ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

デモ不参加の理由

2015-08-30 | 時評

集団的安保法案に反対するデモが、(近年では)「空前」の規模になっている。参加しないと時流に取り残されかねない勢いだが、私は一度も参加していない。というより、これまでデモの類に参加したことは一度もない。

その理由には個人的なものと理論的なものとがあるが、意義の低い個人的な理由は後回しにして、理論的な理由を述べてみよう。

第一;デモはその主張内容が単純化され、いわゆる「ワンフレーズ」になりやすいこと。

今般の集団的安保法案をめぐっても、反対デモは「戦争法案反対」というスローガンを掲げている。わかりやすく、それがデモ参加者を増やす要因でもあろうが、今般の法案は「戦争法案」のひとことでくくれるほど単純ではない。

その詳細は法案成立間際の記事で論及するつもりであるが、今般の法案の意義や成立後の予測に関しては、もっと深い分析が必要である。しかし、デモという集団行動にそうした「わかりにくい」分析はなじまないだろう。

ちなみに事象としては性質が異なるが、10年前の「郵政民営化」政局の時には、政権側が「ワンフレーズ」を駆使し、与党内「抵抗勢力」を含む反対派が縷々説明を試みたが伝わらず、、「ワンフレーズ」が勝利した。今回は、政権側が縷々説明を試みるも伝わらず、反対派の「ワンフレーズ」が浸透する逆の現象が起きている。

第二;デモは、それが法的に禁止されている場合でなければ、政権に対して真の圧力とはならないこと。

逆言すれば、デモはそれ自体が非合法であるとき、はじめて真の圧力となる。なぜなら、デモをすれば処罰されるリスクを犯してでも、大衆が街頭に繰り出せば、当局はパニックに陥るからだ。政権は鎮圧部隊を投入して流血覚悟のデモ粉砕に出るか、デモを容認し、その要求を受け入れるかの決断を迫られる。

それに対して、合法デモは政権にとってはある種のガス抜きと、反対デモをも容認したうえでの方針決定であったという民主的アリバイ作りの手段として利用できるのである。現在の日本でデモは基本的に合法であるから、今般の安保法案反対デモもこのような利用の仕方をされる可能性がある。

第三;デモはプライバシーに開かれた街頭で行なわれるため、当局に情報収集されやすい構造を持つこと。

大規模なデモでは、市民に扮した公安要員が紛れ込んで、秘密裏の写真撮影や録音によって情報収集することが容易である。デモに参加する場合は、そうした不利益を甘受する必要があるが、その不利益は合法デモの場合、その限局された効果に比して大きすぎる。

以上のような点を考慮に入れつつも、デモという方法は、特定の意見を持つ人が多勢であることをアピールし、また言論の形で意見をまとめることが苦手であったり、何らかの事情でそれができない立場の人にとっては、最も手っ取り早く意見表明することのできる集団的な表現手段としての意義を認めることにやぶさかではない。

蛇足になるが、デモ不参加の個人的理由は、まさにデモンストレーション=自己顕示という行為が生来苦手なことによる。良く言えば控えめ、悪く言うなら引っ込み思案である。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(34)

2015-08-29 | 〆リベラリストとの対話

32:本源的福祉社会について⑤

リベラリスト:本源的福祉社会をめぐる対論の最後に、住宅問題を取り上げたいと思います。あなたは、『共産論』の中で従来、住宅問題は福祉の問題ではなく、所有とステータスの問題として認識されており、そうした「住宅階級構造」においては、家賃やローンを通じて「持てる者も持たざる者も、「住む」という人間の生の根幹部分を巡り、債務者という受動的な地位に立たされ、呻吟しているのだ。」と指摘されています。この部分は名言だと思っています。

コミュニスト:そう持ち上げておいて、やはりどこか異論がおありなのでしょう。

リベラリスト:家賃やローンから解放される社会は、誰もが望むところだと思います。これはお世辞抜きで、本源的福祉社会の真骨頂だと思っていますよ。しかし・・・

コミュニスト:しかし?

リベラリスト:はい。本源的福祉社会では、住宅は地方自治体が運営する公営住宅に収斂されるとのことですが、このような住宅政策は「自由な共産主義」というより、「統制的な社会主義」に近いものだと言えないでしょうか。

コミュニスト:どういうことでしょうか。

リベラリスト:貨幣経済から解放される本源的福祉というのなら、住宅を個人で建設するにも金はかからないはずですから、お仕着せの公営住宅に頼らなくとも、マイホームを自由自在に建てられるのではないですか。

コミュニスト:たしかに理念的にはそうも言えますが、一方で土地は誰の所有にも属しない無主物となり、領域圏の公的管理下に移されますから、自由自在に住宅建設ができるわけではないのです。

リベラリスト:私から逆提案するのもなんですが、土地については管理公社から宅地を区分的に貸し出すなりして、個人に提供できるのでは?この場合、理論上は借地も無償のはずです。

コミュニスト:そういう形で、私有住宅を建てることも認められます。しかし環境計画経済のもとでは、資本主義的な大規模宅地開発は行なわれません。特に日本のように山林が多い地理的条件では、いっそう環境計画的な宅地造成が必要です。そのため、一見「統制的」ではありますが、計画的に供給される公営住宅が中心とならざるを得ないのです。

リベラリスト:なるほど、そうなりますと、「自由な共産主義」なるものも、我々アメリカ人の心には今ひとつ届きにくいようですね。

コミュニスト:住宅政策は世界一律である必要はないので、アメリカのような広大な大陸型国家では、ご提案のように管理公社を通じた区分借地権の分与という形で、私有住宅を中心にすえることは可能かもしれません。

リベラリスト:もう一つは疑問というより質問です。あなたの共産主義的公営住宅では「環境‐福祉住宅」という理念のもと、環境的配慮とバリアフリーは行き届くようですが、かつてアメリカで実験されたような共有制に基づく協同体住宅の試みは導入されないのですか。

