ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

民衆会議/世界共同体論(連載第17回)

2017-11-30 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第4章 民衆会議の組織各論②

(3)民衆会議の行政機能
 すでに強調してきたように、民衆会議は単なる立法機関ではなく、総合的施政機関である。従って、政府(内閣)機構を持たず、行政機関としての役割もそれ自身が兼ねる。このような民衆会議の行政機能の司令塔的な役割を果たすのが、政務理事会である。
 政務理事会とは、以前先取り的に説明したように、民衆会議の執行部であると同時に、それ自体が内閣のような機能を持つ意思決定機関でもある。しかし、内閣のように立法府から独立した行政機関ではなく、あくまでも民衆会議の内部組織である。
 政務理事会を主宰するのは民衆会議議長であり、別途首相や首長に相当するような主宰職は置かない。民衆会議体制は合議を重視するからである。政務理事会は正副議長のほか、常任委員会及び特別委員会の委員長で構成される。
 政務理事会は法律の委任を受けて政令を制定する権限を持つが、急を要する一定の場合には法律の委任なしに独立命令を制定する権限も持つ。政務理事会はあくまでも民衆会議の内部組織であるため、独立命令も民衆会議自身の政令として民主的な性質を担保されているからである。
 一方、民衆会議が行政機能を適切に果たすには、個別的・専門的な行政執行機関の存在が欠かせない。そこで、民衆会議の下部機関として、各種の行政執行機関が置かれる。それらの機関は、各々該当する常任委員会の監督を受けて活動する。
 なお、政府という機構が廃される民衆会議体制にあっては、行政官庁はすべて法令の適用を本務とする法執行機関であり、政策立案には関わらない。従って、本章(1)で言及した政策調査機関(シンクタンク)も行政官庁ではなく、あくまでも民衆会議の政策立案・立法を補佐する調査機関であるにとどまる。
 地方の民衆会議の場合には、現在の地方自治制度における政庁(役所)が廃される代わりに、住民サービス委員会のような常任委員会の管轄の下に、民衆会議直属の出先サービス機関が地区ごとに配置され、日常的なサービス業務に当たることになる。

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奴隷の世界歴史(連載第31回)

2017-11-28 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

マムルークと女奴隷
 イスラーム奴隷制では奴隷の解放が宗教的にも善行として奨励されたことを述べたが、それを象徴する二つのカテゴリーがある。一つは、マムルーク―奴隷兵士(軍人)―である。
 マムルークは、元来「所有される者」を意味し、まさに奴隷の謂いであるが、これが専ら軍人を意味するようになったのは、イスラーム王朝の基礎を築いたアッバース朝下で、主として中央アジアのテュルク系民族の男性を奴隷として購入し、兵士・軍人として育成する制度が根付いたことによる。
 これらの奴隷軍人は幼少時に購入され、徹底した専門的軍事訓練を受け、やがては解放されて職業軍人となり、アッバース朝の軍団を率いる。アッバース朝の軍事力はこうしたマムルークに依存するようになったため、晩期になると、政治的な実力をつけたマムルークが跋扈し、カリフの廃立にも関与し、あるいは地方総督として半自立化したりし、王朝の衰亡要因となった。
 アッバース朝が形骸化した後、マムルーク軍団自身が王朝化し、エジプトのカイロを拠点にいわゆるマムルーク朝を形成する。マムルーク朝は「王朝」と称されるが、その君主たるスルターンは世襲制ではなく、実力者のマムルークがしばしばクーデターで座に就くという点では、軍閥政権の性格が強い体制であった。
 このように、解放奴隷がついには自ら王朝を樹立するという下克上的展開はイスラーム奴隷制ならではの事象であるが、それと並んで、女奴隷の独異性も注目される。
 イスラーム奴隷制において男奴隷と明確に役割が峻別された女奴隷は奴隷貿易でも選好され、イスラーム奴隷貿易では女奴隷の比率が高かったと言われる。その多くは有力者の家内奴隷として使役されたと見られるが、コーランでは特に女奴隷に教養を施し、解放し、妻にすることが善行として奨励されている。
 その結果、宗教上一夫多妻を認めるイスラーム社会では、女奴隷から有力者の妻となり子孫を残す道が開かれていた。その究極はカリフやスルターンの後宮―ハレム―の女奴隷であった。女奴隷が使役されるハレムの侍女は妃候補でもあり、カリフやスルターンに見初められれば、妃として王子を産み、ひいてはカリフやスルターンの生母として高い権威を持つ可能性もあった。
 こうしたハレム制度とマムルーク制度が結合した希少な例として、カイロ・マムルーク朝初代スルターンとして歴史に名を残したシャジャル・アッ‐ドゥッルがいる。テュルク系出自と見られる彼女はアッバース朝ハレムに奴隷侍女として仕えた後、有力マムルークであったサーリフに転贈され、子を産んだことで解放された。
 彼女は十字軍のカイロ侵攻時に急死した夫サーリフに代わって十字軍撃退の指揮を執ったことで評価され、マムルーク朝の樹立に際して初代スルターンに擁立されたのであった。

