ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「持続可能性」の終幕

2012-06-25 | 時評

ブラジルのリオデジャネイロで開催されていた「国連持続可能的開発会議」(リオ+20)がほぼ無内容のうちに終幕したことは、ちょうど20年前、同じリオで開催された「国連環境開発会議」(地球環境サミット)から華々しく打ち出された「持続可能性」テーゼの終幕をも意味する。

会議で謳われた「環境保護と経済成長の両立」(グリーン経済)なるお題目は、生態学的持続可能性を資本主義的成長の前に譲歩させることにほかならない。

それは言いすぎだと思われるかもしれない。しかし持続可能性と資本主義は本質的に水と油の関係なのである。

元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制は、どんな名目があろうともお断りなのだ。温室効果ガス削減義務を定める京都議定書も宙に浮き、議定書に名誉ある京都の名を刻んだ日本も延長に消極的であることはそのことの現れである。

また「量の経済」は当然に「高エネルギー経済」でもあるから、原子力発電のような効率的発電手段も本質的に手放せない。世界に衝撃を与えたフクシマ大事故の後であるにもかかわらず、リオ+20でも「脱原発」はテーマにならなかったゆえんである。

ちょうどリオ+20の直前にメキシコで開催されたG20の首脳宣言でも「持続可能な成長」が謳われたが、ここで言う「持続可能」とは資本主義的経済成長の持続性、すなわち正確には「持続的経済成長」のことを言っている。こういう発想では当然、「量の経済」の象徴的指標であるGDPに代わり、持続可能性を盛り込んだ新たな経済指標も提起できるはずはない。

「持続可能性」テーゼを真に実現するには、「量の経済」から「質の経済」への弁証法的転換が必須である。それは資本主義的生産様式そのものを見直すことである。

昨今、「エコロジー」について語る人々は多いが、その大半は無邪気に持続可能性と資本主義の両立可能性を信じている。そういう人たちは持続可能性をめぐる国際会議の低調・失敗を政治家や企業家の怠慢といった主観的要因で説明したがる。しかし問題の根本は生産様式という客観的要因にあることを、リオからリオへ一巡した今、ここで再認識したい。

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続・がんばれギリシャ!

2012-06-19 | 時評

ギリシャ議会の再選挙で「緊縮派」が勝利したことで、世界中の投資家・資本家をひとまず安堵させた。 

ただ、第一党となった「緊縮派」の保守政党は元来、先月の第一回選挙でも比較第一党にはつけていたのだから、純然たる逆転勝利ではない。従って、なぜ「緊縮派」が勝利したかよりも、なぜ「反緊縮派」は結局勝利できなかったかを考えるほうが妥当である。

一つは全く技術的なことだが、ギリシャの選挙制度では得票率トップの政党に50議席のプレミアムが与えられることから、これによって第一党が実際より多くの議席を得たこと。

より重要なことは、一国の総選挙としては前例がないほどの国際的な選挙大干渉が公然行われたこと。ギリシャがユーロ圏を離脱すればギリシャはもちろん、世界経済が崩壊する・・・云々の宣伝が繰り返され、「緊縮派」への国際資本主義総体での肩入れが行われた。こうしたことが前回選挙で躍進した急進左派の急進性をも失わせ、ユーロ離脱は争点とならなかったのだ。

その急進左派(急進左翼連合)は前回より議席を一定上積みしたものの、現状では旧来の共産党その他の左派政党に飽き足らない諸派の寄せ集めにすぎず、未来ビジョンに欠けることも、ギリシャ民衆をしてこの党を政権党につけることをためらわせた要因であろう。

もっとも、この党はエコロジーと社会主義を結びつけた「エコ社会主義」なる欧州左翼の新しい理念に基づく新しい政治潮流を象徴する党であり、こうした党派が野党第一党に座る例は欧州でも初めてである。ここにはギリシャの意外な先進性がみてとれる。

とはいえ、グローバル資本主義は債務危機に直接責任のないギリシャ民衆の暮らしを犠牲にして、また生き延びることになる。奸智に長けた資本主義オデュッセウスはひとまず表面上勝利したわけだが、しかしこれで落着ではない。まさにオデュッセウスよろしく、長い苦難の旅が待ち受けるであろう。

