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近代革命の社会力学(連載第216回)

2021-03-31 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(2)日本軍政と民族主義の解放
 20世紀初頭に覚醒するオランダ領東インド(インドネシア)における民族主義運動は、当初イスラーム系のサレカット・イスラム(イスラム同盟、以下「同盟」)が圧倒的な先導者であった。これは、インドネシアがオランダの植民地に下る以前から、おおむねイスラーム化されていたことからして、自然な流れであった。
 発足時は穏健な協調主義的団体であった同盟は第一次世界大戦後に浮上してきた民族自決テーゼにも影響されて急進化したが、その直接の契機となったのが、党内分派として派生した共産党であった。
 イスラーム団体から通常は対立的な共産党が派生するという力学も珍しいことであるが、これにはオランダ人の共産主義活動家ヘンドリクス・スネーフリートによる組織工作も関わっていた。彼は、当時のインドネシアで最も活動的な団体であった同盟を利用する形で、インドネシアにおける共産主義運動の火付け役となったのである。
 しかし、このような民族主義の急進化、まして共産化となると、オランダ当局の容認できるところではなかった。そのため、1920年代に弾圧を強化し、団体、共産党ともに閉塞状況に追い込むことに成功した。
 そうした中、1927年、オランダ留学組エリート層の中から新たな民族主義の潮流が起きる。その中心にあったのがジャワ島下級貴族出身のスカルノであり、彼は1927年、同志とともにインドネシア国民党(以下、国民党)を結党した。
 国民党はインドネシアにおける最初の近代的な国民政党とも言える草分けであり、活動形態は政治集会を通じた穏健なものであったが、公然インドネシアの独立を訴えたことから、オランダ当局を刺激し、スカルノはたびたび逮捕・投獄を強いられた。結局、1931年、国民党も自主解散の形で消滅に追い込まれた。
 こうしてインドネシアにおける民族主義運動はオランダ当局の強硬な抑圧策によって、1930年までに沈黙させられた。その状況が一変するのが、1942年に始まる日本の統治下である。
 統治といっても、軍による占領統治の域を出ず、本格的な植民地支配は確立されていなかったため、日本としては統治の安定確保のためにも在地の協力者を必要とした。こうして、スカルノをはじめとする民族主義者が解放され、活動を許されることとなった。
 その結果、スカルノらは民族総結集運動を組織し、日本の支援の下に、オランダも属する連合国軍と対決する道を選択した。他方で、日本軍は現地人による民兵組織として共同防衛義勇軍(ペタ)を設立させ、軍政の言わば下支えを託したのである。後にスカルノを失権させて第二代大統領となるスハルトも、ペタの一員であった。
 もっとも、日本軍の狙いはあくまでも当面の軍政を安定させることにあり、究極的には当時の日本支配層が描いた日本中心の新たな地政学構想である「大東亜共栄圏」の中に東南アジア全域を組み入れる野望を秘めていたことは否めず、純粋に民族独立を目指すスカルノらとは言わば同床異夢の協働関係にあった。
 従って、少なくとも日本軍政初期の段階では、日本がインドネシアの独立を容認することはなかったが、スカルノら民族主義者を利用した限りでは、オランダ当局によって長く抑圧されていた民族主義を刺激し、解放したことはたしかであり、民兵組織の結成と合わせ、それらが結果として来る独立革命への道を準備したのである。

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近代革命の社会力学(連載第215回)

2021-03-29 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(1)概観
 第二次世界大戦で連合国側に与した諸国と枢軸国側の日本との攻防戦が展開された東南アジアでは、大なり小なり、日本軍の侵出という言わば横槍が連合国側列強諸国の各植民地において独立運動を刺激する触媒の役割を果たしたと言える。ただ、その発現の仕方は、大戦の戦況とも絡み、植民地ごとに異なる。
 ベトナムの独立運動は元来の宗主国であるフランスとともに、新たに進攻してきた日本に対しても向けられ、抗仏=抗日運動として発現し、最終的には日本の敗戦を契機として独立革命に進展したことは、すでに見た。
 ベトナムとは正反対に、一貫して日本軍による支援と協働の下に独立運動が展開され、最終的に独立革命に至ったのが、インドネシアであった。
 インドネシアは大航海時代以来、オランダのアジア侵出の拠点として植民地化されており、東南アジアでも最も強固に植民地支配が確立されていた場所であった。インドネシアにおける民族主義の目覚めは20世紀初頭から見られたが、オランダ当局は強権をもってこれを弾圧したため、独立運動は閉塞していた。
 この状況を大きく変えたのが、オランダが日本に対し宣戦布告した後、1942年の日本軍によるインドネシア侵攻であった。この侵攻作戦は短期決戦をもって成功し、オランダ軍が全面降伏したため、これ以後、インドネシアは日本の支配下に移行した。
 日本はインドネシアを東南アジア支配の拠点とするべく、それまで抑圧されていた民族主義を積極的に解放・刺激することで、親日派人材を養成するという策を採った。その結果として、日本軍政下の民兵組織として郷土防衛義勇軍(略称ペタ)が誕生し、この集団から独立革命の担い手の多くが育っていくことになる。
 日本は当初、軍政を敷いていたが、戦局の悪化に伴い、インドネシア独立を容認する方向に舵を切り、後に初代大統領となるスカルノら有力な民族主義者らに独立準備委員会を組織させるも、日本の無条件降伏によって頓挫、植民地奪回を狙うオランダとの間で独立戦争に発展する。
 こうした流れはベトナムとも重なるが、ベトナムではフランスとの間で1954年にまで至る長期戦となったのに対し、インドネシアでは一足早い1949年末には停戦となり、独立が成った。
 その間、戦争と並行して、オランダ支配下で築かれた社会経済構造の転換が急進的に行われたことから、インドネシア独立革命は独立そのものより、独立戦争を通じた社会革命としての性格が強かったとも言える。
 同時に、独立戦争を通じて一等先に連合国側植民地からの独立を果たしたインドネシアは、アジア・アフリカの同様の植民地にも精神的な影響を及ぼし、スカルノはそうした独立運動の象徴的な存在として、後に第三世界運動の指導者の一人ともなった。
 ちなみに、大戦当時は英領インドに編入される形で英国植民地となっていたビルマ(現ミャンマー)では、当初こそ日本軍の協力下で反英独立運動が展開され、一度は日本軍のビルマ攻略にも協力したが、間もなく抗日運動に転化、最終的には連合国側と協力し、英国との交渉により独立を達成している。

