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老子超解・目次

2014-06-22 | 〆老子超解

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

序文 ページ1

哲理篇

第一章 四つの大 ページ2

第二章 小なる大 ページ3

第三章 始制有名 ページ4

第四章 玄について ページ5

第五章 道の女性性 ページ6

第六章 物質としての道 ページ7

第七章 道の性質 ページ8

第八章 真空としての道 ページ9

第九章 無について ページ10

第十章 無の効用 ページ11

第十一章 万物相同 ページ12

第十二章 一の体得 ページ13

第十三章 儒教批判 ページ14

第十四章 実と華 ページ15

第十五章 道と徳 ページ16

第十六章 水のごとき善 ページ17

第十七章 同ずること ページ18

第十八章 玄同について ページ19

第十九章 感覚遮断 ページ20

第二十章 抱一について ページ21

第二十一章 含徳について ページ22

第二十二章 復帰について ページ23

第二十三章 襲常について ページ24

第二十四章 知の無知 ページ25

第二十五章 道の実践者 ページ26

第二十六章 道の利益 ページ27

第二十七章 無為・無事・無味 ページ28

第二十八章 無為の効用 ページ29

第二十九章 天網恢恢 ページ30

第三十章 知少について ページ31

第三十一章 無私について ページ32

第三十二章 自知自勝 ページ33

第三十三章 知足知止 ページ34

第三十四章 持満の戒 ページ35

第三十五章 余食贅行の戒 ページ36

第三十六章 曲全の処世 ページ37

第三十七章 柔弱の優位性 ページ38

第三十八章 強梁の戒 ページ39

第三十九章 生命執着の戒 ページ40

第四十章 孤高の詩 ページ41

第四十一章 被褐懐玉 ページ42

第四十二章 老子的三宝 ページ43

第四十三章 真なるもの ページ44

第四十四章 信言不美 ページ45

第四十五章 救人救物の妙 ページ46

第四十六章 大器晩成 ページ47

第四十七章 身から天下へ ページ48

政論篇

第四十八章 道に基づく政治 ページ49

第四十九章 無為の政治;意義(一) ページ50

第五十章 無為の政治;意義(二) ページ51

第五十一章 無為の政治;効用 ページ52

第五十二章 反儒教政治 ページ53

第五十三章 非仁愛政治 ページ54

第五十四章 無心の政治 ページ55

第五十五章 悶悶たる政治 ページ56

第五十六章 嗇の政治 ページ57

第五十七章 道に基づく政治―総括 ページ58

第五十八章 反圧政 ページ59

第五十九章 反収奪 ページ60

第六十章 反死刑 ページ61

第六十一章 反和解 ページ62

第六十二章 政教帰一 ページ63

第六十三章 為政者の等級 ページ64 

第六十四章 為政者の条件 ページ65 

第六十五章 軽挙妄動の戒 ページ66

第六十六章 不争の徳 ページ67

第六十七章 謙下不争の指導 ページ68

第六十八章 大なる切断 ページ69

第六十九章 真の為政者 ページ70

第七十章 大国と小国 ページ71

第七十一章 平和と戦争 ページ72

第七十二章 反軍国 ページ73

第七十三章 不祥の用具 ページ74

第七十四章 十歩後退 ページ75

第七十五章 反私有制 ページ76

第七十六章 自然の衡平さ ページ77

第七十七章 天下往く ページ78

第七十八章 無事革命 ページ79

第七十九章 権謀術数の戒 ページ80

第八十章 与えて奪え ページ81

第八十一章 小国寡民 ページ82

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老子超解:第八十一章 小国寡民

2013-07-12 | 〆老子超解

八十一 小国寡民

小さくて人口の少ない国、そこでは種々の用具があっても使わせず、民衆をして死を敬重させ、遠方に移動させないようにするから、舟や車があっても、乗る必要がなく、甲や武具があっても、見せびらかす必要もなかろう。
人々をして再び縄を結んで文字として使わせ、手製の料理を旨いと感じさせ、手製の服を美しいと感じさせ、自作の住居に安住させ、自分たちの習俗を楽しむようにさせるから、隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもなかろう。

 

