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近代革命の社会力学(連載第257回)

2021-07-05 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(2)ルワンダ革命/ブルンディ革命 

〈2‐2〉「フトゥ・パワー」とルワンダ共和革命
 ベルギー統治下のルアンダ‐ウルンディの北半分に相当するルワンダでの民族間の緊張は、「フトゥ・パワー」が頂点に達した1959年に爆発した。最終的な君主制の廃止自体は1961年のことであるが、そこへ向かう共和革命の起点は1959年にあったと言える。
 この年の7月、28年間在位し、歴代ルワンダ国王で初めてカトリックの洗礼を受けたムタラ3世が急死した。王はベルギー人医師による診察後に急死し、ベルギー当局が死因を明確に説明できなかったことから暗殺も憶測され、不穏な情勢となった。
 一方、同年10月、ベルギー統治下の教育制度を通じて育っていたフトゥ系知識人らが民族主義的なフトゥ解放運動党(パルメフトゥ)を結成し、活動を開始する。
 パルメフトゥの創設者グレゴリー・カイバンダは教師出身で、彼はつとに結党前の1957年、白人とトゥツィ族の二重支配からフトゥを解放すべきことを説く「バフトゥ(フトゥ族)・マニフェスト」を発表していたが、ここには反帝国主義のみならず、トゥツィを排斥する危険な民族主義的イデオロギーが内包されていた。
 同年11月には、パルメフトゥ幹部でもあったフトゥ族系地方首長ドミニク・ムボニュムトゥワ(後に暫定初代大統領)がトゥツィ系強硬派テロリストに襲撃された事件を契機に両民族間での武力衝突が拡大した。
 ここで、宗主国のベルギー当局が軍事介入し、民族紛争を力で鎮圧するとともに、従来の方針を反転し、フトゥ優遇策に明確な方針転換を実行した。これは、ベルギー当局としても、当面の民族紛争を抑制するには、多数派フトゥに主導権を与える必要があると打算したからであった。
 そこで、ベルギー当局は統治の末端を担う地方首長の多くをトゥツィからフトゥにすげ替えたうえ、紛争の激化を懸念した国際連合の延期要請を無視し、1960年に統一地方選挙を強行した。結果は、当然にも、多数派を代表するパルメフトゥの圧勝であった。
 1961年1月には、ムタラ3世を継いだ弟の国王キゲリ5世の外遊中を狙い、ベルギーの承認の下、パルメフトゥが君主制廃止と共和制移行を宣言、暫定大統領にムボニュムトゥワが就任した。同年9月の国政選挙でもパルメフトゥが圧勝し、62年には独立を果たし、正式の初代大統領にはパルメフトゥ創設者のカイバンダが就いた。
 こうして、ルワンダ共和革命は、独立前夜に宗主国の承認の下、支配階級民族の明確な交代を結果する形で実行されるという特異な経過を辿った。そのため、ルワンダ革命は「社会革命」とも呼ばれることがある。
 数的には元来、圧倒的多数派のフトゥに主導権が移ったのは自然とも言えるが、カイバンダを中心とするフトゥの支配層は報復的にトゥツィを排除した。結果、革命後、30万人以上のトゥツィが難民化し、周辺諸国に避難、一部は武力抵抗運動へ赴くこととなった。
 カイバンダは1973年のジュベナール・ハビャリマナ国防相が首謀した軍事クーデターで失権し、獄死するまで、パルメフトゥによる実質的な一党支配体制を通じて独裁し、ベルギー統治時代とは裏腹にフトゥ優位の政治を展開していった。
 カイバンダに代わり政権を掌握したハビャリマナの独裁体制下では両民族間の融和が図られたが、カイバンダのトゥツィ排斥イデオロギーはその後も根強く残存し、1990年代には、ハビャリマナ大統領暗殺を契機に、ファシズムの性格を伴った極端なフトゥ優越主義に扇動されたトゥツィ大虐殺という世界史的な惨事の遠因ともなる。


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