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比較:影の警察国家(連載第35回)

2021-03-28 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐4:鉄道警察

 英国鉄道警察(British Transport Police:BTP)は、イングランド、ウェールズ、スコットランドを管轄区域として活動する鉄道専門の警察組織である。ただし、北アイルランドについては、北アイルランド警察(PSNI)が鉄道警察を兼ね、BTPはPSNIとの相互協力協定によってのみ活動できる。
 BTPの警察官は列車内や駅を含めた鉄道施設内である限り、警察官としての完全な権限を有するとされており、まさしく鉄道に特化された特別警察の一つである。
 その権限は「テロの戦い」テーゼに刺激されて拡大傾向にあり、地方警察を含む他の警察機関からの要請がある場合のほか、緊急的な状況では、独自の判断によって鉄道施設外で必要な実力行使ができることになっており、鉄道警察プラスアルファの存在となりつつある。
 実際、BTPも多くの主要な警察機関と同様に、即応班や緊急介入班などの特殊部門を持つほか、2012年以降は、一般警察と同等レベルに武装力を強化し、射手の配置を行うことで、武装化が進行している。
 その最大の契機となったのは、イギリスにおける9.11事件とも言うべき2005年のロンドン連続爆弾テロ事件であった。この時爆破された4か所のうち3か所がBTPの管轄下にあるロンドン市営地下鉄駅であり、BTPが初動で大きな役割を果たした。
 とはいえ、BTPは法的に運輸大臣の管轄下にありながら、その財政は鉄道会社の資金によって支えられており、政府の公金は投入されていない。これは、BTPが沿革的に、鉄道会社固有の警察部門から発展したことによる。
 もっとも、イギリスの鉄道網は1948年から97年まで国有化されていたが、その後民営化されても鉄道警察は一般警察に統合されることなく、存続した。その点では、国鉄の分割民営化に伴い、国鉄固有の警察組織であった鉄道公安室が廃され、一般警察の鉄道警察隊に統合された日本とは異なる経緯を辿った。
 対照的に、BTPは、後で述べる英(米)に特有の部分社会警察としての性格を持っていると言える。そうした点からも、いまだ私設警察の性格を脱していないBTPが鉄道警備の任務を超えて、一般警察と同等レベルの能力を備えた本格的な警察機関に発展することには、危うさも認められる。


注:transportは本来、航空や航海を広く含む「運輸」の意味であるが、BTPはその名称にもかかわらず、鉄道関係に限局された警察機関であるので、訳語としては「鉄道警察」とした。

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近代革命の社会力学(連載第214回)

2021-03-26 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(5)ラオス独立革命との交差
 ベトナムの独立革命(八月革命)は、同じインドシナ半島内のラオスやカンボジアには直接の波及的な影響を及ぼすことがなかったのであるが、ラオスに関しては、失敗に終わったとはいえ、交差的な独立革命の動きが見られた。
 明号作戦でインドシナ半島を一度は単独で占領した日本軍は、ラオスについても、フランスから引き剥がす形で、フランス支配下で形骸化していたルアンパバーン王国のシーサワーンウォン国王を擁立してラオス王国を建てたが、日本の敗戦後、国王は独立を取り消し、フランス宗主下への復帰を望んだ。
 こうしてラオスではいったんはベトナムと正反対の力学が働いたことになるが、これに反発した王族ペサラートは、異母弟スパーヌウォンらとともにラーオ・イサラ(自由ラーオ)を結成し、1945年10月、国王廃位とペサラートを首班とする臨時抗戦政府の樹立を宣言した。
 ただ、ラーオ・イサラは様々な民族主義者の集合体であり、ベトミンにおける共産党のように核となる勢力がなかったうえ、民衆の支持も希薄であった。当然、武力も弱体で、当初はベトミンのほか、建国革命前の中国共産党軍の一部によって支援されることで、維持されていた。
 しかし、46年に中国共産党軍が撤退すると、ラーオ・イサラ体制は一挙に弱体化する。同年4月にはフランス軍の攻勢により、首都ビエンチャンが陥落したのを契機に、ラーオ・イサラ体制はあえなく崩壊、同年10月には組織も解散となった。
 ただし、副産物として、スパーヌウォンは、インドシナ共産党のメンバーでもあったカイソーン・ポムウィハーンとともに、改めてネーオ・ラーオ・イサラ(ラオス自由戦線)を結成し、反仏闘争に入った。
 一方、フランスは改めてシーサワーンウォン国王を擁立してフランス連合内の「協同国」名目でラオス王国の再建を認めたが、この新生ラオス王国はフランスに外交・防衛を委託する保護国に近い形で存続していく。
 これに対し、ネーオ・ラーオ・イサラは武装部門としてパテート・ラーオ(ラオス人民解放軍)を創設してラオス北部で闘争を続けるとともに、ラオスにも飛び火した第一次インドシナ戦争でもベトミン側と共闘した。
 ネーオ・ラーオ・イサラは1953年までにベトミンと連携してラオス北西部の実効支配の確立に成功したが、54年のジュネーブ協定で第一次インドシナ戦争が停戦となると、ラオス情勢も変化し、ネーオ・ラーオ・イサラもネーオ・ラーオ・ハク・サット(ラオス愛国戦線)と改称したうえ、王国政府と連合することとなった。
 55年にはインドシナ共産党から分岐する形でラオスにおける他名称共産党であるラオス人民党(後に人民革命党)が結党され、カイソーンが初代書記長に就任した。
 しかし、その後、連合体制の崩壊に伴い、カイソーンは、王族ながら共産主義者と行動を共にしたことから「赤い殿下」の異名を取るスパーヌウォンらとともに革命闘争に入り、以後、70年代半ばの社会主義革命までラオスは内乱状態となる。

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近代革命の社会力学(連載第213回)