コミュニスト:共産主義的住宅の運営に関しては、初めから制度化するのでなく、自然に委ねたいと考えています。つまり運営事務だけを協同する管理組合のようなものが発生するか、もっと踏み込んで日常生活を共同するような慣習が生まれるかは、共産主義社会の人々の自由意志に委ねられるのです。

リベラリスト:個人的には、現代のマンション型共同住宅のように、建物だけを物理的に共用しながら、各入居者が蛸壺のような部屋に閉じこもって相互に交流もないという住環境は不健全ではないかと考え、協同体住宅の実験も再発見してみては?と思っていたのですがね。

コミュニスト:たしかに蛸壺型共同住宅は資本主義的な病理現象と見ることもできますが、一方で住宅には他人から干渉されずにくつろげる場所という意義もあり、そうしたプライバシーの観点も無視はできませんから、そのあたりはそれこそ自由に委ねてよいと思うのです。

リベラリスト:どうやら、リベラリストが協同体住宅を志向し、コミュニストがプライバシーを尊重するというねじれが起きたようですね。とはいえ、住宅問題を福祉の問題としてとらえ直すという視点は共有できたと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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晩期資本論(連載第61回)

2015-08-26 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(5)

資本主義的生産の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮する。生産的労働の搾取は、彼が自分でやるにせよ、彼の名で他人にやらせるにせよ、努力を必要とする。だから、彼にとって彼の企業者利得は、利子に対立して、資本所有にはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての―労働者としての―彼の機能の結果として、現われるのである。

 このように、企業者利得が資本家自身の「労賃」として立ち現われる場合、労働の監督に対する賃金という意味で、「監督賃金」と呼ばれる。

・・・・・・(監督賃金は)普通の賃金労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜ高いかといえば、(1)その労働が複雑労働だからであり、(2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。

 たしかに監督賃金は通常の労賃より高額だが、その理由は(1)複雑労働だからというよりも、(2)自分自身に支払うお手盛りだからという理由のほうが大きいだろう。複雑労働というだけならば、通常の賃金労働にも複雑労働は存在するからである。

彼(資本家)が剰余価値をつくりだすのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼の資本家としての属性から離れて見ても彼もまた労働するからである。だから、剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価である。

 より抽象化すれば、「資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立が、現実の搾取過程のかなたに、すなわち利子生み資本のなかに移されるので、この搾取過程そのものも単なる労働過程として現われるのであって、そこでは機能資本家もただ労働者がするのとは別の労働をするだけである」。要するに、「企業者利得には資本の経済的機能が属するが、しかしこの機能の特定な、資本主義的な機能は捨象されている」。

資本主義的生産それ自身は、指揮の労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。だから、この指揮労働が資本家によって行われる必要はなくなった。

 すなわち経営管理者制度への移行である。この場合、「管理賃金は、商業的管理者にとっても産業的管理者にとっても、企業者利得からまったく分離されて現われるのであって、労働者の協同組合工場でも資本家的株式企業でもそうである。企業者利得からの管理賃金の分離は、他の場合には偶然的に現われるが、ここでは恒常的である」。なかでも「一般に株式企業―信用制度とともに発展する―は、機能としてのこの管理労働を、自己資本であろうと借入資本であろうと資本の所有からはますます分離して行く傾向がある」。その結果―

・・・単なる資本所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対し、信用の発展につれてこの貨幣資本そのものが社会的な性格をもつようになり、銀行に集中されて、もはやその直接の所有者からではなく銀行から貸し出されるようになることによって、また、他方では、借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどんな権原によっても資本の所有者でない単なる管理者が、機能資本家そのものに属するすべての実質的な機能を行なうことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家はよけいな人物として生産過程から消えてしまうのである。

 現代資本主義において、上場公開企業の多くはこうした機能者のみの企業である。そこには、もはや言葉の真の意味での「資本家」は存在せず、経営管理者がすべてを統括している。一方で、貨幣資本を代表する銀行は最大の債権者として、貸出し先企業の経営にも関与している。

資本主義的生産の基礎の上では、株式企業において、管理賃金についての新たな欺瞞が発展する。というのは、現実の管理者の横にも上にも何人かの管理・監督役員が現われて、彼らの場合には管理や監督は実際に、株主からまきあげて自分のものにするための単なる口実になるからである。

 現代的な株式企業では、大企業ほど多数の役員を擁しているが、かれらに支払われる管理賃金が、上で述べられたように企業者利得から完全に分離されているかどうかは疑問である。特にアメリカ企業ではしばしば最高経営責任者をはじめとする役員報酬の突出した金額が問題とされる。マルクスも、多数の会社の役員を兼任して儲けている銀行家や商人の存在に関する1845年のロンドン実業界のゴシップ記事を引用して、次のように指摘する。

このような会社の重役が毎週の会議に出席して受け取る報酬は、少なくとも1ギニー(21マルク)である。破産裁判所の審理が示しているところでは、通例この監督賃金は、これらの名目上の重役たちが実際に行なう監督に反比例しているのである。

 資本主義が先行的に発達した英国では、19世紀半ばの段階でこうした不当高額報酬を受け取る重役たちが存在していた。このような役員報酬はまさにお手盛り的に、企業者利得から配分されていると見る余地もある。
 長く重役を労働者からの内部抜擢制によってきた日本的企業経営では監督(管理)賃金の企業者利得からの分離傾向は大きかったと言えるが、グローバルスタンダードの名の下に、アメリカ型企業組織の導入が進んだ近年は、日本でも兼任役員や役員報酬の高額化が見られる。

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晩期資本論(連載第60回)

2015-08-25 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(4)

・・・資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分かれるということだけが、利潤の一部分を利子に転化させ、およそ利子なる範疇をつくりだすのである。そして、ただこの二種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。

