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近代革命の社会力学(連載第211回)

2021-03-18 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(2)独立運動と共産主義運動の交錯
 長くフランス植民支配下にあったベトナムでは、民族独立運動が最初の急進的な動向となる。当初は断片的かつ散発的だった独立運動が統一的に組織化されたのは、ホー・チ・ミンらが1925年に結成した青年革命同志会が最初である。
 同志会は種々のナショナリストの集合体であったため、間もなく分裂するが、その中でホーらの共産主義派が有力化する。儒者官僚の中流家庭出自のホーはフランス留学を通じ、早くから共産主義主義思想に覚醒するが、主要な関心は民族独立にあった。
 ホーは独立運動の組織化に加え、ベトナムにおける共産主義運動の統一も図り、香港でベトナム共産党を結党するが、これは当時、国際共産主義運動の司令塔となっていたソ連が動かすコミンテルンの承認なしの独自行動だったこともあり、チャン・フーらのコミンテルン派によってインドシナ共産党に党名変更を強いられたうえ、ホーは党指導部からも外されることとなった。
 このような対立状況の背景には、ホーのような民族独立を優先する独立派と共産主義の教条を重視する教条派の路線対立が控えていた。こうした独立運動と共産主義運動の複雑な交錯関係は、当時植民地支配下にあった諸地域の多くで生じていた対立の一環でもあった。
 そうした状況下で、1930年、当時ベトナムでも貧困地域であった北西部のゲアンとハティンの二つの省(総称してゲティン)で、農民を中心とした民衆蜂起が発生した。
 この蜂起の要因は複雑であるが、元からの構造的な貧困状況が、当時ベトナムにも米価暴落をもたらした大恐慌を契機として、フランス植民地当局やその下請けである現地官僚への不満に点火して爆発したと考えられる。
 この蜂起は都市部にも飛び火し、30年5月以降、労働者や知識人も加わった大規模なゼネストに発展、100近いストライキが同時多発した。そうした革命的ゼネスト状況の中、ゲティン地方の統治機構は麻痺し、代わってソヴィエトが出現、農地再配分や米の配給、識字教育などの革新的な政策が実行された。
 このゲティン・ソヴィエトの背後には結党されたばかりのインドシナ共産党があったが、ホーら民族独立派は排除されたままで、組織は十分に確立されておらず、ソヴィエトを指導するだけの力量も、また植民地当局に対抗するレジスタンスとしての武力も持ち合わせていなかった。
 ゲティン革命は、ホーが指導した来たる1945年の独立‐共和革命から遡れば、予行革命と言うべき地方的な革命ではあったが、ちょうど同時期に並行した中国共産党の中華ソヴィエトとは異なり、持続性を担保する条件が欠けていた。
 そのため、ゲティン・ソヴィエトは飢饉にも直面する中、1931年から軍事的な攻勢に出たフランス植民地軍の攻撃により、あえなく崩壊、インドシナ共産党初代書記長チャン・フーも当局に拘束された後、27歳で拷問死を遂げた。
 チャン・フーが存命していれば、共産主義運動内で引き続きホーの最大のライバルとなり得ただけに、ホーにとっては、ゲティン・ソヴィエトの挫折とチャン・フーの夭折という悲劇は新たな巻き返しのチャンスとなったことも否定できない。


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