2021-03-24 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(4)第一次インドシナ戦争から分断国家へ
 八月革命は円滑に成功したとはいえ、新生ベトナム民主共和国(以下、単に「民主共和国」)は順調に滑り出すことはできなかった。敗戦した日本軍が撤退した後、入れ替わりで、勝利した連合国軍が進駐してきたからである。連合国軍の一方的な決定により、北緯16度線を境に、北部に中国の国民党軍、南部に英軍が展開する分割占領となった。
 ことに北部では反共の国民党軍がベトミンの反乱を恐れ、大々的なべトミン狩りを展開したため、民主共和国の存立自体が危うくなった。ホーが共産党の解党を取り急いだ背景には、こうした新たな危機的情勢に対応し、連合政権を死守するという狙いもあった。
 一方、戦後のヴィシー政権崩壊後、反ナチスのレジスタンス指導者ド・ゴール率いるフランス臨時政府はインドシナ半島権益を奪回するべく、民主共和国と時間稼ぎ的な交渉を続けていたが、既成事実として、フランス人プランテーション入植者が多い南部にコーシチナ共和国なる傀儡国家を樹立した。
 このようなフランスの態度は交渉の障害となり、1945年9月にはフランスのフォンテーヌブローでの交渉が決裂、翌1月にはド・ゴールが政府主席を辞任するに至り、戦争は回避できない情勢となった。果たして、同年12月、フランス軍による攻撃をもって戦争が開始される。
 こうして延々と1954年の休戦まで継続されるのが通称第一次インドシナ戦争であるが、その実態は第一次ベトナム戦争であった。革命という観点からみれば、この戦争の本質は革命防衛戦争であり、同時に、植民地奪回を狙う旧宗主国フランスに対するレジスタンスでもあった。
 レジスタンスという限りでは、日本軍支配下にあった第二次大戦中はほぼ休眠状態だったベトミンによる遅れてきたレジスタンスの観もあった。実際、装備で劣勢なベトミンは主として農村地帯に拠点を置いてゲリラ戦を展開したのであるが、これは農村の政治的・軍事的組織化というメリットも伴っていた。
 もっとも、1950年、前年に内戦に勝利した中国共産党が建国した中華人民共和国及びソ連が民主共和国を承認し、軍事援助も開始したことで、べトミン軍の装備が更新され、戦闘能力が強化された。これは以後、べトミンが大攻勢に出ることを可能にした重要な転機である。
 また政治的な面での新たな動向として、51年、解党した共産党の後継としてベトナム労働党が結党され、改めて民主共和国の中核政党となった。労働党は実質上共産党の復刻版と言えるもので(他名称共産党)、共産党の名辞は回避しつつ、戦争が長期化する中で民主共和国の権力機構を強化する狙いもあった。
 軍事的にも政治的にも力を増強した民主共和国に対し、フランスは次第に追い詰められていき、戦争は最終段階を迎える。53年11月、フランス軍はベトナム北西部のラオス国境の町ディエンビエンフーを占領する作戦を開始、翌3月から本格的な戦闘となるが、ベトナム側の巧妙な塹壕戦に対抗できず、5月に敗北、これがインドシナ戦争の終結を決定づけた。
 54年7月にはジュネーブで休戦協定が締結されるが、その合意内容として、北緯17度線を境に、北部を民主共和国が、南部を49年に前出コーシチナ共和国を再編した親仏のベトナム国が統治するという妥協が成立したため、ドイツ、朝鮮半島に続き、戦後三つ目の分断国家が出現することとなった。
 こうして通称北ベトナムとして再出発した民主共和国では、形式上連合体制が維持されながらも、復活した他名称共産党としての労働党を中心とする社会主義体制が強化され、農業集団化などソ連を範とする社会主義の建設が推進されていく。
 ただ、終戦後の1954年から56年にかけ、毛沢東主義に傾斜したチュオン・チンが中国共産党の支援を受けて展開した地主からの土地の強制収用を主とする急進的な土地革命は大量処刑を伴う政治的抑圧となったうえに、享受者たる農民層の反発も受け、失敗に終わり、政府は謝罪と修正に追い込まれた。こうした修正主義的な柔軟さは、ベトナム社会主義の特徴となる。
 ホーは党と国家の主席を兼任し、引き続き最高指導者として率いたが、ベトナム再統一の方法をめぐり、武力統一を主張するレ・ズアンと対立、完全に失権はしないまでも党内の実権はレ・ズアンに移ることになり、ホーは外交を主とする精神的な指導者の立場に後退した。結果として、ホーは終身間最高権力にとどまりながら、独裁化することはなかった稀有の指導者となった。

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近代革命の社会力学(連載第212回)