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奴隷の世界歴史(連載第30回)

2017-11-27 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

イスラーム奴隷制の基底
 第三章では、およそ千年以上に及んだ世界奴隷貿易の歴史を概観したが、現代から見れば異様とも言えるこのような歴史の基底を成したのは、中世における神学的な奴隷正当化論及びそれに基づいて形成された奴隷制度であった。
 まずは世界奴隷貿易の歴史を始動させた中世イスラーム圏における神学的な奴隷正当化論の概要を把握することにしたい。イスラームの歴史的出発点は言うまでもなく予言者ムハンマドに遡るが、彼が出自したアラブ社会ではイスラーム以前の時代から奴隷慣習が存在していた。神の啓示を受けたとするムハンマドも富裕な商人として奴隷所有者であった。
 神の言葉を記すという形式で編纂された聖典コーランでも奴隷制は禁じられておらず、奴隷の所有は正当化され、奴隷の法的地位に関する詳細な規定がある。ただし、奴隷は戦争捕虜の場合やすでに奴隷である者を他者から購入した場合に限られ、営利的な奴隷狩りは禁止されるなど、法的な規律が課せられる。
 また奴隷に対しては、孤児、貧者、旅人などと並んで温情をもって接するべきものとされ、奴隷を個別的に解放することは善行として奨励もされた。実際、最初期ムスリムの一人として聖人視されているビラール・ビン‐ラバーフは解放奴隷出自であった。
 このように、イスラーム奴隷制には階級上昇の余地が広い柔軟な側面があり、解放されて自由人となれば、元奴隷主を庇護者として、公民として暮らすことも可能であった。また少なくとも理論上、人種差別的な構制はなく、奴隷としては“平等”であった。
 しかし、イスラーム勢力が遠征により領域を拡大し、王朝化するにつれて、奴隷制度も変化する。まず奴隷労働力の供給が不足し始め、奴隷狩りのような行為が異教徒への聖戦(ジハード)の名目で行なわれるようになっていった。奴隷貿易が活発になると、奴隷商人による奴隷狩りも見られるようになる。
 また奴隷獲得の地理的範囲が広がったことで、白人奴隷が増え、黒人奴隷との処遇の相違も生まれた。一般的に黒人奴隷は蔑視され、下層労働に投入されたの対し、白人奴隷は男性なら兵士としての徴用が多く、解放されて軍人として立身することも可能であったし、女性なら後宮女官や妃にまで栄進する可能性を伴っていた。
 かくして、イスラーム奴隷制度は、時代の変化によりコーラン規定を超越ないしは逸脱するような性格を帯び始めるが、奴隷規定自体が削除されることはなく、イスラーム世界では後のキリスト教世界のように奴隷制度を明確に否定する神学的見解が出されることもなかった。

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奴隷の世界歴史(連載第29回)