 前回も見たように、資本家階級内部での貨幣資本家vs.産業資本家の階級内対立構造が、利子と利子率決定の根源となる。

・・・・・・資本本来の独自の生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤である。ところが、借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。・・・・・・・・彼が総利潤のうちから貸し手に支払わなければならない利子に対して、利潤のうちまだ残っていて彼のものになる部分は、必然的に産業利得または商業利得という形態をとる。または、この両方を包括するドイツ的表現で言えば、企業者利得という姿をとる。

 利潤・マイナス・利子を企業者利得と呼ぶわけは、「この利得は、ただ彼(借入資本で事業をする資本家)が再生産過程でこの資本を用いて行なう操作や機能だけから、したがって、特に、彼が企業者として産業や商業で行なう機能から発生する」ことによる。

・・・・利子は資本自体の果実、生産過程を無視しての資本所有の果実であり、企業者利得は、過程進行中の、生産過程で働いている資本の果実であり、したがって資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ―このような質的な分割は、けっして一方では貨幣資本家の、他方では産業資本家の、単に主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。

 このように、マルクスは利子と企業者利得との関係構造を「総利潤の質的分割」という視座でとらえる。「そして、このように、総利潤の二つの部分がまるでそれぞれ二つの本質的に違った源泉から生じたかのように互いに骨化され独立させられるということは、いまや総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるえない」。

自分の資本で事業をする資本家も、借り入れた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、資本所有者としての自分、自分自身への資本の貸し手としての自分に帰属する利子と、能動的な機能資本家としての自分に帰属する企業者利得とに分割する。

 出資者が拠出した自己資本で事業を展開する場合にも、利子に当たる利益配当と企業者利得との分割を観念することは可能であり、この場合、「彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の諸範疇との関連において、資本所有、すなわち生産過程のにあってそれ自体として利子をもたらす資本と、生産過程のにあって過程を進行しながら企業者利得をもたらす資本とに分裂するのである」。これにより、所有と経営の分裂(分離)構造が生じる。
 とはいえ、借入金の利子と利益配当は性質の異なるものであって、「質的な分割としてのこの分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになる。」というのは、行き過ぎた一般化であろう。自己資本による事業展開の場合は、所有と経営の分裂が起こるかぎりにおいて、利潤の内的な分割が生じるに過ぎない。一方、内部留保等を活用したいわゆる自己金融による場合は利子の支払いは不要であり、利子と企業者利得の分割は起こらない。

・・・・彼(個別資本家)は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、生産過程を無視して、自分の資本そのものの果実とみなすのであり、また、利子として独立させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分を単なる企業者利得とみなすのである。

 仮に個別資本家がこのような意識で動いているとすれば、先の自己金融の場合にも質的分割は生じていることになるが、実際のところ、このような意識は個別資本家、特に経営者にはないであろう。またこうした主観的説明は、先に質的分割を「客観的事実」と規定したところとも整合しない。

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晩期資本論(連載第59回)

2015-08-24 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(3)

他の事情はすべて変わらないとすれば、すなわち利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は、利潤率の高さと正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし、また支払うことを辞さないであろう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、したがってまた一国の利子率の高低の産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる。

 より一般化すれば、「利潤の平均率は、利子を究極的に規定する最高限界とみなされるべきである」。これが利子率決定の一般原則である。また資本主義の発展段階で見れば、資本主義が発達するほど利潤率は低下し、従ってまた利子率も低下することになる。

しかしまた、利子率が利潤率の変動にはまったくかかわりなしに低落する傾向もある。そして、それには次のような二つの主要な原因がある。

 ここでマルクスが挙げているのは、まず発達した資本主義社会における金利生活者や年金生活者の増大現象である。すなわち、「古くて豊かな国では、新しくできた貧しい国でよりも、国民資本のうち所有者が自分で充用しようとしない部分が、社会の総生産資本にたいしてより大きい割合をなしている」(ラムジ引用)。
 次に、「信用制度が発達するということ、またそれにつれて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業資本家や商人が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということ、またこの貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということ、これらのこともやはり利子率を圧迫せざるをえない」。
 これら二つの要因は、まさに晩期資本主義社会においては定在化していることである。これに、中央銀行による政策的な金利操作という政治的な要因も加わるであろう。

・・・絶えず動揺する利子の市場率について言えば、それは、商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとして与えられている。なぜならば、貨幣市場ではすべての貸付可能な資本が総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給と他方ではそれにたいする需要との関係が、そのつどの利子の市場水準を決定するからである。

 別の角度から言い換えれば、「利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇であるにもかかわらず、独特な種類の商品となり、またそれゆえに利子は利子生み資本の価格となるのであって、この価格は、普通の商品の場合にその市場価格がそうであるように、そのつど需要供給によって確定される」。
 このように、利子生み資本とは利子を市場価格として資本そのものが商品化されたようなものである。「資本はここでは、産業資本がただ特殊な諸部面のあいだの運動と競争のなかだけで現われるところのものとして、階級のそれ自体で共同的な資本として、現実に、重みにしたがって、資本の需要供給のなかで現われるのである」。

 他方、貨幣資本は貨幣市場では現実に次のような姿をもっている。すなわち、その姿で貨幣資本は共同的な要素として、その特殊な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊な部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分される。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現われるかぎりでは、個別資本家、すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によっては代表されなくなり、集中され組織された大量として現われるようになるのであって、この大量は、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制下に置かれている。したがって、需要の形態から見れば、貸付可能な資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給から見ても、この資本は、それ自体、大量にまとまった貸付資本として現われるのである。

 ここでは、銀行を中心とする金融資本の支配する構造が簡明に描写されている。利子率と利潤率とが一致しないことは、このように、生産資本家階級と相対する形で、金融資本家階級が形成され、主導権を握る構造を作り出す。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(33)