2021-03-22 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(3)独立同盟の結成と八月革命の成功
 ゲティン・ソヴィエトの崩壊後、ベトナム革命運動の振り子は再び独立の方に振れる。これはゲティン・ソヴィエトの後、ホー・チ・ミンのライバルであったチャン・フーら共産党コミンテルン派がフランス当局による処刑・弾圧により壊滅状態となったことに加え、コミンテルン自身も反ファシズム人民戦線の結成を支援する方針に転換したためでもあった。
 国際情勢の面でも、1939年の第二次世界大戦の勃発に続き、40年にはナチスドイツによるフランス侵攻・占領により、フランスにナチス傀儡のヴィシー政府が成立し、ベトナムを含むフランス領インドシナもヴィシー政権の支配下に編入された。これにより、インドシナも枢軸勢力側に組み込まれた形になる。
 同時に、同じ枢軸側の日本がヴィシー政府とのもつれた交渉の末、1940年にはインドシナ北部、翌41年には南部に進攻し、最終的にはヴィシー政府との間で(日本側優位の)共同統治体制の構築に成功した。
 こうした情勢変化を受け、ホーは1941年、実に30年ぶりにベトナムに帰国し、東北部のカオバン省にて、新たな独立運動組織となる「ベトナム独立同盟会」(ベトミン)を結成した。この組織はベトナム版人民戦線組織とも言えるものであったが、にわか作りのうえ、長く外国にあったホーの指導力も確立されておらず、実効的なレジスタンス活動は困難であった。
 そこで、共産主義者のホーは意外にも中国国民党に軍事面での支援を求め、訪中したが、ホーを危険視した国民党はホーを逮捕し、一年余りも拘束した。ホーは最終的に国民党と合作中の中国共産党の仲介で釈放、1944年に帰国を果たすも、結局、レジスタンス組織としてのベトミンの活動は、枢軸側、中でも日本の敗北が事実上決するまで休眠状態にあった。
 一方、日本は1945年3月、ヴィシー政権の崩壊を受けて、インドシナを武力制圧するクーデター的軍事作戦(明号作戦)を展開、フランスを排除して、それまでフランスの傀儡として形式的に君臨していた阮朝のバオ・ダイ帝を擁立し、改めてベトナム帝国を建てた。
 そうした中、革命的決起のチャンスは、1945年8月に到来する。同月13日、日本の無条件降伏近しの情報を得たホーは総蜂起の秘密指令を下した。果たして15日に日本が無条件降伏を宣言すると、ベトミンは17日からハノイで蜂起を開始、19日までに主要機関を制圧した。
 これに続き、月末にかけてフエ、サイゴンなどの主要都市もベトミンが制圧、26日にはホーがハノイ入りした。バオ・ダイ帝は統治を続ける意思がないばかりか、独立運動家としてのホーを評価し、進んで退位したことにより、19世紀以来の阮朝は終焉し、9月2日にはベトナム民主共和国の樹立が宣言された。
 こうして、1945年8月におけるごく短時日のタイムラインで示すことができることから「八月革命」とも呼ばれるベトナムの独立‐共和革命は日仏両枢軸勢力敗戦直後の空隙を巧みに突いて実行されたもので、枢軸勢力の敗戦同種の革命としては異例なほど円滑に成功を収めたのであった。
 新たに成立したベトナム民主共和国は国家主席に就任したホーを中心とする連合体制であり、社会主義を掲げながらも、共産党支配ではなく、むしろ45年11月にはあえて共産党を解党し、ベトミンに合流させるという徹底した連合政策を採った。こうしたことから、ベトナム八月革命は社会主義革命というより、進歩派の連合による人民民主主義革命の性格を持つと言える。
 共産党解党策は革命政権内部の抗争から内戦に陥るというロシア革命で典型的に見られた流れを阻止する上では有効であり、八月革命は内戦を惹起することがなかった点でも成功した革命であったが、戦後、インドシナ半島権益の奪回を狙うフランスとの間で交渉が難航、対仏全面戦争に至り、事後的な革命防衛戦争を阻止することはできなかった。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第9回)

2021-03-21 | 南アフリカ憲法照覧

教育

第29条

1 何人も、次の権利を有する。

(a) 成人基礎教育を含む基礎教育を受けること。

(b) 継続教育を受けること。国は、合理的な手段を通じて、それを漸次利用可能かつアクセス可能なものとしなければならない。

2 何人も、適度に実用的な教育が行なわれる公的教育機関において、公用語または自身が選択する言語で教育を受ける権利を有する。この権利への実効的なアクセス及びその実施を確保するため、国は次の点を考慮に入れつつ、単独の中学校を含むあらゆる合理的な代替教育について検討しなければならない。

(a) 公平性

(b) 実用性

(c) 過去の人種差別的な法及び慣習の結果を是正する必要性

3 何人も、自身の費用で、以下のような私立の教育機関を設立し、維持する権利を有する。

(a) 人種に基づく差別をしないこと。

(b) 国に登録されること。

(c) 同等の公的教育機関の水準に劣らない水準を維持すること。

4 第3項の規定は、私立学校への国の補助金を排除するものではない。

 子どもの権利に続いて、教育を受ける権利の保障に厚いことも、南ア憲法の特色である。これもアフリカの社会発展上の課題が教育にあることを反映している。特に、アパルトヘイト時代、黒人の教育を受ける権利が制度的に侵害されていたことへの反省が規定にも込められている。もっとも、本条の内容は先進国にもほぼ妥当するもので、ことに第1項b号で継続教育を受ける権利を保障していることは先進的である。

言語及び文化

第30条

何人も、言語を使用し、自身の選択による文化生活に参加する権利を有する。ただし、この権利を行使する者は、この権利章典のいずれかの条項に矛盾する方法では行使しないものとする。

 多言語・多文化主義は第一章の創立条項でも明記された南ア憲法の柱の一つであり、国が政策的に推進することが責務とされているが、本条はそれを個人の権利の観点から改めて示したものと言える。ただし、権利章典すなわち憲法第二章の条項と矛盾する権利行使は認められない。具体的には、人種差別的・排他的な形態での権利行使が想定されているであろう。

文化的、宗教的及び言語的共同体

第31条

1 一つの文化的、宗教的または言語的共同体に属する者は、当該共同体の他の構成員とともに、次の権利を否定されない。

(a) その文化を享受し、その宗教を実践し、その言語を使用すること。

(b) 文化的、宗教的及び言語的団体及びその他の市民社会を形成し、参加し、維持すること。

2 第1項の権利は、この権利章典のいずれかの条項と矛盾する方法では行使されないものとする。

 前条に続く本条は、多言語・多文化主義の集団的な保障条項である。権利行使に当たっては、同様の条件が付せられている。

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札幌地裁の革新性

2021-03-20 | 時評

1973年、札幌地方裁判所で国を狼狽させる一つの判決が下された。航空自衛隊基地の建設に反対する長沼町民が国を提訴し、自衛隊の憲法適合性が主要な争点となったいわゆる長沼事件で、地裁は「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」と断じたのである。

自衛隊発足当初ならともかく、当時、すでに発足から20年近い時を経ており、自衛隊は「定着」しているはずだったところへ突然の違憲判決であるから、国にとっては青天の霹靂だった。

それから48年の時を経て、2021年3月、同じ札幌地裁で、また国を慌てさせる大胆な判決が下された。今度は、婚姻を異性間に限定する民法の規定の憲法適合性が争点となった事件で、「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と断ずる判決が下された。

異性間婚姻は家族の根幹に関わる制度と認識され、保守政権にとっては譲ることのできない合憲的制度のはずであるから、今般の判決も霹靂であったろう。一個の下級審判決にもかかわらず、わざわざ自民党政務調査会長が「社会の混乱につながる」などと声明で批判したほどである。

ところで、冒頭の長沼判決は、国側によって直ちに控訴され、札幌高等裁判所は、一転して原告の請求を棄却しつつ、「高度に政治性のある国家行為は、極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法審査の範囲外にある」とする統治行為の理論を持ち出し、憲法審査を回避してしまった。最高裁判所も二審判決を支持しつつ、憲法問題には一切触れず結審した。