 本章は通行本では最後から二番目の第八十章に当たるが、内容上は哲理篇及び政論篇の全趣旨を踏まえつつ、老子の理想の社会像を具体的に示したものとして、全篇の最後を飾るにふさわしい章である。
 ここで詩的な表現を用いて描かれているのは、「国」というよりは先史共同体に近い理想郷であって、老子の原始共産主義への傾斜をはっきりと物語っている。歴史‐社会観においても、老子の「復帰」の思想は一貫している。
 しかし、それは決して反動的な復古主義ではなく、むしろ前章までに説かれていた「無事革命」を通じて達成されるような理想郷なのである。
 具体的に見ると、老子的理想郷は自給自足の小さな農村共同体であるが、万人直耕の原始農耕社会ではない。その点では、農家思想や安東昌益などとも異なる。
 また、しばしば老子と結びつけられる「反文明」というモチーフも見られない。前段にあるとおり、老子的理想郷には舟や車、甲や武具も備わっているから、決して未開の石器時代的社会ではない。文明の利器は備わっているが、それに依存しない知足の定常経済社会こそ、老子の理想なのである。
 ちなみに『毛沢東語録』にも収録された一節において、毛は共産党委員会の委員同士の連絡を密にすべきことを説く中で本章末尾の一文を引き、連絡不通の象徴として揶揄しているが、自足的な定常経済社会同士では交換(交易)もしないから、互いに往来する必要もないのである。
 老子を揶揄した毛が建設し、大国多民の成長経済社会をいく現代中国に、老子流小国寡民を顧みる余裕はないであろう。老子は同時代的にも、現代的にも、反時代流の人なのである。(連載了)

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老子超解:第六十三章 為政者の等級

2013-04-28 | 〆老子超解

六十三 為政者の等級

最上の為政者は(無為の政治を行うので)民衆にその存在を知られる程度である。その次(次善)の為政者は(善政を施すので)民衆に親しまれ、ほめたたえられる。その次の(凡庸な)為政者は(恐怖政治を敷くので)民衆に畏れられる。その次(最低)の為政者は(暗愚のため)民衆に軽侮される。
(為政者が)民衆を信頼しなければ、民衆に信頼されないことになるのだ。
(為政者が)悠然として言葉を貴べば、政治的な功業が成し遂げられても、民衆は自然にそうなったと言うであろう。

 

 通行本第十七章に当たる本章から先は、為政者の条件や心得に関するすぐれて実践的な章がしばらく続く。一見浮世離れしているかに見える老子の意外な現実的関心が現れる箇所である。
 本章第一段は、為政者を独特の視点でランキングする点でとりわけ興味深い。出色なのは、善政を施す為政者が次善と評価されるところである。おそらくこれは儒教に基づく政治を示唆するものであろう。
 当然ながら、老子にとって最上の為政者はに基づく政治―無為の政治―を実践する者である。その場合、為政者はことさらに善政を施そうとはしないから、民衆はその存在を知ってはいても、特段称賛もせず、功業が成っても、それを自然なことと受け止めるという。これは政治指導者にカリスマ性を求めるような政論とは対極にある為政者論である。
 なお、三番目の凡庸な為政者による恐怖政治とは、おそらく法家思想に基づく厳格な社会統制の政治を示唆しているであろう。法家政治は暗愚の為政者による失政よりはましとはいえ、その次にランクされる悪政なのである。それは民衆を信頼しない政治であるから、民衆を信頼しない為政者は民衆からも信頼されないというのである。

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老子超解:第九章 無について

2012-04-14 | 〆老子超解

九 無について

復帰するということが道の動き方である。弱いということが道の効用である。
天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。
道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ずる。万物は陰を負って陽を抱き、(この二つを媒介する)沖気がこれを調和させているのである。

 

