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近代革命の社会力学(連載第23回)

2019-09-30 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(4)革命諸派の形成  
 18世紀フランス革命の最初期において、第三身分を中心とした革命派はジャコバン修道院を拠点とする緩やかな革命派集団を形成していた。この集団・通称ジャコバン・クラブは、正式名称を「憲法友の会」といい、当初は民主憲法制定という一点である程度結束していた。  
 しかし、革命プロセスが深化していくにつれ、ここから様々な党派が分岐し、熾烈な権力闘争を展開していく。ただ、近代的な政党政治の時代は未だしであったから、これらの諸派が政党化されることはなく、有力革命家を囲む派閥集団のようなものであった。  
 そのうち、最も早く党派的に分離したのは、革新派貴族のラファイエットや上層ブルジョワ階級を中心にフイヤン修道院に拠ったフイヤン派であった。この派の基本的な信条は穏健な立憲君主制であった。従って、王制打倒は目標とせず、王制廃止を訴える共和派とは対立した。  
 権力に固執する王朝にとっても、立憲君主制への移行は妥協可能なぎりぎりの限界線であったから、1791年に正式に立法議会が発足すると、フランス最初の近代的責任内閣はフイヤン派が担うこととなった。  
 一方、王制廃止を主唱する共和派には、当初から穏健なジロンド派と急進的な山岳派の対立軸が存在していた。この両派が最初に衝突したのは、マリ‐アントワネット妃の故国オーストリアが主導した革命干渉戦争への対処をめぐってであった。ジロンド派は主戦論、山岳派は反戦論と分かれた。  
 ジロンド派は主戦論という点ではフイヤン派とも連携しており、立法議会ではしばらく両派が交互に内閣を担う与党勢力となった。しかし、伝統的な貴族指揮官が亡命により不足していたうえ、新設の国民衛兵は前線に投入するには訓練不足ということもあって、戦争では連戦連敗を重ねることとなった。敗戦は主戦派のジロンド、フイヤンの両派の評判を落とす要因となった。  
 しかも、フイヤン派にとって、1791年7月17日、ルイ16世の廃位を求めてシャン・ド・マルス練兵場に集結した5万人のデモ隊に対して国民衛兵が発砲し、死者を出した「シャン・ド・マルス事件」が決定的な没落要因となった。この武力弾圧は、国民衛兵司令官ラファイエットとパリ市長バイイのフイヤン派主導で行なわれたからである。  
 そうした中、1792年8月10日、、民衆が再び決起し、「ベルサイユ行進」以来、国王一家が軟禁されていたテュイルリー宮殿を襲撃して一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件を機に、立法議会が王権の停止を決定すると、立法議会は新たに行政権をも掌握する共和制の国民公会に移行した。  
 国民公会の初期にはまだジロンド派が多数を占めていたが、これに対して山岳派が対抗する。進歩的な商工ブルジョワジーを支持基盤とするジロンド派に対し、山岳派は中産階級とパリを中心とする都市労働者階級を支持基盤としていたが、その実、明確なイデオロギーには乏しく、その内部がさらに個人を囲む小派閥に分かれていた。  
 山岳派内部で比較的穏健だったのはジョルジュ・ダントン率いるダントン派で、最強硬派はジャック・ルネ・エベール率いるエベール派、意外にも後に恐怖政治を断行することになるマクシミリアン・ロベスピエール率いるロベスピエール派は両者の中間派であった。  
 国民公会初期のジロンド派と山岳派の対立は、ルイ16世の処遇をめぐって生じた。王党派ではないが、国王を免責して革命に一応の区切りをつけたいジロンド派に対し、山岳派は国王夫妻が干渉戦争中に外国と通謀していた疑惑が浮上したことを理由に、国王夫妻の訴追と裁判を要求した。  
 元来ジロンド派は、 ジャック・ピエール・ブリッソーや貴族出身のニコラ・ド・カリタ(コンドルセ)といった有力者の集団指導制の緩やかな党派で、まとまりを欠く傾向にあったところ、国王裁判をめぐってはいっそう内部分裂し、党派としての凝集性を喪失してしまった。  
 やがて、国王夫妻の処刑が現実のものとなると、これを主導した山岳派が国民公会の最大党派として台頭、恐怖政治の中でジロンド派は弾圧、解体された。こうしてひとまず山岳派の天下となるが、この派も先述したように小派閥に分裂し、権力闘争に明け暮れていく。


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