2017-11-21 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易の全体像
 本章では、西欧キリスト教世界主導の大西洋奴隷貿易のみならず、それより起源も継続期間も長かったイスラーム奴隷貿易も包括して「世界奴隷貿易」と規定し、その流れを見てきたが、最後にその全体像を総括しておきたい。
 まず最も気がかりな奴隷として「輸出」された人頭数であるが、これについては、精確な台帳のような記録が残されていない以上、推測とならざるを得ず、当然にも諸説が林立する。最も調査研究が進んでいる大西洋奴隷貿易について言えば、最小で1000万人、最大で5000万人という推計がある。
 最も有力なのは中間をとって1200万人程度とする説であるが、この数字は大西洋奴隷貿易が進行していた16~19世紀の数字としては、かなり大きな値である。というのも、大西洋奴隷貿易が終息に向かった19世紀半ばでも世界人口はようやく10億人強にすぎなかったからである。
 他方、その継続期間が千年以上に及んだイスラーム奴隷貿易の場合はいっそう推計は至難であり、最小は800万人、最大で1700万人、中間は1100万人程度とする説までまさに諸説ある。その細目として、前回見たバルバリア海賊により奴隷としてオスマン・トルコに送られた白人奴隷は100万人超とされる。
 ここで大西洋奴隷貿易とイスラム奴隷貿易を比較すれば、300年程度の間に千万単位の奴隷を輸出した大西洋奴隷貿易における人身売買システムの組織性の高さと効率性が理解できる。
 さて、こうして奴隷貿易によって送り込まれた奴隷たちの中には、前にも見たように、逃亡して独自の共同体を形成する者たちもあったが、多くは奴隷として生涯を終えるか個別に解放され、奴隷制度が廃止された後は自由人となり、現地で子孫を残した。
 大西洋奴隷貿易の結果、新大陸に送られた黒人たちの子孫は、現在も南北アメリカの全域に黒人層として居住しているが、特にプランテーションの盛んだったカリブ海域では、ハイチやジャマイカをはじめ、黒人層が人口の大半を占める諸国を形成しているため、カリブ海地域は言わば「中米のアフリカ」となっている。
 これに対し、イスラーム奴隷貿易の結果、イスラーム圏に送られた奴隷たちの子孫は、現在イスラーム圏で現地のアラブ人やトルコ人などと混血・同化しているケースが多いと見られる。特にオスマン・トルコでは皇帝スルターン自身も含め、白人奴隷女性との通婚が盛んで、本来はモンドロイド系だったトルコ人を遺伝系譜的にもコーカソイド系に変化させるほどの人口触媒となった。
 もっとも、黒人奴隷は必ずしも同化しなかったようであり、結果として、現在でもアフリカ系トルコ人という一種の少数民族集団を残している。また、黒人奴隷が多く送られたイラクでも、南部のバスラを中心にアフリカ系イラク人が存在する。
 いずれにせよ、千年以上に及んだ世界奴隷貿易による「奴隷」という不幸な形での人口移動は歴史上最も大きなものであり、その結果がまさに現代世界の地域人口構成にも永続的な影響を残していることが知られるのである。

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奴隷の世界歴史(連載第28回)

2017-11-20 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

イスラーム奴隷貿易:後期
 8世紀以来の歴史を持つイスラーム勢力による奴隷貿易は、西洋主導の大西洋奴隷貿易が始まった15世紀末以降、新たな段階を迎える。この後期イスラーム奴隷貿易は、前期に比べ、いくつかの点で変化する。
 まず、交易ルートの変化である。前期イスラーム奴隷貿易の交易ルートのうち、西アフリカへつながるサハラ交易ルートは16世紀、アフリカ西海岸に進出したポルトガルによって撹乱された。このルートは最終的に、16世紀末、モロッコに出現したアマジク系イスラーム王朝サアド朝による寇掠を受けて決定的に衰退した。
 それに代わって、東アフリカ沿岸ルートが中心を成すようになるが、主導勢力は変化し、16世紀に大帝国化するオスマン・トルコが台頭してきた。トルコの奴隷制度は極めて組織的なもので、その供給地は地中海沿岸からカフカース、バルカン、東欧にも及んだが、東アフリカからは黒人奴隷を徴用した。
 トルコの奴隷制度上、主にキリスト教徒系の白人奴隷は男子なら兵士、女子は宮廷のハレム職員やスルターン側女・妃、あるいは性奴隷とされ、黒人男子の場合は家内奴隷やプランテーション労働者、宦官とされることが多かった。
 奴隷供給勢力/国として協力していたのは、地中海沿岸ではバルバリア海賊、ロシア・ウクライナ方面ではモンゴル帝国の血を引くクリミア・ハン国、東アフリカではキリスト教古王国であるエチオピアであったが、中でもバルバリア海賊は在野勢力ながら強力であった。
 彼らは半自治的な北アフリカ沿岸都市に拠点を置き、地中海沿岸から時に英国やアイスランドにまで及ぶ広い地域のキリスト教徒を奴隷狩りによりオスマン帝国に送り込む役割を果たした。その活動時期はちょうど大西洋奴隷貿易の時期と重なり、欧米で奴隷貿易禁止の動きが出てきた19世紀初頭、アメリカとの二度の戦争で衰退するまで勢力を保持した。 
 ところで、東アフリカの奴隷貿易は17世紀半ば以降、アラビア半島南部に台頭したオマーンによって支配されるようになる。オマーンは16世紀初頭以来、支配を受けてきたポルトガルを駆逐し独立して以来、インド洋まで勢力圏とする海上帝国化する。特に19世紀前半には東アフリカのザンジバルに遷都して全盛期を迎えた。
 後期イスラーム奴隷貿易は、19世紀に大西洋奴隷貿易が終息を迎えてもなお継続されていくが、19世紀後半以降、主導していたトルコ、オマーン両大国の衰退に伴ってようやく終焉へ向かう。「瀕死の病人」となったオスマン・トルコ及びオマーンより分離独立後、英国の保護領化されたザンジバルは、ともにアフリカ奴隷貿易を禁止する1890年ブリュッセル会議条約に加盟している。
 とはいえ、イスラーム圏全体では、奴隷廃止運動が内発的に隆起することはなく、奴隷慣習が20世紀、一部は21世紀まで残存ないしは復刻する形で継続中であることは、第一章でも見たとおりである。

