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近代革命の社会力学(連載第6回)

2019-08-13 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命 

(5)一向宗革命体制の終焉  
 およそ一世紀に及んだ一向宗革命体制は、その中期には本願寺中央主導の寺院封建支配体制へと変質していったわけであるが、そこへ至る過程では、本願寺中央と北陸の出先寺院を統率する蓮如の大勢の息子たちが相い争う複雑で流血的な内紛が常態化していた。  
 多くの革命の実例で、革命成就後に革命集団内部で紛争に見舞われることが確認できるが、その点では一向宗革命も例外ではない。こうした革命後の内紛は、しばしば革命体制の自壊要因ともなり得るものであるが、一向宗革命がそうならなかったのは、一つの信仰を共有する結束性の高さとそれを背景とした本願寺中央の支配権が確立されたためでもあった。  
 そうした寺院封建支配体制の確立はまた、当時の大状況であった戦国封建社会化への適応の所産でもあった。要するに、本願寺自身が武装した戦国領主となったに等しく、そうなると、周辺戦国諸侯との抗争は避けられないことになる。  
 前回も見たように、1546年以降は要塞化された金沢の尾山御坊が本願寺支配の拠点となり、「郡」や 「組」などの内部組織も尾山御坊に直属する形で、集権的な体制が整備された。これによってまさに戦国大名並みの戦闘動員力が備わったと言える。
 この頃の周辺競合勢力として強力だったのは、越前の朝倉氏であった。朝倉氏との関係性は複雑であり、大小一揆の際の朝倉氏は本願寺中央への牽制のため賀州三ヶ寺側を支援する策に出たが、これは失敗に終わった。その後、本願寺中央が主導権を握ると、朝倉氏とは1550年代と60年代に交戦している。
 朝倉氏が織田氏に滅ぼされた1570年代に入ると、より野心的な越後の上杉氏との対決が避けられなかった。この時代の一向宗徒軍の実質的な総大将は、杉浦玄任である。彼は本願寺坊官出自の僧兵武将であり、60年代の朝倉氏との戦闘でも活躍したベテランであった。  
 杉浦は加賀・越中・越前三州の一向宗徒軍を糾合して北陸支配を狙う上杉軍と対決し、1572年の尻垂坂の戦いでは敗北しながらも、かなり互角の戦いを展開してみせたが、1575年、天下人への道を着々と歩んでいた織田氏の前に敗北し、戦死もしくは敗戦責任のかどで処刑されたとされる。  
 こうして、一向宗革命体制は一向一揆の壊滅を狙う織田氏という強敵と直面することになった。織田氏の総帥織田信長は、戦国的内乱を終わらせ、全国支配を達成するうえで障害となるすべてのものを排除せんとしていたが、その中には一向一揆も含まれていた。  
 彼は本願寺総体の本拠である石山本願寺を叩く正面作戦に出て、これに成功したのだった。その経緯を詳述することは本連載の主旨から逸れるので、省略するが、いずれにせよ、総本山の敗北は北陸の一向宗革命の終焉に直結した。  
 信長配下の部将佐久間盛政によって攻略された尾山御坊では信徒300人以上が磔刑に処せられるという結果に終わった。尾山御坊は解体されて金沢城となり、盛政が戦功により初代城主にして新たな加賀の領主に座った。  
 ちなみに、越中一向一揆は上記尻垂坂の戦いの際に壊滅していたから、1580年の加賀一向一揆の敗北により、一世紀余りに及んだ北陸の一向宗革命は完全に終焉し、以後は天下人「三英傑」による集権的武家支配体制に呑み込まれていく。


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