2015-08-22 | 〆リベラリストとの対話

31:本源的福祉社会について④

コミュニスト:本源的福祉社会における無償医療制度にご懸念をお持ちのリベラリストさんならば、無償介護制度にも同様のご懸念をお持ちでしょう。

リベラリスト:もちろんそれもありますが、介護に関しては「脱社会化」という理念に疑問を覚えます。つまり施設を廃して、在宅介護中心に変革するというのですが、それではかえって介護は家庭の任務とされた介護の個人化の時代への逆戻りになるのではないでしょうか。

コミュニスト:私が「脱社会化」と言ったのは、やや特殊な意味においてです。このキャッチフレーズは日本で介護を社会保険制度を通して営利を含む民間事業に丸投げしている現状へのアンチテーゼとして述べたもので、普遍性はないのです。言わば、『共産論』日本語版固有の記述ですね。

リベラリスト:それにしても、共産主義的福祉ならば、介護を含めた「福祉の社会化」を素直に打ち出したほうが分かりやすいと思いますがね。あなたは教育に関しては、「子どもたちは社会が育てる」という理念を打ち出していたはずです。

コミュニスト:たしかに教育に関しては親任せにできないので、「社会化」を大胆に進めるべきだと思いますが、福祉に関してはすべてを社会化するのは無理で、やはり日常生活場としての家庭を中心に、しかし介護負担を嫁/娘に押し付けるのでなく、公的介護ステーションのような無償の社会的サービスでサポートするという体制になるのです。

リベラリスト:となると、相当多くの人員を介護に投入しなければならないでしょうが、ここで、冒頭投げかけられたような無償の問題性が出てきますね。介護のようにある意味汚れ仕事や雑用を含む仕事が無償で成り立つかどうかです。

コミュニスト:それは医療に関して述べたのと同じく、志の問題です。無償でもそうした奉仕的仕事に就きたいという人のほうが、単に生活手段として介護職を選んだ人よりも信頼できるでしょう。

リベラリスト:ですが、そんな奇特の人がサービス提供に必要なだけ集まるかどうかですね。私の意見では、人間という生き物は利益志向的であって、報酬なしでは成り立たない職はかなりあると思うのです。

コミュニスト:それは人間観の相違ですね。共産主義的人間観によれば、人間は本質的にあなたの言われる利益志向的なのではなく、利益志向性は貨幣経済・資本主義という経済社会の構造が生み出した仮の姿なのです。

リベラリスト:非常に楽観的な人間観ではあると思いますが、私の考えでは、あなたが提唱されるような純粋の共産主義が現実の社会として実現し難い理由の一つは、そうした楽観主義的人間観にありそうです。

コミュニスト:福祉の問題に戻すと、福祉もやはり利益志向的に営利化したほうがうまくいくだろうとお考えですか。

リベラリスト:ここでも、私はアメリカ人としては少数派の社会保険制度の支持者でして、ドイツ、日本のような介護保険制度は社会性と営利性を組み合わせた巧みな仕組みだと思います。全面無償ではサービス供給不足は否定できないでしょう。

コミュニスト:ドイツでは要介護認定や給付サービスを相当限定しているそうですが、その点で比較的寛大な日本では現行介護保険制度の下ですでにサービス供給不足が生じてきています。サービス供給は基本的に民間任せで計画性がないのですから、当然の結果です。

リベラリスト:介護と医療とを結合させて計画性を持たせるというご提案は高い理想だとは思いますが、理想どおりにいかないのは、やはり人間の利益志向性のゆえかと。またしても、人間観の相違になってしまいますが。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第17回)

2015-08-21 | 〆近未来日本2050年

四 弱者淘汰政策(続き)

国民皆勤労政策
 努力主義と結びついた「社会強靭化計画」は労働政策の面にも及び、「国民皆勤労政策」と呼ばれる強制的色彩の強い労働政策を導いている。ここでは、そうした強制性をオブラートに包んだ「失業ゼロ社会」がキャッチフレーズである。
 この政策において第一の標的となるのは路上生活者である。この点、街頭デモの規制にも発動される公共秩序維持法に路上での寝泊りの禁止が盛り込まれ、この規定に基づき、路上生活者に対しては警察官が保護拘束という強制手段で排除することが認められている。こうしたやり方は導入当初、差別的な「ホームレス狩り」として支援団体などから強い批判を受けたが、当局はそうした支援団体も公共秩序法違反で摘発する強硬措置で臨み、批判を封じ込めている。
 保護拘束された路上生活者は、厚生労働省所管の就労訓練センターに強制登録される。このセンターは保護拘束された路上生活者のほか、生活保護申請を却下された貧困者も強制登録し、就労訓練生として求人企業に派遣し、労働させることを目的としている。
 ちなみに、生活保護は申請に当たって自治体嘱託医による就労困難証明書の提出が義務付けられるうえ、反社会的または反国家的活動に従事している者は受給欠格者とされるなど、「国民皆勤労政策」に沿って受給条件が格段に厳格化されている。
 就労訓練センターには寮が付属しており、訓練生は無料で利用することができるが、寮はセンターが借り上げ、民間委託されており、しばしば劣悪な環境にある。しかも、訓練生は無断外出を禁じられるなど、規律も厳格なうえ、刑務官や警察官経験者が指導員に採用されるケースが多いため、「貧困者刑務所」という悪名もささやかれる。
 その訓練も名ばかりで、訓練生を経て正式に就労できる者は一部にとどまると見られるが、政府はこの点の正確なデータを公表していない。また訓練労働に対しては法定最低賃金も社会保険も適用されないなど、労働法の規制が一切及ばない。そのため、「訓練」名下に一種の奴隷労働を強いる悪制との批判が野党や法曹界からは根強いが、人口減少の中、深刻な労働力不足に直面している経済界からは好評を得ている。