こうして一審札幌地裁の大胆な違憲判決は宙に浮いたまま、一介の下級審判決として忘れ去られることになった。それだけでは終わらず、一審の裁判長を務めた福島重雄判事はその後、一度も裁判長となることなく、地裁や家裁を転々とさせられた挙句、退官した。人事の性質上、明確な証拠はないが、自衛隊違憲判決も一つの理由とする左遷人事と見られる。

時を経て同じ札幌地裁で下された二つの判決は扱う問題も時代も異なるが、共に論争の的となる革新的な内容を持つ判決という点では共通性を持つ。ただし、原告住民の請求を認めたため、国側が控訴した長沼判決とは異なり、今回の同性婚判決では原告の国家賠償請求自体は棄却したため、原告側が控訴する形で高裁に持ち込まれる可能性がある。

その後の展開は予測がつかないが、地裁の革新的な判決を上級の高裁・最高裁が保守政権寄りの立場をとって覆してしまうことは日本ではよく見られることである。今回も同じ轍を踏むのだろうか。さらに、今般の判決に関わった武部知子裁判長の今後の処遇は?

「自由」と「民主」という二つの理念を党名に冠する党―欧州の文脈なら、それは中道リベラル政党と認識される―が1973年当時も、2021年現在も政権の座にある国で、そのようなことを懸念しなければならないのは、海外から見れば不可解と映ることだろう。

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近代革命の社会力学(連載第211回)

2021-03-18 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(2)独立運動と共産主義運動の交錯
 長くフランス植民支配下にあったベトナムでは、民族独立運動が最初の急進的な動向となる。当初は断片的かつ散発的だった独立運動が統一的に組織化されたのは、ホー・チ・ミンらが1925年に結成した青年革命同志会が最初である。
 同志会は種々のナショナリストの集合体であったため、間もなく分裂するが、その中でホーらの共産主義派が有力化する。儒者官僚の中流家庭出自のホーはフランス留学を通じ、早くから共産主義主義思想に覚醒するが、主要な関心は民族独立にあった。
 ホーは独立運動の組織化に加え、ベトナムにおける共産主義運動の統一も図り、香港でベトナム共産党を結党するが、これは当時、国際共産主義運動の司令塔となっていたソ連が動かすコミンテルンの承認なしの独自行動だったこともあり、チャン・フーらのコミンテルン派によってインドシナ共産党に党名変更を強いられたうえ、ホーは党指導部からも外されることとなった。
 このような対立状況の背景には、ホーのような民族独立を優先する独立派と共産主義の教条を重視する教条派の路線対立が控えていた。こうした独立運動と共産主義運動の複雑な交錯関係は、当時植民地支配下にあった諸地域の多くで生じていた対立の一環でもあった。
 そうした状況下で、1930年、当時ベトナムでも貧困地域であった北西部のゲアンとハティンの二つの省(総称してゲティン)で、農民を中心とした民衆蜂起が発生した。
 この蜂起の要因は複雑であるが、元からの構造的な貧困状況が、当時ベトナムにも米価暴落をもたらした大恐慌を契機として、フランス植民地当局やその下請けである現地官僚への不満に点火して爆発したと考えられる。
 この蜂起は都市部にも飛び火し、30年5月以降、労働者や知識人も加わった大規模なゼネストに発展、100近いストライキが同時多発した。そうした革命的ゼネスト状況の中、ゲティン地方の統治機構は麻痺し、代わってソヴィエトが出現、農地再配分や米の配給、識字教育などの革新的な政策が実行された。
 このゲティン・ソヴィエトの背後には結党されたばかりのインドシナ共産党があったが、ホーら民族独立派は排除されたままで、組織は十分に確立されておらず、ソヴィエトを指導するだけの力量も、また植民地当局に対抗するレジスタンスとしての武力も持ち合わせていなかった。
 ゲティン革命は、ホーが指導した来たる1945年の独立‐共和革命から遡れば、予行革命と言うべき地方的な革命ではあったが、ちょうど同時期に並行した中国共産党の中華ソヴィエトとは異なり、持続性を担保する条件が欠けていた。
 そのため、ゲティン・ソヴィエトは飢饉にも直面する中、1931年から軍事的な攻勢に出たフランス植民地軍の攻撃により、あえなく崩壊、インドシナ共産党初代書記長チャン・フーも当局に拘束された後、27歳で拷問死を遂げた。
 チャン・フーが存命していれば、共産主義運動内で引き続きホーの最大のライバルとなり得ただけに、ホーにとっては、ゲティン・ソヴィエトの挫折とチャン・フーの夭折という悲劇は新たな巻き返しのチャンスとなったことも否定できない。

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近代革命の社会力学(連載第210回)