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貨幣経済史黒書(連載第3回)

2017-11-19 | 〆貨幣経済史黒書

File2:ギリシャ・ポリスの貨幣禍

 小アジアのリュディアが創始した鋳造貨幣の利点をすぐに理解したのは、地理的にもリュディアに近いエーゲ海域で都市国家ポリスを営むようになっていたギリシャ人であった。ギリシャで最初に鋳造貨幣(銀貨)の製造を始めたのは、ペロポネソス半島東北部のアルゴリスとされる。
 次いで、金鉱があったと見られるエーゲ海最北部のタッソスで金貨の鋳造が始まり、紀元前6世紀を通じて、ギリシャ世界全域での硬貨の使用慣習が定着したと見られる。しかし、統一通貨は定まらず、ポリスごとに通貨が異なったため、両替商が発達する。
 この原初両替商は、今日で言えば異なる通貨間の国際為替制度の萌芽であると同時に、預託された資金を貸し付け、利息を稼ぐ銀行業の萌芽でもあった。ここから、債権者と債務者の分裂が生じた。当時、債務者は奴隷に落とされる悲惨な境遇であった。アテナイの改革者ソロンが債務帳消しの徳政令と債務奴隷の禁止を打ち出したことには大きな意味があった。
 一方、地中海世界有数の銀山ラウリオンを擁したアテナイは、採掘を過酷な奴隷労役に委ねつつ、銀貨の鋳造を積極的に行なった。結果として、アテナイでは貨幣経済が行き渡るようになり、ギリシャ世界随一の商業都市として台頭する。アテナイは、民会参加資格を有する市民階級に銀貨を支給するという現代のベーシック・インカムに相当するような制度を導入するだけの財力を誇った。
 良いこと尽くしのように見えるが、貨幣経済の浸透・定着は、その裏に貧富差の拡大現象を伴っていた。その点、アテナイのライバルであったスパルタでは土地と参政権を持つ市民間は完全平等が本旨とされ、貧富差を生じさせないため、商工業は参政権を持たない二級の劣等市民にすべて委ねるとともに、上層市民には国内での貨幣の使用も禁じるなど、一種の共産主義も取り入れていた。
 しかし、ペロポネソス戦争後、スパルタにも貨幣経済が浸透し、没落する上層市民も急増する。元来商業的なアテナイでは市民間での貧富格差の拡大により、政治の実権は次第に富裕な商工業者などの手に移り、ある種のブルジョワ寡頭政の傾向を強めていった。
 こうして、市民間での貧富格差の拡大は、共同体的結束が命であったポリスの一体性を弱め、個人主義的風潮を生み出した。まだ資本主義と呼ばれる経済システムの登場ははるか遠い未来のことではあったが、貨幣経済の発達が共同体を解体し、人々を孤人化していく傾向的法則は、古代ギリシャ世界において早くも予示されていたと言えるのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第16回)

2017-11-17 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第4章 民衆会議の組織各論②

(2)民衆会議の立法機能
 民衆会議は総合的施政機関であるため、立法・行政・司法という権力の属性分類自体が本来妥当しないのであるが、それらに相応する「機能」とそれに応じた内部組織は存在する。中でも、立法機能は枢要なものである。委員会は民衆会議の立法機能においても中心を成す内部組織である。
 三権分立下の立法にあっては、議会が立法府と位置づけられながらも、実際には行政府提出法案が大半を占め、議員発案のいわゆる議員立法においてすら、該当行政官庁の手が入っているのが通例である。これに対し、民衆会議体制にあっては政府というものがそもそも存在しないので、当然すべての法案は民衆会議自身が発議することになる。
 具体的には代議員(複数)による発議となるが、委員会総体による発議も認められてよいだろう(なお、具体的な法案発議・審議のプロセスについては、拙稿参照)。民衆会議における法案審議は委員会を中心に行われ、前回言及した政策調査機関や民衆会議図書館は立法に当たっても、補佐の役割を果たす。
 一方、議会ではしばしば最終的な議決の儀式と化している本会議の機能も民衆会議では重視される。ただ、以前指摘したとおり、民衆会議の代議員定数は議会の議員定数よりはるかに多いため、実効的な本会議の開催はいっそう困難になる。
 それでも、総論的な審議の場としての本会議の重要性に鑑み、本会議に出席する代議員団を開催季ごとの輪番制にするなどの工夫も交え、実効的な本会議審議を確保することは可能であり、必要なことでもある。
 また、民衆会議は「半直接的代議制」という独特の理念に基づき、一般有権者が選挙を経ず直接に代議員に抽選されるという構造から、市民提案に対しても開かれている。従って、市民提案に基づく立法化(または政策ガイドライン化)というルートが別途保障される(詳しくは、上記拙稿参照)。