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近未来日本2050年(連載第16回)

2015-08-20 | 〆近未来日本2050年

四 弱者淘汰政策

社会強靭化計画
 ファシズムの社会政策面における特色として、優生学的な弱者淘汰政策が計画的に追求されることがある。それは単なる結果的な弱肉強食の競争原理の称揚にとどまらず、より意図的な国策としての差別政策である。
 2050年日本の議会制ファシズムにおいては、「社会強靭化計画」と名づけられた優生学的政策が展開されている。すなわち深刻な人口減少の中、勤勉な人間の遺伝子を継承して、少数精鋭の強靭な社会を構築するというのである。
 「頑張る人、応援します」が、そのキャッチコピーである。ここでは、純粋な優生学でなく、日本的な「努力主義」の倫理観と結びつけられていることが特色である。従って、ナチスの優生学のように障碍者を体系的に抹殺するというような形式的なものではなく、障碍者でも障碍を克服すべく「頑張る人」は応援するという趣旨が含まれている。
 この点で目玉政策となっているのが、事前審査制の精子バンクである。これは学歴や職歴、収入・資産から病歴、身体条件、思想信条に至るまでの厳正な事前審査に合格した男性の精子を保存する公的な精子バンクである。民間の精子バンクとは異なり、これを利用する女性の側にも共通内容の厳格な事前審査が課せられる。
 この制度は当然にも、優生学的な差別を助長するとの批判に導入時からさらされているが、強制断種のような排除型の優生政策ではなく、個人の努力も加味し、障碍者をも包摂する選別型の優生政策であり、人口減少の中で日本人の優等遺伝子を継承し、社会を維持する政策として正当化されている。
 もう一つは、遺伝子検査・特定健診を35歳以上の全国民に義務化する政策である。これは遺伝子検査の結果、病因遺伝子が発見された場合、特定健診及び保健指導を義務付け、従わない者には健康保険の被保険者資格停止の制裁が課せられるというものである。
 このように国民に一律的な健康状態を強制する政策は「健康ファシズム」とも批判されるが、これについても、国民の健康保持の努力を促進し、予防・早期治療による医療費削減に多大の寄与をしていると宣伝されている。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(32)

2015-08-15 | 〆リベラリストとの対話

30:本源的福祉社会について③

リベラリスト:ご推奨の本源的福祉社会に関して一つ懸念されるのは、福祉サービスがすべて無償ということで、果たして質を担保できるかどうかです。これは特に医療サービスに関しては、かなり深刻な問題になると思われるのですが。

コミュニスト:つまり、タダだと質の悪い医療しか提供されないのではないかというご懸念ですね。では、逆に有償であることが質の担保になっているでしょうか。もしそういう法則が成り立つとするなら、医療は全額自己負担制としたときに最も高い質が確保できることになるでしょうが、そうなのですか。

リベラリスト:我々アメリカ人はそう考える傾向にあります。アメリカでは医療費を公的に補助する公的医療保険制度への反対・懐疑が少なくないのも、一つにはそのためなのです。

コミュニスト:あらゆるものは有償の商品として売買されることで質が担保されるというまさしくアメリカ的な商品神話ですね。しかし現実には、貧困者はそもそも医療へアクセスすることが難しいという途上国的状況に陥る一方で、質は二の次の営利主義が横行しているのではないでしょうか。

リベラリスト:私個人は公的医療保険制度に基本的に賛成の立場です。自己負担をゼロとすべきではなく、一定額は個人負担の有償とすることで、質と平等の両立が可能になるという考えです。

コミュニスト:社会保険制度の教科書的には、それが正論でしょう。しかし日本では特にそうなのですが、実際のところ、社会保険サービスと営利サービスとが雑居することによって、営利主義の部分が隠蔽されている観もあります。

リベラリスト:英国の公的医療制度のように税財源を使って実質無償化する方式では、やはり質の担保が難しいという実証もあります。本源的福祉社会だとして全面無償化されれば、そうした問題はいっそう深刻化するでしょう。

コミュニスト:私の考えでは、医療の質は医療者の資質によって人的にコントロールすべき問題で、有償・無償という物的な側面とは無関係です。共産主義社会では無償でも医療に従事したいという志の高い人が医療者となるので、質の人的担保は高度に保証されるでしょう。

リベラリスト:その点は解決するとしても、医師の計画配置や診療予約原則など、サービスの量的コントロールも容易ではなさそうです。

コミュニスト:本来、医療には計画経済が適しており、市場経済によって適切にコントロールすることこそ困難であることは、公的医療保険制度がありながら民間病院中心かつ医師の計画配置なしの日本で医療サービスの地域格差が著しいことにも示されています。

リベラリスト:私自身は、公私のサービスを別建てにして、民営医療は市場経済に委ね、公営医療ではある程度計画経済的な手法を導入するという混合主義を支持します。

コミュニスト:混合医療とは、つまり階級医療のことですね。富裕層は民営医療、一般大衆は公営医療という階級的住み分けが生じるでしょう。英国でそうなっているように。

リベラリスト:私の予測では、本源的福祉社会ではそもそも病院が激減し、最寄の病院は隣の隣の市の病院というような始末になりかねないと思うのですが。

コミュニスト:医師の計画配置=病院の計画設置ですから、そういう事態はあり得ません。むしろ、そのような病院過疎現象は市場経済の下で倒産する病院が続出することによって起こり得るでしょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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原発=神殿説

2015-08-12 | 時評

なぜこの時期に原発再稼動か?という問いに対する合理的な回答は何も示されないまま、ついに原発再稼動のプロセスが始まった。合理的な理由が示されないということは、この再稼動は再稼動そのものを自己目的としているとしか考えられない。特に再稼動第一号の川内原発は再稼動の既成事実を作り出すという象徴的な意味を濃厚に帯びている。