2021-03-15 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(1)概観
 バルカン半島と並び、第二次世界大戦における枢軸国勢力に対するレジスタンスがそのまま革命に結実したもう一つの例として、ベトナムがある。ベトナムを含むインドシナ半島は19世紀末にフランスの領土となっていた(フランス領インドシナ)。
 そうした中、20世紀初頭から反仏独立運動が活発化し、当初はナショナリズトを中心に、武装蜂起を繰り返すも、成功しなかった。その点、1930年から31年にかけて、中北部の二つの省で急進的な農民を主体に、労働者や知識人も参加して蜂起したゲティン・ソヴィエトは地方的ではあるが、最初の革命的なうねりであった。
 このゲティン・ソヴィエトの背景には、当時インドシナでも台頭してきた共産主義運動があったが、この時期のインドシナにおける共産主義運動はいまだ形成期にあり、統一された共産党組織は確立されていなかった。そうしたこともあり、ゲティン・ソヴィエトはフランス植民地政府に対抗できず、わずか数か月で崩壊するに至った。
 その後、独立運動はフランス当局の弾圧により閉塞し、次に機会が訪れるのは、ナチス・ドイツのフランス侵攻・占領に伴い、フランス植民地支配の力が後退した時点であった。この空隙を利用して、当時破竹の勢いだった日本軍がフランス領インドシナに進攻してきた。
 そうした中、1930年、後に国家主席となるホー・チ・ミンが主導して香港で結党されたベトナム共産党が、新たな独立革命の主体として台頭する。ホー・チ・ミンは1941年、新たなレジスタンス組織・ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、中越国境山中に根拠地を置きつつ、山岳ゲリラ戦で日仏両軍に抵抗した。
 もっとも、ベトミン単独で日仏両軍を排撃することは困難であり、ベトミンが勝利するには、ナチス傀儡のフランス政府(ヴィシー政府)及び日本の双方が相次いで降伏し、体制崩壊するのを待たなければならなかった。
 ベトミンによる革命は、日本の降伏が迫った1945年8月13日のホーチミンによる指令に発し、同年9月2日のベトナム民主共和国の樹立をもって完了した。この革命は、日仏両国からの独立とともに、共和制移行の一挙両得的な独立‐共和革命であった。
 もっとも、革命後、インドシナ半島の権益復活を狙うフランスとの間で独立交渉が難航し、1946年以降、ベトミンとフランスの間で、1954年に至るまで、インドシナ戦争(第一次)が戦われることになった。
 1954年の休戦協定の結果、ベトナムはベトミン系の北ベトナムと親仏・親米の南ベトナムとに分断され、再統一はアメリカとの戦争(第二次インドシナ戦争)を経て、北ベトナムに支援された南ベトナム革命勢力がアメリカに勝利し、南ベトナムを解放した1975年を待つことになる。
 一方、ベトナムとともにインドシナ半島を構成し、旧フランス領インドシナに統合されていたラオスとカンボジアではベトナムほど闘争的なレジスタンス運動が現れず、戦後もフランスとの交渉を経て、新たに創設されたフランス連合内の独立王国として再出発するというように、ベトナムとは異なる道を歩んだ。
 ただし、ラオスでは終戦直後の1945年、王族を中心に独立運動が組織され、革命政府(ラーオ・イサラ)を樹立するも、フランスの軍事的攻勢に対抗できず、一年ほどで崩壊、新たに創設されたフランス連合内の独立王国となった。

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比較:影の警察国家(連載第34回)

2021-03-14 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

2‐2:国防省警察

 国防省警察(Ministry of Defence Police:MDP)は、イギリスにおいて特別警察と呼ばれる三つの警察機関のうちの一つであり、その名のとおり、国防省に直属する警察機関である。ただし、軍内の犯罪の取り締まりに専従する憲兵隊とは異なり、文民警察機関である。
 沿革的には、元来、陸軍省・海軍省・空軍省と三部門に分岐していた国防行政が1964年に国防省に統合されたことを受け、1971年、それまで陸海空軍三部門ごとに分かれていた文民国防警察を統合したのが、国防省警察である。
 MDP本来の役割は全土の国防省関連施設やその資産、要員の防護であるが、今日ではそれに限られず、海外を含めた危険地帯での治安維持及び対テロ対策の任務も持つ。そのため、MDP要員の大半は公認射手としての資格を持ち、任務遂行中は常時武装する武装警察としての性格を帯びている。
 2010年のリストラにより20パーセントの要員が削減されたとはいえ、なお2500人以上の要員を擁し、犯罪捜査部や海上部、化学・生物・放射線/核対応班、国際警察部など多数の専門部署に分かれた自己完結的な警察組織として構成されている。
 中でも化学・生物・放射線/核対応班はこうした危険物質関連の事件・事故に関しては中心的な対応力を持つ部門として、次に見る民間原子力保安隊とともに重要な役割を担っている。
 総じて、MDPは大規模ではなく、活動範囲も限定されているが、全土及び海外でも活動できる国家/国際警察としてはイギリスで唯一の存在であり、対テロ、犯罪及び治安法により、一定の状況下では本来の管轄を越えた拡大権限が付与されており、影の警察国家化の中で存在性を増している。


2‐3:民間原子力保安隊

 民間原子力保安隊(Civil Nuclear Constabulary:CNC)も特別警察の一つであり、その名の通り、原子力発電所を含む民間核施設の防護及び国内外を輸送中の核物質の安全防護を担当する警察組織である。従って、核兵器の防護は管轄外であり、軍及び前出MDPの任務となる。
 CNCはかつてイギリスの核開発研究機関である英国原子力エネルギー機関の直属であったものを2005年の制度改正により、同機関から分離したうえ、人員を拡充したものである。現在は、2016年新設のビジネス・エネルギー・産業戦略省の管轄下にあるが、財政は外資を含む核関連企業体の出資によるという官立民営のような特殊な組織でもある。
 このような制度改正がなされた背景にも、「テロの戦い」テーゼと関わっており、民間核施設に対するテロ攻撃への備えとして、わずか700人弱の要員の旧制度では不十分と認識されたためである。そこで、現在は1500人以上にまで要員も倍増されている。
 機関の性格は、MDPと同様、公認射手を擁し、任務遂行中は常時武装する武装警察である。ただし、MDPとは異なり、対テロ法の下でも管轄を超えた拡大権限は付与されておらず、所定の権限に限られた専門警察としての性格が維持されている。

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近代革命の社会力学(連載第209回)