筆者がギリシャ債務危機渦中の昨年9月にものした拙稿「がんばれギリシャ!」の主旨はいまだ有効である。

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消費税―現代の年貢としての

2012-06-16 | 時評

消費増税が与野党三党の合作で実現される。間違いなく、これは「生活第一」を掲げて政権を勝ち取った民主党最大の―「生活二の次」の―置き土産となるだろう。 

それにしても、消費税ほど歴史的に大きな意味変化が起きた税制も珍しい。かつて、それは高い消費能力を持つ富裕層を標的とするある種社会主義的な税制であった。しかし、大衆消費社会の到来により、現代の消費税は日々の消費行動によって資本に奉仕する大衆≒労働者を標的とする庶民税となった。

庶民税と言えば、かつての農業封建社会では年貢であった。年貢は周知のとおり、農業生産物を物納する税制である。農業封建社会は生産を軸とする―反面、消費は富裕層の特権となる―典型的な生産社会であるから、生産物に直接課税することは為政者にとり最も手っ取り早い収奪手段であった。

これに対し、現代の大衆消費社会では、消費に間接課税することが為政者にとり最も手っ取り早い収奪手段となる。そうすることで、毎年一定量の消費を続ける我々のサイフから“平等に”収奪することができるからである。しかも、生産物課税のように天候等の自然条件に大きく左右されることもなく、安定的に税収を確保できる。 

こうして法人税や社会保険料負担の軽減を望む経済界の要求に応じ、現代の年貢としての消費増税に与野党一体で突き進むのは、まさに資本主義国家の土台‐上部構造の作動そのものなのである。

しかし、増税に怒る必要はない。分析することである。そして、資本主義からの脱出を志向することである。

・・・といっても一挙に革命まで跳ぶ必要はない。さしあたり消費増税に対しては、消費抑制によって抵抗することである。さすがに、安定税収確保のため大衆に毎年一定量の消費を義務づけるほど体制も図々しくはない。だから、不要不急の消費を避け、生きるうえで必要不可欠の消費に限定することである。このような行動はそれ自体としても、「大量消費」を特質とする現存資本主義の構造から抜け出す初めの半歩となるだろう。

もっとも、折からの不安定雇用の増大や全般的な賃金抑制に伴う労働者大衆の収入減という状況下での二段階に及ぶ消費増税は、必然的に消費を抑制させ、不況に追い打ちをかけることになる。これも資本主義自らがツケを払うべき矛盾現象である。

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市町村自治を守れ

2012-06-15 | 時評

大阪維新の会が強く求めていた大阪都構想を実現する法案をめぐる与野党五党協議が大詰めを迎えている。この法案の内容は、「大阪都」に限らず、全国どこでも政令指定都市と周辺市町村区域を特別区に解体し、大規模広域自治体の「都」に吸収できる仕組みを備えた一般法である。

こうした「改革」の趣旨として、大都市と道府県の「二重行政」の解消が喧伝されている。たしかに「二重行政」は非効率であり、住民の利益を害することもある。

そうした弊害の解消方法として「都構想」が狙うのは、市町村を解体して「都」のような集権的大規模自治体へ併合してしまうことである。「地方自治」ならぬ「地方集権」。こうした「改革」の先には道州制の実現がある。

しかしながら、これは真の意味での地方自治とは異なる「改革」である。地方自治の基本は何よりも市町村自治にある。市町村は、生活に密着した生活関連行政を担う最前線のコミューンとして、重要な役割を担っている。基礎的自治体とも呼ばれるゆえんである。こうした市町村自治の重要性は、多くの市町村自治体を崩壊・離散させた3・11でも再確認されたところであった。

ただ、実際に「二重行政」といった問題を生じるのは、大阪市に代表されるような大都市を優遇し、道府県に準じた権限を与える政策を採ってきたためである。そうした大都市制度に加え、昭和と平成の大合併によって大規模市・町が中央主導で作出され、市町村自治自体が揺らいできたのである。 

こうして市町村自治を揺るがす政策によって作り出された「二重行政」の問題を解消する真の方法は、まさに市町村自治を回復することである。つまり、政令指定都市と一般市町村という差別化政策を廃したうえ、指定都市に相当する権限をすべての市町村に付与すること、そして都道府県の権限をこそ警察や道路・河川管理、災害救難のような消極行政に限定し、「小さな政府」とすることである。