このように再稼動のための再稼動が世論の反対を無視して強行される背景には、多くの利権を生む原発ビジネスの旨味という利欲的動機もあろうが、新規原発の誘致ならいざ知らず、既設原発が新たな利権を生み出すわけでもないので―稼動停止に伴う逸失利権の回復の意味は小さくないが―、それだけでは説明がつかない。

おそらく冒頭の問いへの最も合理的な解答は、「原発は推進派にとって一種の神殿だから」だろう。本来の原発は高度の科学技術を駆使した科学施設であるが、日本の原発は単なる科学施設ではなくして、「原子力教」という名の新宗教の神殿なのである。

原発推進派にとって、原子力は超自然的な力なのであり、それには経済成長のご利益があると信じられているのだ。だから、かれらは「原発は経済成長に不可欠」との言説を明確な根拠を示すことなく繰り返している。かれらにとっては科学的根拠よりも宗教的信念のほうが重要である。宗教的信念は一回の事故程度では揺るがない。

ただし、原子力教の信者らにお願いがある。それは信者としてぜひ原発=神殿の近隣圏内に居住してほしいということである。言うまでもなく、原発近隣圏は事故に際して最も放射線の危険にさらされる地帯であるが、信念ならそれを回避するはずもなかろう。原発近隣圏に原子力教の信者ではない市民だけを住まわせるというのでは、納得されない。

集団的安保法案もそうだが、常に自分以外の他人を危険にさらし、自分は安全地帯に退避しながら危険行為を是認・推奨するという態度はフェアーでないし、その信念の程度が疑われる。旗振り役は自ら率先して危険に身をさらすべきであって、そこまでされれば、反対派といえども一定の敬意は持たざるを得ないだろう。

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晩期資本論(連載第58回)

2015-08-11 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(2)

貨幣は、自分が貨幣としてもっている使用価値のほかに、一つの追加使用価値、すなわちそれが資本として機能するという使用価値を受け取るのである。ここで貨幣の使用価値とは、まさに、それが資本に転化して生みだす利潤のことである。このような可能的資本としての、利潤を生みだすための手段としての属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品となるのである。あるいは、結局同じことであるが、資本が資本として商品となるのである。

 貨幣の面から見れば、資本主義とは物品の交換手段である貨幣が利潤を増殖的に生みだす資本に転化することに特徴があった。そうすると、資本主義における貨幣はそれ自体が資本に転化する一つの商品となり、そうした商品としての貨幣を専業的に取り扱うのが銀行を含む貨幣取引業である。

・・・利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目にほかならないのである。

 マルクスが挙げている簡単な設例で言えば、年平均利潤20パーセントで、100ポンドの貨幣を所有する資本家Aが資本家Bにその100ポンドを一年間貸し付けたとして、Bが5ポンドを利子としてAに支払う場合、この利子5ポンドは20ポンドの利潤を生みだす資本=商品の使用価値の代価として利潤の一部をAに支払う計算になる。この場合、資本家Aはまさに貨幣を融通する金融資本して機能している。これが利子生み資本の最も原初的な形態である。
 実際のところ、金貸し業者は資本主義が勃興する以前から商品経済内に出現していたが、資本主義における金融は単なる金貸しではなく、商品としての資本を融通する特殊な資本であるということになる。

自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、それを第三者に譲り渡し、それを流通に投じ、それを 資本として 商品とする。それは、それを譲り渡す人にとって資本であるだけでなく、はじめから資本として、剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、第三者に引き渡される。すなわち、運動のなかで自分を維持し、機能を終わったあとでその最初の支出者の手に、ここでは貨幣所有者の手に還ってくる価値として、引き渡されるのである。

 この「還流」ということが、利子生み資本を特徴づける性質である。そして、資本が商品であるということは、それが貸し手のみならず、借り手にとっても資本であること―他人資本―であることを意味している。

貸し手も借り手も、両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は、同じ貨幣額が二人の人にとって二重に資本として存在することによっては、二倍にならない。その貨幣額が両方の人にとって資本として機能することができるのは、利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は、利子と呼ばれる。

 先に「利子とは、利潤のうち機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目」と説かれていたこととつながる記述である。ここでは「利潤の分割」という規定がポイントとなる。

・・・利子と本来の利潤とへの利潤の分割が商品の市場価格とまったく同様に需要供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現われる。しかし、ここでは相違も類似と同様にはっきりと現われている。

 利潤の分割の割合を示す指標が利子率であるが、この利子率も一般商品の市場価格のように需給関係によって決定される。しかし、一般商品との相違もある。すなわち―

利子の場合には、競争が法則からの偏差を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば、・・・・・・・・・利子率の「自然的な」率というものは存在しないからである。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定された率のことである。

 一般商品では、需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は原理的な、つまりは「自然的な」生産価格に一致する。この法則は、マルクスによれば労働力商品の価格としての労賃にも当てはまる。
 ところが、利子率に関してはこうした法則が妥当せず、それはひとえに競争の結果として確定する。「競争がただ単に偏差や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の互いに作用し合う諸力が均衡すればおよそあらゆる規定がなくなってしまう場合には、規定されるべきものが、それ自体として無法則なもの、任意なものなのである」。こうした恣意的な利子率の変動に関する考察は次回に回される。

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晩期資本論(連載第57回)

2015-08-10 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(1)

 マルクスは商業資本の分析に続いて、金融資本の分析に取り組む。もっとも、彼は金融資本という機能的な語は用いず、利子という利潤形態に着目して「利子生み資本」と呼ぶが、ここでは現代的に金融資本と称することにする。金融資本のプロトタイプとなるのは旧両替商のような貨幣取引資本である。マルクスはこれについて、さしあたり商業資本の特殊形態として分析している。

