ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第374回)

2022-02-01 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(4)革命の収束と収束しない混迷
 1986年のデュヴァリエ体制打倒から国際的監視下での1990年の大統領選挙までの間は、「デュヴァリエ抜きのデュヴァリエ体制」と揶揄される旧体制の中途半端な継続期であった。しかも、1988年の問題含みの大統領選挙をはさみ、政権が二転三転する混乱期でもあった。
 まず、最初の国家統治評議会は前回も触れたとおり、ナンフィ国軍参謀総長を議長とする旧体制派中心の軍民混合政権であり、旧体制の象徴である暴力団的治安部隊トントン・マク―トの解体は実現したが、本質的な変革には踏み込まなかった。
 そうした中、唯一反体制派から登用されていた人権弁護士のジェラール・グルグが一か月で辞職すると、強まる国民の抗議行動を受け、ナンフィは特に旧体制との結びつきの強いメンバーを交代させ、新たな評議会を形成した。
 この後、1987年に民政移管のための大統領選挙が実施されるが、この選挙はナンフィを中心とする軍部が仕切り、投票が暴力的に妨害される不正な選挙であった。結果、有力な野党系候補がボイコットしたため、デュヴァリエ父大統領のブレーンから反体制派指導者に転じていた学者出身のレスリー・マニガが「当選」した。
 中道保守系のマニガは軍部や旧体制派からは一定の支持があったと見られるが、88年の政権発足直後、軍の人事を巡ってナンフィと対立し、ナンフィを退役させようとするが、これに反発したナンフィが軍事クーデターを起こして自ら大統領に就任、マニガはわずか4か月で失権した。
 ナンフィは前年度、自ら新設した国軍最高司令官職に就き、軍部を拠点に隠然たる政治基盤を築き、新たな独裁者たらんとしていた。ところが、3か月後、下士官によるクーデターが発生し、ナンフィはあっけなく失権した。
 この下士官クーデターは、先にナンフィ―によって国家統治評議会を追われていたプロスぺ・アブリル将軍が背後で画策したもので、クーデター後にアブリルが新大統領に就任した。
 この人物はデュヴァリエ体制の申し子で、デュヴァリエ父子大統領の側近者として知られていた。そのため、1988年9月のアブリル政権の成立は、まさしく「デュヴァリエ抜きのデュヴァリエ体制」の極点と言える反革命反動であった。実際、アブリル政権は腐敗と人権侵害にまみれ、民衆運動が再活性化された。
 その結果、1990年3月、アブリルは政権維持を断念し、軍に権力を移譲してアメリカへ亡命した。その後、国際監視下で行われた大統領選挙では、民衆運動の指導者として台頭していたジャン‐ベルトラン・アリスティド司祭が当選した。
 アリスティドはラテンアメリカで政治的に行動する民主派キリスト教聖職者の教義となっていた「解放の神学」の実践者であり、80年代半ばからの民衆運動においてリーダー格となっていた人物であった。
 彼の当選により、1986年に始まる民衆革命はひとまず収束したと言える。ところが、これで正常化には向かわず、アリスティドの急進性を恐れた旧体制派の意を受けた軍部のクーデターにより、わずか7か月で失権、再び軍事独裁政権に復帰した。
 この後、アメリカと国連の介入によるアリスティドの復権、アリスティド政権下での内乱とクーデターによる彼の再失権と、ハイチ政治の激動は収まることなく、混迷する小国にとっては甚大過ぎた2010年のハイチ大震災を経て、かえって今日まで余波の続く長い混迷期を招いた。
 結局のところ、ハイチ民衆革命は、その一つの結実であったアリスティド政権下でも、歴史的に構造化された貧困問題や社会的不平等、トントン・マク―ト解体後も形を変えて存続してきた(アリスティド政権下でさえ)暴力団政治などの諸問題を解決することができずに終わった。


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