道州制にしても、これに絶対に反対する必要はなく、「小さな政府」としての道州制ならば、市町村自治を脅かすことなく、「地方自治の本旨」(憲法92条)の枠内であろう。

逆に「大きな政府」としての道州制は、国家主義・ファシズムとも共振する集権的制度である。国家主義諸勢力や維新の会のようなネオ・ファシスト勢力も「大きな道州制」に熱心なことには相応の理由があるのだ。

地方自治は「民主主義の小学校」とも呼ばれる。ならば地方自治の根幹を成す市町村自治を守ることは、民主主義を守ることである。

[追記]
本年7月6日にまとまった五党による法案骨子では「都」の命名は認めないことになったが、名称のいかんを問わず、市町村自治を軽視する実質は変わらない。

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脱原発から脱資本へ

2012-06-09 | 時評

昨日の野田首相の大飯原発再稼動に関する国民向け会見は、3・11から一年を過ぎての事実上の脱・脱原発宣言と受け止めてよいだろう。 

その背景には、財界・電力業界・電力系労組、そして原発立地自治体への政治的配慮があるのであろうが、原発維持の施政方針自体は資本主義国家としては、ごくオーソドクスなものである。 

実際、GDP規模で圧倒的なトップの座を維持する資本主義総本山・米国でも、「社会主義市場経済」という名の資本主義路線を軌道に乗せ、GDPで日本を抜いて2位に躍進した中国でも、フクシマを教訓に脱原発に向かう気配はない。巨大生産活動のエネルギー源となる原子力への期待は不変である。

GDP3位に後退したとはいえ、依然5兆ドル台を維持する日本を含めたGDPトップスリーが推進する資本主義的生産体制は本質的に高エネルギー経済であるから、危険ではあっても効率的な原子力という発電手段を手放せないのだ。

しかも、原発立地はどこも原発を基軸とし、雇用も原発に依存するモノカルチャー的な地域経済が構築されているから―言わば原発植民地化!―、原発の停止・閉鎖は地域社会そのものの衰退・解体につながりかねない。事故が起これば真っ先に生活基盤そのものが―場合により生命もろとも―奪われる原発立地が原発維持を要望するゆえんである。

もっとも、ドイツという例外がある。ドイツはGDP規模で日本に次ぐ第4位につけるまぎれもない欧州随一の資本主義国であるが、この国では、よく知られているように、環境政党・緑の党の勢力が強力で、フクシマの後にはついに原発立地のバーデン=ヴュルテンベルク州議会選挙で与党第一党に躍進し、州首相を出すに至った。そうした内圧の中で、本来は原発維持を求める財界に近い保守系メルケル政権も脱原発に踏み切らざるを得なかったのだ。

元来、ドイツにおける脱原発はフクシマ以前から財界を含めた社会的合意となっており、ただそれを先延ばしにするか早めるかだけが争点であるにすぎなかった。ドイツでは「原発抜きの資本主義」も十分可能だと考えられているようだ。

これを見ると、量より質を追求するのがドイツ流資本主義だと言えそうである。それは、すでに資本主義の原理を半歩抜け出そうとする小さな芽と評価することはできよう。

そうはいっても、ドイツの脱原発はこれまでのところ、専ら緑の党を推進力とする「政治的エコロジー」という上部構造レベルで推進されてきたのであって、土台たる資本主義的生産様式そのものを見直すというレベルには達していない。

であればこそ、フクシマの直前にはメルケル政権も原発の運転延長を要望する財界に配慮して、脱原発の時期を先延ばしにし、事実上の原発維持に舵を切ろうとしていたのだ。その算段が、フクシマのために狂ってしまったというのが実情である。このように脱原発が政治的なものの圏域で取引されているからには、改めて2022年に設定されたドイツの脱原発日程が将来、再び先延ばしにされる可能性も残されていることになり、予断は許さない。

要するに、単に政治決定されただけの「原発抜きの資本主義」は、土台と上部構造と間の齟齬をきたす恐れがあるということだ。

原子力という発電手段は典型的に20世紀的なもの≒資本主義的なものであったが、原子力に代替する再生可能エネルギーはある意味で「原始的」なものであって、過去への「復帰」という要素を持つ。もちろん、再生可能エネルギー発電に投入される技術は現代的なものであるから、この「復帰」は決して過去への反動的回帰ではなく、言わばポストモダンな「進歩」でもある。そうした文明的な観点からしても、「原発抜きの資本主義」は安定的に持続可能であるとは言えない。