産業資本の流通過程で、また今ではわれわれがつけ加えることのできる商品取引資本の流通過程で(というのは商品取引資本は産業資本の流通運動の一部分を自分自身の特有な運動として引き受けるのだから)貨幣が行なう純粋に技術的な諸運動―この諸運動は、それが独立して一つの特殊な資本の機能となり、この資本がそれを、そしてただそれだけを、自分に特有な操作として営むようになるとき、この資本を貨幣取引資本に転化させる。

 具体的には、「貨幣の払出し、収納、差額の決済、当座勘定の処理、貨幣の保管などは、これらの技術的な操作を必要とさせる行為から分離して、これらの機能に前貸しされる資本を貨幣取引資本にする」。

貨幣取引業、すなわち貨幣商品を扱う商業も、最初はまず国際的交易から発展する。いろいろな国内鋳貨が存在するようになれば、外国で買い入れる商人は、自国鋳貨を現地の鋳貨に、また逆の場合には逆に両替えしなければならないし、あるいはまたいろいろな鋳貨を世界貨幣としての未鋳造の純銀や純金と取り替えなければならない。こうして両替商が生まれるのであるが、これは近代的貨幣取引業の自然発生的な基礎の一つとみなすべきものである。

 かくして両替商は金融資本の原初形態となるが、今またビットコインのような新たな電子貨幣システムの発明により、その取引を仲介する一種の両替商が出現してきていることは注目される。貨幣の電子化という段階に達した現代資本主義が生みだす新たな貨幣取引資本とも言える。

貨幣取引業が媒介するのは貨幣流通の技術的操作であって、この操作を貨幣取引業は集中し短縮し簡単にする。貨幣取引業は、蓄蔵貨幣を形成するのではなく、この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本や再生産過程の撹乱の表現ではないかぎり)、それをその経済的最小限に縮小するための技術的な手段を提供するのである。

 貨幣取引業の本質は仲介であって、「貨幣取引業は、ここで考察しているような純粋な形態では、すなわち信用制度から切り離されたものとしては、ただ、商品流通の一契機としての貨幣流通の技術と、この貨幣流通から生ずるいろいろな貨幣機能とに関係があるだけである」が、それは貨幣流通の効率化という点で不可欠の役割を果たすことになる。

貨幣取引資本は、それの元来の機能に貸借の機能や信用の取引が結びつくようになれば、もはや十分に発展しているわけである。といっても、このようなことはすでに貨幣取引業の発端からあったのではあるが。これについては、次篇、利子生み資本のところで述べる。

 貨幣取引業は仲介業であるとはいえ、通常は金融機能が付加され、信用取引の仲介も展開する。その結果、貨幣取引資本はその発端から金融資本としての性格を有していた。現代資本資本主義においては、そうした金融資本が貨幣取引資本を吸収しているので、純粋形態の貨幣取引資本はほとんど見られない。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(31)

2015-08-09 | 〆リベラリストとの対話

29:本源的福祉社会について②

リベラリスト:年金も生活保護も必要ないという本源的福祉社会はたしかに魅力的ですが、その秘訣は労働と消費が分離されていることにあるわけですね。端的に言えば、働かなくとも食べていける社会。人によっては楽園と思えるでしょうが、それでは社会の生産活動が著しく停滞する危険と隣り合わせです。この問題は以前にも少し議論しましたが、改めてここで正面から議論しておきたい論点です。

コミュニスト:働かない=怠惰という図式をお持ちなら、まさしく資本主義的価値観だと思います。働かないのではなく、病気・障碍等で働けない場合のことを念頭に置いてみましょう。そういう状態は誰にも起こり得ることです。

リベラリスト:そういう場合は、それこそ社会保障によって支えていけばよいわけで、働けるなら、働いた報酬で食べていくのはいけないことですか。

コミュニスト:いけないとは言っていません。ただ、生活保護の受給条件でよく問題となるように、働ないのか、働ないのかの線引きはあいまいで、時に行政訴訟になるほど恣意的なものです。そういう無理な切り分けをするぐらいなら、労働と消費は初めから分離したほうがいいのです。

リベラリスト:そのうえで、労働は職業教育と労働配分によってコントロールしていくという構想だったと思いますが、一方で、本源的福祉社会では定年制も撤廃され、何歳でリタイアするかも自分で決定できるということでしたね。しかし、老年者がなかなか退職しない社会では、労働配分も困難にならないでしょうか。

コミュニスト:むしろ労働と消費が結合されている資本主義社会で、老年労働者がなかなか退職してくれなければ、代替の若年労働者の補充は困難となり、若年者の就労困難・貧困化が深刻になるでしょう。共産主義社会では計画的な人員補充が適宜行なえるので、そのような労働渋滞現象は起きません。

リベラリスト:理屈ではそうなのかもしれませんが、実際のところ、社会保障なくして、労働経済的なコントロールだけで人々の生活保障が成り立つという想定で大丈夫なのかという懸念が残ります。

コミュニスト:言い換えれば、福祉国家モデルは本当に消費期限切れなのかどうかという問いかけですね。たしかにそれは遅ればせながら福祉国家モデルに傾斜してきているアメリカを含め、世界が革命に流れるかどうかの分かれ道になるかもしれません。

リベラリスト:日本の共産党のように、企業課税強化による福祉国家再生論も根強いですね。

コミュニスト:企業課税強化論には実現可能性がありません。「近代的国家権力は、単に全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会にすぎない」(マルクス‐エンゲルス『共産党宣言』)のですから、そのような「ブルジョワ委員会」である国家がなぜ、ブルジョワの城塞である企業に重税をかけようとするでしょうか!共産党はどの政党よりもこの理を理解していなくてはならないはずです。

リベラリスト:アメリカについて言えば、アメリカ人は福祉国家でも、本源的福祉社会でもなく、自分で自分の世話をする「自己福祉社会」をいまだ支持しているようです。かれらは若きIT長者が体現しているような「アメリカン・ドリーム」から覚めていないのです。

コミュニスト:なるほど。しかし長期的に見て、出生率が高いヒスパニック系が人口構成上多数派になったときには、アメリカ社会全体がラテン化していきます。そうなれば、価値観も変化するでしょう。

リベラリスト:ヒスパニック系は本源的福祉社会を望むと?