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民衆会議/世界共同体論(連載第15回)

2017-11-16 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第4章 民衆会議の組織各論②

(1)総合的施政機関
 前章でも述べたとおり、民衆会議は単なる立法機関を超えた総合的施政機関である。このことの意味は、古典的な三権分立制を採らないということである。それはしかし、全権独裁を意味するのではなく、特に立法と行政を一体的にとらえることを意味する。
 考えてみれば、立法と行政を分立させることで、官僚制を擁する行政府が少数の議員だけの立法府を凌駕する傾向を生じ、かえって非民主的な官僚支配をきたしているのが、諸国の国家体制の現状である。
 民衆会議体制はこうした官僚支配を打破する体制であるから、立法と行政を分けることをしないのである。その結果として、政策を立法化するということ自体に消極的となる。
 もちろん、法律なしの無法を来たすわけではなく、基幹的政策は立法化される。しかし、法律は必要最小限とし、多くの事柄は政策ガイドラインに委ねられる。政策ガイドラインとは、政策遂行上の指針を定めた一種の規範文書であるが、法律ほどの強い拘束力は持たず、柔軟に運用・改廃できるものである。
 そうした政策ガイドラインの制定が民衆会議の重要な任務となり、その中心を担うのが各常任委員会及び特別委員会である。政策ガイドラインは、民衆会議本会議での可決を必要とする法案とは異なり、委員会レベルでの審議・議決と政務理事会での承認だけで有効に成立する。
 この委員会制度は、議会制度の委員会制度と似ているが、民衆会議制度の委員会は本会議の便宜的な小口分割組織ではなく、政策立案の中核機関としての役割を担うため、いずれもその内部に細目的な問題別に設置される小委員会が設けられ、委員となる代議員は必ずいずれか一つ以上の小委員会に所属する。
 そうした委員会の政策立案・立法活動を補佐するために、常任委員会の下に政策調査機関(シンクタンク)が設置されるほか、民衆会議の活動全般を資料的に支えるため、民衆会議図書館も設置される。

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奴隷の世界歴史(連載補遺)

2017-11-14 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史
 
人種隔離国家・南アフリカの形成
 大西洋奴隷貿易の廃絶につながる英国での奴隷制廃止法は、遠くアフリカでねじれた副産物を生んだ。後に南アフリカ共和国となる南部アフリカの白人優越主義国家である。南アフリカの起源は、大航海時代の17世紀、オランダ東インド会社が入植したケープ植民地にある。
 ここにオランダ本国から多くのオランダ農民が入植し、後にはフランスやドイツで宗教的に迫害されたプロテスタント系信者らも加わって、次第にアフリカ土着白人―ボーア人―が形成されていく。かれらは、東インド会社の統制を受けず、自治的な植民地経営を行なっていた。
 その経済的基盤は、アメリカ南部と類似した奴隷制農園であった。ボーア人は、先住の黒人サン人やコイコイ人を駆逐し、その居住地を奪いつつ、かれらや周辺のバントゥー系黒人を奴隷労働力として使役し、自給自足の農園を経営していたのだった。
 この状況は18世紀末、フランス革命渦中でケープ植民地が英国に占領され、19世紀初頭以後、英国からの移民の流入によって急速に英国化されたことで一変する。折りしも、英国では奴隷制廃止運動が高まっており、その波は南アフリカにも押し寄せてきたのであった。
 英国当局は1828年、総督令をもって、ケープ植民地の有色人種にも白人と同等の権利を付与し、1834年の奴隷制廃止法をケープにも適用してきた。これにより、ケープ植民地の奴隷は解放され、労働力を喪失したボーア人農園は事実上破綻したのである。
 こうした英国の性急なやり方に不服を抱いたボーア人勢力は、1830年代から40年代にかけて順次、内陸部に集団移住(グレート・トレック)を開始し、現地の先住黒人部族と戦い、これを排撃しつつ、新たに複数の白人系共和国を建設していく。
 中でも北部のトランスヴァ-ル共和国と南部のオレンジ自由国の二大国家が、19世紀末から20世紀初頭の対英戦争(ボーア戦争)に敗れ、英国植民地となるまで存続した。
 これらのボーア人国家では奴隷制は否定されたものの、少数派の白人のみを有権者と定め、黒人や混血系をあらゆる部面で劣遇する人種差別政策が合法化され、後に南アフリカ共和国へ統合された際の人種隔離政策―アパルトヘイト―の基礎となったのである。
 南アフリカでは、奴隷制廃止が英国の占領という特殊状況下で、国策として上から押し付けられた結果として、人種隔離政策というねじれた方向に流れていった点も、南北戦争後、北軍の占領を受けたアメリカ南部のその後の状況と類似しているところである。