脱原発を後戻りできない形で推進し、全地球規模で現実のものとするためには―放射性物質に国境はないから、「一国脱原発」では意味がない―、資本主義的生産様式そのものからの脱却を目指す遠大な構想を持つ必要がある。その意味で、「脱原発から脱資本へ」なのである。

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防衛大臣の条件(再掲)

2012-06-05 | 時評

6月4日の野田内閣改造で、防衛大臣に史上初めて国会外から、幹部自衛官出身で改憲論者の大学教授・森本敏氏が任命された。しかし森本氏は、その経歴、地位、思想どれをとっても、参院で問責決議を受けた田中直紀前大臣に代わり得る防衛大臣適格者であるとは考えられない。それどころか、同氏は史上最も危険な防衛大臣となるかもしれない。その意味で、筆者が田中前大臣への参院問責決議に寄せて4月に記した拙稿「防衛大臣の条件」で述べたことが今般の人事ではよりいっそう妥当すると考えるので、ブログの常識を破ってあえて過去記事を以下に再掲させていただく。

 ・・・・・以下、再掲・・・・・

昨日、参議院で二閣僚に対する問責決議が可決された。決議に拘束力はないとはいえ、田中直紀防衛大臣については決議を受け、辞任すべきであろう。どう見ても、見識・資質ともに防衛大臣の任に堪えないことは明らかだからである。

それにしても、日本の防衛大臣ほどその条件の適否の見極めが困難な閣僚職もないだろう。それほど、この職は複雑な性格を持つからである。

まず、防衛大臣は自衛隊に対する文民統制の要である。このことはよく知られているが、その具体的な意味はあまり究明されていない。

「文民」といっても、憲法9条で軍の保有を放棄している日本の自衛隊は軍ではないのだから、現行憲法下の日本には厳密な意味での「軍人」は一人も存在しない。制服組自衛官といえども、法的には「軍人」ではない。といって、かれらは「文民」でもない。

すると、「文民」とは何だろうか。まず、現職自衛官でないことは形式的条件である。だが、それだけでは足りない。自衛隊に対する民主的な統制を貫徹するには国会の関与が不可欠であり、中でも国会の中核である衆議院の議員から防衛大臣が任命されるべきである。

しかし、それだけでもまだ足りない。憲法9条と窮屈な同居を続ける国家武力たる自衛隊を憲法の平和主義の理念に沿って統制する能力を備えていることが、防衛大臣の実質的な条件となる。

この点、田中氏に対する野党の批判が専ら安全保障問題に関する知識の欠如に向けられていたのは間違いではないにせよ、不十分である。防衛大臣が安全保障問題に関する知識を欠いていれば、部下である制服組自衛官を適切に統制できないことはたしかであるが、大臣がただ単に安全保障問題のエキスパートであればよいというものでもない。

防衛大臣が安全保障問題に精通はしているが、制服組も顔負けなほどタカ派的で、かえって制服組を煽ってしまうような人物であれば、それは憲法9条の下での防衛大臣としてはやはり不適格である。

かといって、自衛隊そのものを憲法9条違反とみなす絶対的平和主義者では制服組との間に信頼関係を築くことができず、自衛隊の存在という現実の中で文民統制の役割を全うすることは難しい。

そうすると、防衛大臣にふさわしいのは、安全保障問題について十分な見識を備えつつ、憲法9条の下での自衛隊の役割に理解を持ち、憲法の理念に沿った統制能力を持つ衆議院議員ということになろう。

さて、そんな人物を見出すことはできるであろうか。

[追記]
一つ付け加えるとすれば、森本防衛大臣のように過去に制服組自衛官(三等空佐:空軍少佐相当)の経歴を持つ者が「文民」に該当するかという問題がある。政府見解は該当するという立場であるが、無条件にそう言い切れるか疑問である。将官や将官候補の幹部自衛官の経歴を持つ者は現在大学教授のような文民職に就いているとしても、自衛隊の「一家」であり、当然に「文民」とみなすことはできないであろう。そう考えるならば、今般の人事は憲法違反の疑いすらあることになる。

注 幹部自衛官出身者が防衛担当閣僚に就任するのは、自民党・第一次小泉内閣当時の防衛庁長官・中谷元氏(元二等陸尉:陸軍中尉相当)が初例であるが、同氏は衆議院議員ではあったこと、また防衛庁が省に昇格する前であった点に、今般人事との違いがある。

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