法

(1)憲法及び条約に基づく拒否
 この章では、前章で見た合法的に裁判役を拒否する方法に対して、超法規的に拒否する方法を見ていきます。
 ただし、ここで言う「超法規的」とは「違法」という意味ではなく、裁判員法に規定のない方法によるという趣旨です。裁判員法に規定のない拒否だからといって直ちに違法となるのではなく、他のより上位の法規範に根拠を見出すことができる場合があります。その最も正攻法的なものは憲法にのっとった方法です。
 ここで、良心的拒否の究極的な根拠は憲法19条で保障された思想良心の自由にあることを再確認しておきます。ただ、これもすでに指摘したように、憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」というたった一片の条文だけでは良心的拒否という実践を基礎づけるには不十分なきらいもあることから、直接に国内法的効力を持つ国際人権規約18条2項の「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」という規定を併せて主張することで、憲法条項の限界を補うことができます。
 従って、この方法は本来「超法規的」というよりも、まさしく「合法的」な方法とみることもでき、良心的拒否の方法としても最も正攻法的なものとさえ言ってよいのですが、裁判員法は良心的拒否の規定を正面から置いていないために、結果として「超法規的」とならざるを得ないという理不尽さがあるわけです。
 問題は、この方法をどのような状況で使うかですが、まずは前章で見た合法的な各方法の可能性を検討したうえで、どうしても該当するものが見出せないとか、それらの方法によったところ成功しなかったという場合に残された方法として使ってみるのがオーソドックスではあると思われます。
 もちろん、ストレートにこの方法によってもよいのですが、その場合、逆に裁判官の側から法令に基づく「辞退」の方法を検討するように勧められる可能性もあり、そうなると初めからそうするのと同じ結果となるでしょう。
 いずれにしても、この方法を着実に実行するためには、裁判員選任手続に「出頭」し、裁判官の面前で自己の信条の内容を説明した上で、憲法及び条約にのっとって拒否したい旨を表明する必要があります。
 そうなると、やはり自己の内心事情を踏み込んで開示させられるばかりか、「超法規的」であるがゆえに法律面でも裁判官が難色を示し、受け入れてくれないおそれもあります。裁判官とちょっとした法律論争をするくらいの覚悟は必要かもしれません。そこで予め自分自身の見解をまとめた書面を準備し、裁判所に提出するといったことも有益と思われます。
 一方、裁判所の側でも、裁判員法に良心的拒否条項が置かれていないからといって、良心的拒否を一切許さないという硬直した運用に走るのではなく、裁判員法より上位の規範である憲法及び条約に基づく良心的拒否を認める運用を確立することが、まさに憲法上要求されているとものと考えます。

(2)全面的不出頭
 今まで見てきたような合法的及び超法規的方法はどれもまどろっこしいし、プライバシーも保てないとお感じの方は、端的に呼び出しに一切応じないことです。
 このような場合に裁判所側がどこまで追いすがってくるのか実態は承知していませんが、仮に電話等で問い合わせが来ても「出頭しません」の一点張りで、出頭しない理由も明かさないのです。
 通常の良心的拒否では、自己の信条を開示したうえで拒否するのですが、そうなると自己の信条を第三者、とりわけ公権力に対して明かさない自由―そうした「沈黙の自由」も思想良心の自由の重要な内容を構成します―については自ら放棄せざるを得ないことになります。それを避けるには、理由を示さない全面的不出頭という黙秘的な不服従を実行するしかありません。
 実際上、最高裁の平成22年度データによると、呼び出された裁判員候補者の選任手続期日出席率(呼出取消しの場合を除く)は約80パーセントとされており、残りの20パーセント、つまり5人に1人は不出頭を実践している計算になりますから、すでにこうした形で裁判役を拒否されている方は一定数おられるようです。
 しかし、この方法による場合、裁判所の側では果たして不出頭の理由が良心的拒否なのか、それとも単に面倒で回避したいだけなのか確認がとれないので、さしあたり正当な理由のない不出頭とみなさざるを得なくなります。そのため、この方法によるときは、例の過料の制裁を覚悟しておく必要もあります。
 そういうリスクを回避する一種の妥協策として、裁判所から呼出状が届いたら、(1)で見たように憲法及び条約に基づく良心的拒否の実践として出頭しない旨を説明した書面を裁判所宛てに郵送するといった方法もあり得ます。言わば、(1)と(2)とを組み合わせたような方法です。ここまでしておけば、裁判所側から正当な理由のない不出頭と決めつけられることはないでしょう。その代わり、やはり沈黙の自由は最小限放棄することにはなります。
 このように、裁判員制度とは進むも退くも落とし穴だらけ・・・・・のようです。

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年頭雑感2012

2012-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は、「絆」であった。こういう漢字が選ばれたのは、2011年の日本を揺るがせた3・11で「絆」の大切さを再確認した人が多かったためだと言われる。

ただ、裏を返せば、近年はそれだけ「絆」が脆弱化していたということを暗示もしている選字である。

「絆」と言った場合、真っ先に念頭に浮かぶのは、今なお家族の絆であろう。家族が人間の社会性の基盤であることは、時代が変わっても変わらない法則と言ってよい。

ところが、戦後の家族モデルである核家族ほど脆弱な家族もない。この家族は「両親+子ども」のせいぜい4人ないし5人で構成されるのが標準で、近時は3人、2人家族も珍しくない。そして、1人だけの単身世帯=無家族も急増中。世帯構成員数は減少の一途である。 

家族はかつて最低限度の福祉機能さえ備えていたが、現代の最小核家族に福祉機能を期待しても、もはや望み薄だ。

そこで、言わば公的な絆としての社会保障・社会福祉という領域が発達してきた。しかし、この領域の発達ぶりは各国や国内の各自治体ごとの格差も激しく、ピンからキリまで勢ぞろいである。

しかも昨今は、こうした社会的絆を最小限度のものに切り縮めようとするイデオロギーも盛んになり、「市場の要求」に従い公財政の均衡を最優先する傾向が強まってきたことで、社会的絆も溶解・解体の途上にある。

結局、家族的絆も社会的絆も脆弱化した心細い時代に私たちは生きていることになる。はて、どうすれば?

ここで登場願いたいのは、第三の絆と言うべき政治的な絆、つまり政治的連帯である。政治とは生物の中で人間だけが実践する社会連帯的な営みである。これを通じて、私たちは自分たちの社会の地平を切り拓いていくことができる。

しかし残念ながら、現代日本では、この絆が前の二つの絆にもまして脆弱化している。

政治的連帯行動はほとんど不発となり、政治は行政専門職の手に委ねられてしまって久しい。そして、社会的絆の解体に熱心なのもかれらである。この状況を変えない限り、「絆」を言葉としてどれほど叫んでも空しい美辞麗句に終わる。

この点で、昨年の3・11に付随した原発大事故を契機に、1960年代頃までは盛んだったデモ行動が再活性化してきたことは注目される。

たしかにデモは民衆の政治行動として意義ある手段であることは間違いないが、それだけで社会を変革するパワーを持つわけでないことも、60年代の経験が証明している。

デモを通じてどんな社会を作り出したいのか、社会的な討議とそれに基づく具体的な変革の行動とが必要である。そうでなければ、デモは一過性の政治イベントと化し、今度はイベント企画業者の手に委ねられることになる。

2012年は、こうした政治的絆がどこまで回復されるか、また新たに進展するかが問われる年になるだろう。

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