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奴隷の世界歴史(連載第27回)

2017-11-13 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易の終焉
 16世紀に本格化し、18世紀に最盛期を迎えた大西洋奴隷貿易は、19世紀に入ると、急速に終焉期を迎える。その要因が何であったかについては様々な分析がなされるが、経済的な土台に関わる要因として、大西洋奴隷貿易の経済的な仕組みを成していたいわゆる三角貿易の破綻が指摘される。
 すなわち、欧州の旧大陸と西アフリカ沿岸、カリブ海地域を含む新大陸方面をつなぐ国際貿易のシステムにおいて、新大陸におけるプランテーションに投入される労働力確保のために実行されていたのが大西洋奴隷貿易であったところ、無計画な競争的奴隷徴用の結果、供給可能な奴隷数の減少により奴隷価格が高騰、さらに北米プランテーション農産物の価格下落により、奴隷貿易による利潤が急減したのであった。
 これに対しては、奴隷貿易に参入している各国間の協定で奴隷獲得数を割当制とするなどの統制貿易により克服することも可能だったであろうが、18世紀の奴隷貿易の中心的担い手であった英国で人道的観点からの奴隷制廃止運動が盛り上がったことが、奴隷貿易終焉を後押しした。
 この19世紀初頭に頂点に達した奴隷制廃止運動については、時代遡行的構成を採る本連載ではすでに前章で言及済みであるが(拙稿参照)、英国は1807年の奴隷貿易法をもってアフリカ人奴隷貿易の禁止を打ち出したことを皮切りに、自国のみならず、他国の奴隷貿易船の取り締まりも断行する強い姿勢を見せた。こうした規範的な態度を見ても、奴隷貿易の廃止が単に経済的な要因だけでは説明できないことがわかる。
 ちなみに、アメリカでも1807年の連邦法をもって奴隷貿易は禁止されていたが、奴隷制に依存した南部諸州からの需要により、「密輸」は続行されており、現在知られる限り、最後の「密輸」は1860年、アラバマ州の奴隷商人が組織した奴隷船クロティルダ号によるものと見られる。
 その数年後、内戦の代償を伴いつつ断行されたアメリカの奴隷制廃止ともども、結局、人道主義という上部構造的要因の推進力なくしては、奴隷所有者層を中心に反対も根強かった奴隷制廃止は実現しなかったであろう。その意味で、大西洋奴隷貿易の終焉は、経済的下部構造と上部構造の連関性を実証する一つの事例である。
 もっとも、大西洋奴隷貿易の終焉は決してアフリカ地域の自立を結果したのはなく、やがて西洋列強がアフリカを直接に支配下に収めるという形の帝国主義を呼び込むことになる。奴隷供給国家として奴隷貿易に加担していた西アフリカ諸王国は、それに抵抗するだけの地力を喪失していた。

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10月革命100周年

2017-11-07 | 時評

今年2017年は、ロシア革命100周年に当たる。中でも今日は、二段階にわたった革命の第二次革命―10月(新暦11月)革命―の日である。しかし、ほとんど忘れられている。

ロシアでも、旧ソ連時代からソ連解体後の2005年までは祝日だった11月7日の革命記念日を廃し、代わりに革命で打倒された帝政ロシア・ロマノフ王朝樹立のきっかけとなった1612年に遡るモスクワ占領ポーランド軍を排撃した11月4日を国民団結日に定めた。

これは単なる祝日の形式的な変更にとどまらず、10月革命を事実上否定し、帝政ロシアの歴史的意義を再発見するようなロシア・ナショナリズムの潮流を反映した政策的な変更である。

ナショナリスト・ロシアを警戒する向きも多いが、反10月革命的な歴史観は、ロシアに限らず、世界的にも主流的であろう。たしかに10月革命を旧ソ連が公式的にしていたように手放しで賛美することはもはやできないが、かといって何事もなかったふりをして歴史から抹消することもできない。

100周年を機にロシア革命の功罪を振り返り、今後の100年を見通すよすがとすべきであろう。とはいえ、二段階にわたる複雑な経緯をたどったロシア革命を整理するのは容易でなく、それだけで一冊の大部な書になりそうであるが、ごくざっくり整理するとすれば━

ロマノフ朝に象徴されたような専制君主制が、歴史的に葬られる契機となった。ロシアでも君主の存在しない共和制自体は、ほぼ恒久的に確立されている。君主制を残す諸国でも、君主は象徴的な存在として、実態は共和制に接近していった。