2021-03-12 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(8)革命の余波
 1950年代末からの大躍進政策が失敗に終わった後、共産党の支配体制は確立されながらも最高指導者・毛沢東の権威が低下する中、1960年代前半期には社会主義化の進展スピードを緩める改革的な中堅のグループが台頭し、党の実権を掌握した。
 これは市場経済化に振れる最初の改革的な動向であったが、毛没後の1970年代末以降における大規模な市場経済化改革に比すれば、微修正に過ぎないものであった。しかし、毛とその側近グループにとっては革命の後退を結果する危険な企てと映った。
 そこで、1960年代半ば、毛とその側近グループは修正主義の土壌となる資本主義・ブルジョワ文化の残滓を除去するべく、文化面にも及ぶ全般的なプロレタリア革命(文革)を体制内的に発動するキャンペーンを開始した。
 そうした意味で、文革は毛とその側近グループによる粛清運動の性格を持ったが、それと同時に、大衆動員の手法によって学生を中心とする下からの下剋上的な造反力学を利用した点において、特異な「革命」事象であった。
 その点、文革はそれ自体が建国革命後の体制内「革命」として、言わば再帰的な余波とも言える事象であったが、時代的には1960年代後半から70年代前半にかかり、それには固有の余波事象も伴ったことから、後に改めて詳述することにする。
 さしあたり、ここで中国大陸革命の余波という場合、これを1949年の建国革命の直接的な余波に限定すると、建国革命は意外にも、直接的な余波としての革命を周辺諸国に惹起することはなかった。
 国境を接する諸国を見ても、北のモンゴルはすでに1920年代に、ロシア革命の余波としての革命を経験し、世界で二番目と目される社会主義共和国として先行していたし、南のベトナムでも、一足早い1945年にフランス、次いで日本占領軍庇護下の阮朝を打倒した革命により、社会主義体制が構築されていた。
 他方、東北地方で国境を接する朝鮮では、戦時中、中共指揮下、満州を拠点に抗日レジスタンスを展開した組織を母体にしつつ、日本からの独立後の1946年、ソ連の影響下に半島北部で社会主義国(現・朝鮮民主主義人民共和国の前身)が建国されており、これも中共による建国革命に先立つ動きであった。
 朝鮮半島ではむしろ、建国革命の翌年1950年に勃発した朝鮮戦争が建国革命の余波と言える動向となる。この戦争は、前出の北朝鮮が半島全体の武力統一を狙い、南にアメリカ及び国際連合の主導で建国された大韓民国側へ侵攻したことに端を発したもので、社会主義的な半島統一を宿願とする北朝鮮にとってはある種の革命戦争であった。
 この時、北朝鮮の後ろ盾として軍事援助していたソ連が直接の参戦を避けたため、建国間もない中華人民共和国が義勇軍の形を取った人民志願軍を組織して北朝鮮側で参戦したことにより、朝鮮戦争は戦後冷戦構造における最初の国際戦争に発展した。朝中連合軍は一時韓国を占領する勢いであったが、最終的には米軍主体の国連軍に押し返されて休戦となり、今日に至っている。
 その他に、1949年建国革命の直接的な余波現象は見られず、この点は、周辺・近隣諸国に広く同様の革命(未遂を含む)を連続的に惹起した1917年ロシア革命との大きな相違となっている。むしろ、1949年建国革命は、戦後における国際秩序全体に及ぼしたインパクトのほうが大きかったと言える。


※当初の構成では、「(9)プロレタリア文化大革命の動乱」と題する小見出しのもとに文革を扱ったが、本文に記したとおり、文革は年代的にも、質的にも、1949年建国革命とは区別すべき点が多いため、後に改めて項目を設けて扱うこととし、該当記事は削除した。

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近代革命の社会力学(連載第208回)

2021-03-09 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(7)共産党支配体制の確立と揺らぎ
 1949年中国大陸革命によって成立した共産党主導の革命政権の展開における発足当初の新民主主義の段階は革命移行期に相当する初期段階であったが、この期間は意外に早期に完了し、1952年には農業工業生産高が大幅に回復、革命前を上回ったことを機に、翌年53年から第一次五か年計画に入った。
 ここからは当時向ソ一辺倒政策を推進する中、ソ連の社会主義計画経済にならって開始された新たな段階であり、ソ連と同様に、農業の集団化と国家主導の集産主義的な工業化とが目指された。
 ただし、政治面では、一党独裁のソ連とは異なり、依然として政治協商会議を通じた連合体制が維持されており、56年には毛沢東自身、人民の自由な意見の表明を奨励する百花斉放百家争鳴を打ち出すなど、リベラルな姿勢が見られた。
 これが反転するのは翌年、毛の百家争鳴方針を利用する形で、非共産党諸派から共産党の主導権に対する疑問や反対が公然と主張されるようになった時である。こうした情勢に不安を覚えた毛と中共指導部は一転して、反共右派分子弾圧の姿勢を打ち出し、58年には右派分子と認定された50万人以上が辺境地への追放や解職に追い込まれた。
 この反右派闘争と呼ばれる最初の大規模な弾圧は中共が主導権を一段強め、事実上の一党支配へ向かう最初の礎石となったが、これと合わせ、経済政策面でも、第一次五か年計画が終了した58年から「大躍進政策」と銘打つ農工業全般にわたる急進的な生産力増大計画が発動される。
 これは58年からの第二次五か年計画とも連動しており、そこでは農工業生産力においてわずか3年で英米の水準に追いつき、追い越すという形式的かつ非現実的なノルマ達成が課せられた。その具体的な政策目標を逐一詳述することは本連載の主旨を外れるので、立ち入らないが、この時導入された最も著名な制度が人民公社であった。
 人民公社は中国における農業集団化の鍵となる新制度であり、ソ連におけるコルホーズの中国版という意義を持つが、コルホーズよりもいっそう集団性が強く、農業に限らず、工業・商業から教育・文化、軍事にも及び、行政機能も担う「政社合一」の組織であった。
 革新的な制度ではあったが、ソ連の農業集団化と同様、農民の自主的な耕作意欲をそぎ、ノルマに偏重したためにかえって農業生産力を低下させ、看板の行政機能にしても、共産党支配が強化されていく中、実質において党の末端組織に統合されていった。
 人民公社制はその後も1970年代末からの大規模な経済改革を機に廃止されるまで存続していくが、大躍進期における農業政策としては大失敗に終わり、数千万人規模の餓死者を出したと推計されている。毛自身も1960年代初頭の会議で、自己批判を行ったほどであった。
 こうして、大躍進政策は農業面では失策となったが、工業面では、大躍進の前後を通じて、社会主義経済の軸となる重工業分野を中心に多くの国有企業が設立され、70年代以降の経済改革の土台となる工業生産力の準備に寄与した一面もあり、そのすべてが失敗であったとは言えない。
 とはいえ、大躍進政策は反対派への政治的な弾圧や如上の大量餓死という犠牲を伴うキャンペーンであったことも否定できない。同時に、政治的な力学においては、共産党支配体制を固める動因となる一方で、失策により党と毛の権威が揺らぐという矛盾を抱えた複雑な力動を作り出す結果ともなったのである。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第8回)

2021-03-07 | 南アフリカ憲法照覧

住宅

第26条

1 何人も、適切な住宅を得る権利を有する。

2 国は、この権利の実現を推進するため、利用可能な財源の範囲内で、合理的な立法及びその他の手段を講じなければならない。

3 何人も、あらゆる関連状況を考慮した裁判所の命令なくしては、その住居から退去させられ、またはその住居を解体されることはない。立法は、恣意的な強制退去を許容することはない。