コミュニスト:かれらは「ドリーム」とはあまり縁のない層ですし、文化的にも働き蜂ではなさそうですからね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第15回)

2015-08-08 | 〆近未来日本2050年

三 思想/情報統制政策(続き)

情報管理
 議会制ファシズム体制は、憲法上形のうえでは表現の自由を保障しているため、「言論統制」という言い方を好まず、代わりに「情報管理」と呼ばれる一連の言論政策が展開されている。
 その第一の柱は、マス・メディア対策である。この点、言論統制の代名詞である検閲制度は存在しない。その必要がないのである。なぜなら、新聞・テレビの大手メディア幹部が参加する内閣官房長官の私的諮問会議として時事懇談会が常設機関化され、官製報道の中枢機関として機能しているからである。そのため、大手メディアでは政権批判的な報道は消失している。
 またNHKが総務大臣所管の独立行政法人に格上げされ、実質上国営放送としての性格が濃厚となり、NHKに政府広報専門チャンネルも増設されることで、国策報道が正面から展開されている。
 さらに国家情報調査庁が大手メディアで多数の記者を契約諜報員として囲い込み、政策的リークにより情報操作をしているとの噂があるが、当然にも実態は秘密のベールに包まれている。
 一方、インターネット上の情報管理に関しては、通信事業者に法令及び公序良俗違反言説の削除義務を罰則付きで課す規定が存在する。また有事や騒乱時にインターネット接続を法律上の権限に基づき政府機関が包括的に強制遮断する制度が存在するが、平時でも国家情報調査庁や防衛軍情報保安隊のサイバー監視部門が秘密裏に問題サイトへの接続を遮断する措置を取っているとも言われている。
 さらに旧来の特定秘密保護法がファシスト政権下ではより拡大されて、機密保護法に再編され、機密漏洩罪は最大で無期懲役刑を科せられる重罪とされている。しかし市民の知る権利を制約するこうした圧制を批判することは国家尊厳法違反に問われる恐れがあり、公然たる批判は見られない。
 これらの情報管理政策とは別に、より直接的な世論対策として、多数のコピーライターや心理学の専門スタッフを擁するファシスト与党の世論局が、政権の公式キャッチコピーやネットへの匿名書き込みなど、表裏様々なチャンネルを用いた心理的世論操作を担当しているとされる。
 「言論統制」ではないとの建前から、集会・デモの自由も形のうえでは保障されるが、公共秩序維持法によって原発なども含む重要公共施設周辺でのデモ・集会は禁止されているため、大衆行動は事実上封じられている。
 さらに反政権的な集会・デモにはファシスト与党の傘下にあると噂される国粋青年組織が突撃し、運営を妨害する行為が繰り返されるが、警察・検察はこうした不法な活動も愛国的動機に基づく酌量すべき行為とし、事実上免責している。

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近未来日本2050年(連載第14回)

2015-08-07 | 〆近未来日本2050年

三 思想/情報統制政策(続き)

思想教育
 2050年における議会制ファシズムと戦前の軍国体制とが最も近似性を示すのは、学校における思想教育である。議会制ファシズムにおける思想教育の軸は「愛国防衛教育」に置かれる。この点、ファシスト与党のある文科大臣は「公立校では愛国防衛教育以外は必要としない」と発言、与党内からも極論との苦言が出るも、この失言に議会制ファシズムの教育指針が象徴的に表れている。
 とりわけ2050年頃には体制エリートの有力な給源となっている公立系中高一貫進学校には義務的な防衛軍体験入隊があり、防衛教育が徹底されている。これは一部識者から「現代の軍事教練」と批判されるが、一般校での防衛教育は基本的に座学であり、体験入隊のような教練は含まれない。
 議会制ファシズムが教科的に特に力を入れるのは、社会科と道徳科である。特に社会科にあっては政府・与党の公式見解以外の見解は教科書から一掃され、それ以外の見解、特に公式見解に反する見解を教えた教員は処分対象となる。
 中でも歴史教育に関する締め付けは厳しく、戦前の帝国主義支配について否定的な授業を個人で続けていた公立高校教員が国家尊厳法違反で逮捕・起訴される事件すら起きている。これはファシスト政権が「20世紀における日本の軍事行動は自衛自存のための愛国的行動であった」との公式見解を提示しているためである。
 一方、道徳は議会制ファシズムが成立する以前の時代に独立教科化されていたところ、議会制ファシズム体制では社会科と並ぶ最重要科目と位置づけられ、愛国主義教育が徹底される。ここでの愛国主義はもはや精神論にとどまらず、「諸外国の反日宣伝に対し毅然として反駁することは日本国民の崇高な責務である」とする積極的な行動論とされる。
 こうした思想教育を円滑に実施するうえでも、旧来の教育委員会制度は廃止され、より統制的な教育庁・教育局/部制度に転換されている。また教育公務員の採用に当たっては国家情報調査庁と連携して厳格な身元・思想調査がなされ、野党支持者やその親族は排除されているとも言われるが、実態は不明である。
 他方、国公立大学には産官学連携運営が法律上義務化されているため、思弁的な学術の性格上連携が困難な文系学部は経済・経営学系、法・行政学系等の実学的部門を除き、消滅している。かつて憲法上の原則でもあった大学の自治は否定され、大学は国益及び公益を害しない範囲内での限定的な自主権を持つにすぎないとされるため、大学における思想の自由は事実上排除されている。

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