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近代革命の社会力学(連載第154回)

2020-10-09 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(3)大国民会議の創設と解放戦争の始まり
 オスマン帝国の敗北を決定づけたムドロス休戦協定は帝国領土の大半を喪失する内容であったが、アナトリアの本拠領土は保全されていた。しかし、協定では、条件付きで、連合国が帝国領土のいかなる部分も占領できる権利を留保していたことから、帝国の解体を狙う連合国はアナトリア本拠領土にも進軍して、ギリシャを含む連合国が分割占領する事態となった。
 そうした中、数人の有志軍首脳の間で、領土保全のため、軍監察官を各地に派遣する密約が結ばれた。そうした監察官の一人として派遣された中に、旧「統一と進歩」派で、当時は中堅の准将だったムスタファ・ケマルがいた。
 大戦の英雄であった彼は政治的な組織力にもすぐれており、1919年5月に黒海沿岸の町サムスンに上陸すると、地方の軍司令官や旧「統一と進歩」派の活動家を結集し、「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」(以下、「権利委員会」と略す)を結成した。
 この組織は、結成時点ではまだ革命組織ではなく、連合国軍の進出により亡国危機が迫る中、本拠アナトリアとバルカン半島領土ルメリアを保全することを目指す抵抗組織であり、明けて1920年1月には、アラブ人居住地域を除く帝国領土の保全と帝都イスタンブールの安全を要求するとともに、賠償金の支払いを拒否することを内容とする「国民誓約」を発した。
 これに対し、連合国軍は3月、帝都イスタンブールに進撃・占領したうえ、4月には時の皇帝メフメト6世に圧力をかけて帝国議会を解散させた。こうした連合国の増長と皇帝の軟弱に対抗するべく、ケマルはイスタンブールを逃れた帝国議会議員と権利委員会の各支部から選出した議員を結集し、アンカラに大国民会議を創設した。
 大国民会議は後の共和国議会の前身組織であるが、創設時は非公式の会議体であり、ケマルを議長とする全権機関であった。この時点ではまだイスタンブールに皇帝と帝国政府が残存していたから、大国民会議は公式政府と対峙する対抗権力の性質を持った。
 これに対し、メフメト6世は怒りをあらわにし、ケマルを反逆者として死刑宣告したうえ、「カリフ擁護軍」なる親衛隊を組織して、大国民会議の解体を図った。同時に、皇帝は連合国との講和を急ぎ、20年8月、事実上の保障占領下で、正式の講和条約(セーブル講和条約)を締結した。
 このセーヴル講和条約は先の休戦協定をさらに進め、オスマン帝国領土をアナトリア半島の三分の二程度にまで縮減したうえ、東部にはアルメニア人国家の樹立を承認、さらにクルド人のクルディスタン国家建国をも容認する内容で、結果として、トルコを脱帝国化し、アナトリアの地方的な国家に落とす内容であった。
 さらに財政に関してはイギリス・イタリア・フランスが決定権を持つとともに、外国人の特恵待遇カピチュレーションを継続するなど、トルコを事実上の西欧列強植民地としかねない不平等条約としての性格も濃厚であったが、地位保全を優先したメフメト6世は、これを受諾したのであった。
 このような情勢の下、大国民会議は国内の革命の前に、まずは植民地化を招来しかねないセーヴル条約を白紙化するべく、連合国に対する解放戦争を戦う必要を生じた。そのため、この先、1922年の秋にかけては、連合国軍が占領する各方面で戦略的な解放戦争が展開され、その間、大国民会議は戦争指導機関としての役割を果たすことになる。


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