 本条から第31条までは社会権に関する規定である。その筆頭に住居に関する権利が来ているのは、人間的な生存を支える第一の物質的基盤が住居であることからして的確な体系である。
 住居の恣意的な剥奪を厳格に禁ずる第3項は住居権の自由権的側面を示すが、これはアパルトヘイト時代、黒人の住居権が著しく侵害されたことへの反省からであろう。

医療、食糧、水及び社会保障

第27条

1 何人も、次のものを得る権利を有する。

(a) 生殖医療を含む医療

(b) 充分な食糧及び水

(c) 自身及び扶養家族を支えることができない場合における社会的扶助を含む社会保障

2 国は、これらの各権利の実現を推進するため、利用可能な財源の範囲内で、合理的な立法及びその他の手段を講じなければならない。

3 何人も、救急医療を拒否されない。

 本条は、生存権に関する規定である。第1項で食糧・水への権利が明記されるのは、食糧難・水不足が課題であるアフリカならではのことであろうが、本来は全世界共通課題である。 
 第1項の諸権利は、前項の社会権としての住居権とともに国が財源の範囲内で立法等の措置を講じて実現する抽象的な権利であるが、憲法規定としては比較的珍しい救急医療の拒否を禁止する第3項は自由権的な規定である。 

子ども

第28条

1 子どもは、次の権利を有する。

(a) 出生時に名前及び国籍を得ること。

(b) 家族もしくは両親による養育または家族的環境から引き離された場合は適切な代替的養育を受けること。

(c) 基本的な栄養、養護、基本的な医療及び社会サービスを受けること。

(d) 不適切育児、育児放棄、虐待または堕落から保護されること。

(e) 搾取的な労働慣習から保護されること。

(f) 以下のような仕事の遂行もしくはサービスの提供を要求され、または許可されないこと。

 (ⅰ) 当該の子どもの年齢にふさわしくないもの

 (ⅱ) その子どもの福祉、教育、心身の健康または精神的、道徳的もしくは社会的な発達を危険にさらすもの 

(g) 最後の手段として以外は、拘禁されないこと。その場合も、第12条[訳出者注:人身の自由条項]及び第35条[訳出者注:デュ―プロセス条項]の下で子どもが享受する諸権利に加え、子どもは最小限の期間のみ拘禁され、かつ次の権利を有する。

 (ⅰ) 18歳以上の被拘禁者からは分離収容されること。

 (ⅱ) その子どもの年齢を考慮した方法及び条件で処遇・収容されること。

(h) 子どもに影響を及ぼす民事手続きにおいて、実質的な不公平を結果する恐れがあるときは、国の費用で国選弁護士を付けられること。

(i)  武力紛争で直接に利用されないこと、かつ武力紛争時に保護されること。

2 子どもの最良の利益は、子どもに関わるあらゆる問題において、最高度の重要性を持つ。

3 本条において、「子ども」とは18歳未満の者をいう。

 子どもの権利を包括的に厚く保障する本条は、南ア憲法の真髄の一つである。これも、しばしば子どもが過酷な状況に置かれてきたアフリカ的状況を反映しているが、内容上は国連子どもの権利条約にも沿った標準的・普遍的なものである。

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近代革命の社会力学(連載第207回)

2021-03-05 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(6)最初期革命政権の展開
 1949年の人民共和国樹立は、中国における共和革命の性格を持った1911年辛亥革命から38年の年月を経ての二次革命という位置づけを持つことになるが、この間の革命的力動は、マルクス主義におけるブルジョワ革命からプロレタリア革命へという二段階革命理論と符合しているようにも見える。
 しかし、仔細に見ると、必ずしもそうではない。辛亥革命をある種のブルジョワ革命とみなすとしても、以前に辛亥革命の項でも見たとおり、革命後は帝政復活を狙った袁世凱による革命の横領過程を経て、軍閥支配の混乱へと向かい、ブルジョワ民主主義は未発達であった。
 軍閥支配に終止符を打った国民党でも、蒋介石という軍人が最高実力者として台頭してきたことで、孫文の三民主義は形骸化し、蒋介石国民党体制はある種の軍事政権の性格を強く帯びていた。こうしてブルジョワ民主主義は軍閥支配、国民党自身の軍閥化という状況の中、未発達なまま、帝国主義日本の侵略という外力の介入によっていっそう阻害されていった。
 とはいえ、経済的な土台の面に着目すれば、清末以来の民族資本の成長により、上海のような経済都市を中心として、資本主義の発達が見られたこともたしかであり、政治的な民主主義は未発達ながらも、辛亥革命後の約40年で資本主義化の道を歩んではいたと言える。
 そうした道をいったん向け変えることになるのが二次革命としての1949年大陸革命であるが、これとて、プロレタリア革命というよりは、共産党を核としながら、諸派が連合した人民民主主義革命の性格が強かった。
 毛沢東はそうした中国式人民民主主義を「新民主主義」とやや漠然ながら簡明に公式化し、革命の理念に据えた。そこでは、労働者階級を主体としながらも、農民や中小ブルジョワ階級も加わった連合体制を通じて、新たな民主主義を建設することが謳われた。
 そのため、最初期革命政権では急進的な社会主義政策は回避され、農地再配分の確立や中小企業の育成を通じた戦後復興が目指された。政治的にも、共産党一党支配でなく、建国直前に招集された諸派の政治協商会議が重視されていた。
 そうした連合体制の微妙さとともに、革命直後は台湾に敗走した国民党がなおも大陸内で諜報・破壊工作による政権転覆を画策していたこともあり、政情は安定しなかったうえに、アメリカが支援する国民党軍による大陸反攻も十分に想定され、将来復興した日本による再侵略の可能性さえも懸念される状況であった。
 そうしたことから、発足当初の毛沢東政権は体制保証をソ連に求め、向ソ一辺倒とも呼ばれる強固な親ソ同盟政策を選択した。その表れとして、1950年には中ソ友好同盟相互援助条約が締結された。これにより、ソ連‐中国というユーラシア大陸にまたがる広大な東側同盟ブロックが形成され、戦後秩序に新たなページが開かれることになった。
 こうして、1950年代初頭頃までの最初期革命政権は新民主主義革命の段階にあり、プロレタリア革命はそれ以降、共産党支配の確立後に改めて体制内で発動されるという展開が予定されていた。これが党内路線闘争の曲折を経て、60年代に文化大革命の動乱という悲劇的な形で表出することになるのである。

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