 老子の中で最も刺激的な論議を提起してきた「無」の思想を展開する章であるが、老子が「無」について正面から語るのは、通行本で第四十章に当たる本章だけと言ってよい。一般的な解釈とは裏腹に、老子にとって「無」は必ずしも決定的なキーワードではない。
 老子にとっての「無」とは、あくまでもの存在論的な別言にすぎない。前章で序説的に語られていた真空というの性質をひとことで「無」と表現するのである。従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態である。
 そうした意味では、老子的「無」はゼロではない。従ってまた、しばしば虚無主義の系譜に位置づけられることも多い老子の思想は、西洋思想の文脈におけるニヒリズムとも異質である。老子の「無」は、むしろ日本の西田幾多郎が単なる有の対偶としての無=相対無とは区別して、相対的な有/無の対立を超える根拠として提起した「絶対無」に近いものと言えるだろう。
 ただし、「絶対無」を心の本体として観念した西田の場合は唯心論的傾向が強いのに対し、無としてのを物質的に把握しようとする老子の場合は唯物論的傾向が強いという点は無視できない両者の差異である。
 ちなみに、第三段は通行本では第四十二章の冒頭に現れる章句であるが、内容的には本章第二段の命題を受けて、それを陰陽思想によりつつ敷衍しようとしているところであるから、あえて本章末尾へ移置してみた。陰陽家ではなかった老子が陰陽思想に触れるのはここだけであるが、それは同時代の中国人にとっても晦渋であった自説を理解させるために、あえて同時代人にはよりなじみやすかった陰陽家的説明を試みたものであろう。
 ただし、ここでも陰と陽の対立の手前にある一者=を想定しつつ、沖気という媒介概念によって陰陽二元論を克服しようとするのは老子独自の考えであり、これは第一段冒頭で再び繰り返されている「復帰」の思想とも関わってくるところである。
 なお、第一段第二文で弱さをの効用としているのは、弱さという価値を積極的に肯定する老子倫理学の一端である。

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老子超解:第一章 宇宙の四大

2012-02-19 | 〆老子超解

哲理篇

一 宇宙の四大

何か混沌とした物があり、天地より先に生じていた。音もなく茫漠とし、独立不変、周行してとどまることもない。それこそ天下の母体と言うべきである。私はその名を知らないが、仮に道という。強いて真に名づければ大という。大であればここから果てしなく広がり、果てしなく広がれば遠ざかり、遠ざかればまたここへ還ってくるのだ。
かくして道は大、天も大、地も大、人も大である。域中(大宇宙)にはこの四つの大があり、人はその一つに位置を占める(にすぎない)。人は地を範とし、地は天を範とし、天は道を範とし、道は自然を範とするのである。

  

 通行本では第二十五章という位置づけになるこの章には、老子の世界観が簡潔に集約・総括されている。それゆえ、本連載ではあえて冒頭に移置した。
 老子は道・天・地・人をもって宇宙を組成する四つの要素=四大[しだい]に数えている。こうした四大思想は、中国伝来の木・火・土・金・水の五行思想と大きく異なるものである。
 四大の筆頭に来る「道」は老子最大のキーワードであるが、これを「タオ」と読んで老子=タオイズムという公式を立てる欧米現代思想流の解釈には与しない。
 といって和訓で「みち」と読むと、老子が「道」という語で言わんとするところからかけ離れてしまうので、以後、本連載では特に断らない限り、「」と斜体で表記したうえで「トウ」と音読みすることにしたい(行論上、「みち」と訓む場合はその旨を明示する)。
 かかるとは何かということに関しては、これから随所で様々に語られていくが、老子は言葉に固定的な定義なるものを与えないため、について定義づけることは不可能である。そもそも「」という語自体、仮の名づけにすぎないというのである。
 ただ、本章で述べられているところからすると、は天地より先行する何か混沌・茫漠とした物であって、それは天下の母体であるという。
 この点で想起されるのは、「物質」を意味する英語matterがラテン語で「母」を意味するmaterの派生語であるmateriaに由来するという事実である。老子の「」を、まさにこのような母なる物、言わば大文字で始まるMatterと通約してみると、そのイメージが把握できるかもしれない。
 このような大文字のMatter=にあえて現代的な知見をあてはめるならば―必ずしも正しい方法論とは言えないが―、初期宇宙のようなすべての物の始原を指し示すものと言えるかもしれない。
 従って、四大の最上位に位置するのはなのであって、この点でも中国思想伝来の天を頂点とする世界観とは異なっている。
 ただ、本章末尾では自然を範とすると述べられており、これなら窮極的な第五の要素として「自然」が考えられているようにも読めるが、「無為自然」という道家思想のキーワードにもかかわらず、老子は「自然」という語をめったに用いないので、この箇所は「=自然」という定式化が生じた後世になって注解的に書き加えられた可能性もある。
 こうしたを頂点とする四大の階層序列の中で、人は最下位の位置づけである。このことは、老子が人間を軽視していることを意味しない。それどころか、後に見るように、老子にはある種ヒューマニズムのモチーフが認められる。
 しかし、老子は人間を「世界‐内‐存在」(ハイデガー)どころか、より広汎に「宇宙‐内‐存在」として把握しようとしている。その意味で、老子は人間中心主義を拒否し、最終的にはに同ずることを人間存在の理想のあり方とするのである。
 