しかし、最大の意義は、労働者が初めて社会の主役に上ったことである。フランス革命からロシア革命第一段階の2月(新暦3月)革命までのブルジョワ民主革命では、二級的な地位しか与えられなかった労働者―広くは民衆―に光が当たる契機となったのだ。

その結果、10月革命を敵視した資本主義諸国においても、労働者階級の利害を代表する政党が結成され、政治参加することが通常となった。労働者階級政党が結成されなかったアメリカでさえ、大恐慌という資本主義的破局に直面して、「ニュー・ディール政策」のような形で労働者階級に配慮する新政治潮流が生じ、以後も継承された。

しかし、10月革命の罪の部分も大きい。それは武装革命としては「成功」したがゆえに、内戦期を含め、おびただしい流血と経済的混乱を避けられなかった。少数の革命家集団が革命プロセスを主導し、政権確立後はすみやかに独裁体制化していった。 

独裁党の地位を確立した共産党は党名に反して共産主義を正しく展開できず、曖昧な「社会主義」でお茶を濁し、労働者は体制を正当化するための名義上の存在と化していった。あたかも専制君主制が退いた場所に一党独裁制が座っただけであった。

そうした点で、10月革命は20世紀武装革命の集大成的な悪しき教科書となった。実際、10月革命後、世界で継起した武装革命のほとんどが10月革命をなぞるように同様の経過をたどって、およそ革命の評判をすっかり落とし、革命を虐殺と同義のようにしてしまった。

10月革命100周年は、こうした武装革命の潮流に終止符を打つ節目である。ただし、革命をすっかり忘れてロシア革命以前の世界に引き戻すための節目ではなく、その功罪を踏まえて10月革命を正しく超克し、今後の100年を見据える節目である。

どんな今後100年を描くかについては様々あろうが、非武装革命による真の自由な共産主義世界の形成という新たな形の革命に向けた100年を描く私見は、現時点では極少数意見のようである。

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フランコの政治的DNA

2017-11-04 | 時評

腰砕けに終わろうとしているスペインのカタルーニャ自治州独立宣言の事後処理として、スペイン中央政府が州の自治権剥奪、罷免した前州政府閣僚らの検挙・投獄という挙に出ている。

国内的にも国際的にも充分な調整―日本流に言えば根回し―もなく、さりとて篭城してでも最期まで抵抗する覚悟もなしに、独立宣言に突き進んだ州政権にも総辞職に値する政治責任はあろうが、中央政府による報復的な仕打ちも看過できない。

詳細には通じていないが、問題の発端となった州による独立の是非を問う州民投票はスペイン憲法・法令に違反するらしい。とはいえ、そうした形式的な違法性のみを根拠に、治安部隊を投入して投票を妨害し、かつ賛成多数の結果を無視して自治権剥奪、前州政権閣僚拘束という権威主義的強権行使に出るのは、中央集権を強制した旧フランコ独裁体制を髣髴とさせる。

それもそのはず、現在スペイン中央政府の与党に座にある国民党は、フランコ時代のファシスト翼賛政治団体・国民運動を母体とする保守政党である。同党は表向きフランコ主義とは縁を切り、通常の保守政党として活動してきたものの、体内にはフランコの政治的DNAをなお保存していたと見える。それが、スペインの経済的屋台骨でもあるカタルーニャの独立という非常事態に直面して顕在化したのだろう。

しかし、これまでのところ、前州政権幹部が武装反乱などの暴力的行為を煽動、共謀等した形跡はなく、平和的な手法で州民投票を強行したというに過ぎない。それが形式的に法に違反していたとしても、政治的信念に基づく行動であり、かれらを捕らえれば政治犯・良心の囚人となる。

スペインも加盟するEUの共通価値として人権尊重が標榜されている。もしEUがスペイン中央政府の報復的措置を支持・黙認するなら、その標榜の真偽が鋭く問われよう。また、国際的人権NGOsにとっても、沈黙することはダブルスタンダードとなろう。

 
〔付記〕
このところ、カタルーニャやイラクのクルド自治区など、自治地域の独立の動きが活発だが、侵略の結果としての植民地からの独立ならいざ知らず、主権国家からの独立は技術的にも至難である。主権国家は、領土の縮小、経済基盤の喪失にもつながる地域の独立を容易には容認しないからである。
我田引水になるが、こうした「独立」は、国家という枠組みを廃した世界共同体の大枠で、緩やかな合同体を組む合同領域圏のような構想―スペインであれば、カタルーニャを含め複数の独立領域圏が合同した「イスパニア合同領域圏」のようなものを想定できる―において、初めて実現するだろう。

