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近代革命の社会力学(連載第401回)

2022-03-25 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(11)革命の余波
 1989年に始まる連続革命は、あたかも大規模な地震動のような余波をもたらした。中でも最大級のものは、その渦中で、米ソ両首脳の会談により東西冷戦の終結が宣言されたことである。これは東ドイツ革命の結果、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が打壊されたことにより導かれたグローバルなレベルでの効果である。

 より地域的に見れば、「家元」のソヴィエト連邦自身に及ぼした体制動揺効果が絶大であった。そもそも連続革命は、1985年に就任したソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが掲げた「新思考外交」により、従来ワルシャワ条約を通じてソ連の同盟諸国を束縛してきた制限主権論(通称ブレジネフ・ドクトリン)を転換し、同盟諸国に自由な路線選択を許したことが一つの背景となっていた。
 この新たな「ゴルバチョフ・ドクトリン」は同盟諸国に革命を直接に促す趣意ではなく、同盟諸国の主権尊重の原則を再確認するものにすぎなかったとはいえ、連続革命に際しても、1968年「プラハの春」の先例を踏襲することなく、ソ連がもはや軍事介入せず放任したことが革命の成功を導いたことは確かである。
 このことが、ソ連自身にも跳ね返ってくることになる。ただ、ソ連では長年の思想統制政策により民衆は政治的な動員解除状態にあったため、同様の民主化要求デモが誘発されることはなかったが、不法な併合によってソ連邦構成共和国として編入された経緯を持つバルト三国では連続革命前から独立運動が隆起しており、連続革命の渦中にそろって分離独立の動きを示したことからソ連邦の崩壊プロセスが始まる。
 崩壊を阻止せんとする共産党保守派のクーデターが民衆の抵抗により挫折したことを契機に、崩壊は一挙加速し、1991年末にはソ連邦の解体が決するが、この「ソ連邦解体革命」には固有の力学が認められるため、本章で扱う連続革命とは区別し、次章で見ることにする。
 類似の事態は、ソ連と同様の社会主義共和国連邦体制でありながら、イデオロギー上の相違から長く対立関係にあったユーゴスラヴィアにも及び、1991年以降、構成共和国の独立宣言が相次ぎ、独立を容認しない連邦中心国セルビアとの間で順次内戦へ突入していった。
 一方、同様にソ連と対立関係にあった中国では、連続革命に先立つ1989年6月、学生の民主化要求デモが頂点に達し、人民解放軍によって武力鎮圧される天安門事件があった。これは連続革命前に起きた中国固有の事象であり、連続革命自体の余波とは言えないが―逆に連続革命に刺激を与えた可能性はある―、連続革命は天安門事件後の中国共産党体制に、社会統制の強化とともに市場経済化政策を加速させる動機付けの効果を及ぼしたと言える。

 以上は、連続革命がマルクス‐レーニン主義を教義とするソ連・ユーゴ・中国という当時の世界に鼎立した三大共産党支配体制に及ぼした余波であるが、類似の体制はアフリカ諸国や一部中東・西アジアにも広がっており、それぞれで一党支配体制の見直しが始まった。
 その多くは革命ではなく、支配政党や最高執権者自身の譲歩策による複数政党制への移行という形で上から実行されたが、後に見るように、東アフリカのエチオピアやソマリアでは内戦・武力革命による体制崩壊が生じている。

 さらに、連続革命は非社会主義体制の独裁国家にも一定の間接的な余波を及ぼしている。後に見る専制君主国家ネパールにおける民主化革命もこの流れに属する。また、革命ではなく、支配政党の譲歩策ではあるが、南アフリカ共和国における白人至上主義体制の人種隔離政策放棄という画期的政策転換も同時代的に生じている。


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