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老子超解:序文

2012-02-18 | 〆老子超解

序文

 本連載は独異な中国古典哲学書『老子』を過去の古典としてではなく、現在を超克し、新たな未来の地平を拓くアクチュアルな革命の哲学として大胆に読み直そうとする企てである。
 『老子』は、しばしば東洋的神秘思想の晦渋な奇書として扱われるが、本連載ではそうした神秘主義的解釈には与しない。むしろ『老子』をより世俗的・実践的ですらある革命思想として読み解いていく。
 他方、『老子』はポスト・モダンの欧米思想界において、いわゆるニューサイエンスの隆盛の中で、「タオ(道)イズム」という把握のもとに新たな脚光を浴びた時期もあったが、本連載はこうした疑似科学的な一種オカルティズムに『老子』を援用することも拒否する。この点では、2000年以上も遡る時代に現れた『老子』の古典性を直視し、同書を現代的神秘思想に仕立て上げようとする恣意的解釈にも与しないのである。
 では、『老子』のアクチュアルな革命の哲学としての意義はどんなところに見出せるのか。その具体的な抽出は各章の解釈に委ねていくとして、ここでは総論的に述べておこう。
 それはまず、『老子』が現代世界を形作る三つの教条、すなわち合理主義・実証主義・現実主義の対極で思考しようとしていることである。
 この三つの教条とは、要するに倫理学・科学・政治経済学という三つの主流的学術に対応するが、これらの学術の隆盛は形而上学としての哲学の没落をもたらし、思考の凡庸化・陳腐化を結果している。
 これに対して、『老子』の思考は形而上学のさらに上を行こうとする。言わば超形而上学である。逆に言えば、現代世界とは徹頭徹尾反老子的世界であると言ってよいのであるが、それだけに『老子』は今、最も根源的な批判哲学を提供し得るのである。
 このことは、『老子』が神秘思想としてとらえられがちなゆえんでもあるが、繰り返せば本連載ではそうした神秘主義的解釈を拒否する。
 実際、『老子』の通行本全81章の構成をよく見ると、極めて深遠な内容の哲学が開示される部分と、一転して実践的な政論が展開される部分とに大別できることがわかる。そこで、本連載では通行本で上篇37章と下篇44章に分ける構成を廃し、哲理篇47章と政論篇34章という筆者独自の構成に組み換えて注解していく。
 これにより、しばしば「老荘思想」としてひとくくりにされる後発書『荘子』との相違が明瞭となる。『荘子』はたしかに『老子』と系譜的なつながりを持つが、決定的に異なるのは『老子』のような政論を伴わないことである。『荘子』は神秘性・宗教性が一段と濃厚である。そのため、本連載は「老荘思想」というくくり方を拒み、『老子』を老子固有の哲学として読み解いていく。
 ところで、『老子』の叙述形式に関する魅力的な特色は、韻を踏む詩文の形で展開されることである。この点では、有名な「子の曰く」の書き出しで始まる儒教のバイブル『論語』とは好対照である。
 しかも『老子』は時折一人称の語りが混じる教説詩の形をとる点でも、師の講説の形で語られる『論語』とは大いに異なる。教説詩という形式の点ではソクラテス以前の哲学者、特に内容的には老子と好対照とも言える存在論を説いたパルメニデスに近いと言えるかもしれない。
 『老子』の各断章には様々な教説が含蓄されているが、それは『論語』や叙述形式の点では『論語』の社会主義版とも言うべき『毛沢東語録』のように、一人の偉大な思想家の権威的な語りとして展開されるのではなく、小さなつぶやきのような詩の形で語られるのである。言わば、大文字の〈主体〉なき語りである。
 このことは、そもそも『老子』の原著者とされる老子その人が伝説的な人物であって、実在性も確証されない影のような人物であることによっていっそう倍加されている。
 おそらく、書物としての『老子』は名も無き一介の在野哲学者が残した何らかの断片的草稿もしくは口述筆記をもとに、後世の人々が徐々に書き足して一応今日の通行本のような形で完成された集団的創作の所産であるに違いない。
 そうした集団的な語りとしての『老子』は、「著作権」なる観念にとらわれない思考の共産・共有という未来の思考のあり方にも強い示唆を与えるものと言えるのではないだろうか。
 さて、前口上はこれくらいにして、早速次回より『老子』の世界に没入していこう
 

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