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民衆会議/世界共同体論(連載第14回)

2017-11-03 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第3章 民衆会議の組織各論①

(5)地方民衆会議の組織構制
 民衆会議は地方自治体にも設置される。連合領域圏を構成する準領域圏に設置される民衆会議も広い意味では地方民衆会議の一種であるが、以下の論は、統合型の領域圏における地方民衆会議を前提とする。
 その場合、市町村‐地域圏‐地方圏の三層の地方自治を想定すると、三層それぞれに固有の民衆会議が設置され、それらは互いに対等関係に立つ。
 とはいえ、対等関係で結ばれる民衆会議体制にあって、地方民衆会議の基本的な構制は全土民衆会議の相似形であるので、前回述べたところがほぼ当てはまるが、いくつか地方特有の点がある。
 まず定数に関しては、当然ながら全土民衆会議よりは少ない。しかし、地方でも民衆会議が立法・行政機能を総合的に担うので、最も小さな市町村民衆会議であっても、代議員定数は現行市町村議会議員の定数より多くなることは間違いない。
 広域自治体である地方圏の民衆会議は地方民衆会議の中では最大規模となり、言わば地方における「全土」民衆会議のような位置づけとなるが、域内の市町村・地域圏民衆会議に対する指揮命令権は持たない。
 地方民衆会議も委員会制を採り、常任委員会と特別委員会とから成る。ただ、市町村と地域圏は身近な生活関連問題を扱うことから、委員会よりも全体会議での審議を重視する傾向が見られるであろう。
 なお、市町村民衆会議にあっては、委員会での審議に代議員以外の一般市民の討論参加を認めるなど、直接民主制的な要素を加味した工夫の余地がある。
 地方民衆会議の運営機関も正副議長及び各委員長で構成する政務理事会であり、地方民衆会議議長は自治体首長に相当するような地位に立つ。しかし、あくまでも合議機関の長であり、独任制機関ではない。

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民衆会議/世界共同体論(連載第13回)

2017-11-02 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第3章 民衆会議の組織各論①

(4)全土民衆会議の組織構成
 
すでに見たように、民衆会議は有機的なネットワークの形で機能する統治機関であったが、このうち「中央」に当たる領域圏に置かれるのは全土民衆会議である。連邦的な連合領域圏の場合は、特に連合民衆会議というが、これも広い意味では全土民衆会議に相当する。
 後者の連合民衆会議は、連邦国家における連邦議会のような位置づけを持つ。ただし、民衆会議は一院制機関であり、現存連邦国家において標準となっている二院制形態は採らない。民衆会議は間接的な諸利益媒介機関ではなく、民衆の半直接的な代表機関として、どの圏域においても単一であるべきだからである。
 結果として、連合領域圏を構成する準領域圏の自治権は連邦国家を構成する州邦のそれより強化されることになるだろう。ただし、各準領域圏から抽選される連合民衆会議代議員の定数を同数とするか、人口比例的とするかは連合領域圏の選択に委ねられる。
 通常の統合型全土民衆会議の場合は、日本における国会のような位置づけであるが、単なる立法機関にとどまらず、全権を統括する総合機関であることは、繰り返し述べたとおりである。以下は、さしあたり統合型を念頭に置いて記述するが、連合民衆会議にもほぼ妥当する。
 全土民衆会議は、所定の定数の代議員で構成されるが、その定数は国会よりもはるかに多いものとなる。なぜなら、政府を持たず、従って官僚制度も存在せず、民衆会議が全権を統括するからには、その構成員は多数でなければならないからである。
 具体的な定数の設定は政策的な問題であるが、例えば日本の現行人口規模およそ1億人をとりあえず基準とするなら、最低でも2000人は必要だろう。ちなみに代議員は職業ではなく、無報酬の公務であるので、財政を考慮した定数削減の必要性もない。
 このように大所帯の民衆会議は基本政策ごとに設置される常任委員会と個別の問題ごとに適宜設置される特別委員会を軸に運営される。各委員会の下には、さらに細目的な問題を扱う小委員会が置かれる。この小委員会のレベルでの審議が最も稠密なものとなる。
 民衆会議における委員会制度は、国会の委員会制度と類似する面もあるが、それぞれが所管する政策分野に関する立法・行政機能を併せ持ち、関連する行政機関・法執行機関を直接に監督する。 
 各代議員は最低一つの常任委員会及びその管轄小委員会に所属して活動する。民衆会議の運営に当たる執行部は、正副議長及び各委員会の委員長で構成する政務理事会であり、この機関が民衆会議の運営機関であると同時に、閣議に相当する政策決定機関ともなり、政令の制定権も有する。

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