ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第199回)

2021-02-10 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐2〉革命政府の樹立と戦後構想
 バルカン半島のレジスタンスでは、イデオロギー的な統一の下に、共産党系レジスタンスが最も一貫して戦い、全土解放に寄与しているが、ギリシャにおいても、最大のレジスタンス寄与勢力は共産党系の民族解放戦線(EAM)であった。
 しかし、ギリシャでは反共系レジスタンス組織も相当に強力で、しかも、ユーゴやアルバニアの対応組織のように、枢軸側に寝返ることもなかった。国民共和ギリシャ連盟(EDES)にしても、ナチスドイツと相互不戦の密約を結んだのは、EAMを牽制するためであった。
 そうしたことから、ギリシャではレジスタンス継続中からレジスタンス組織間での内戦の緒戦が始まっていた。それは1943年10月、EAMとEDES間での戦闘の開始として現れたが、この時はイギリスが仲裁し、翌年2月にはいったん停戦となった。
 一方、レジスタンスの戦況として、EAMは1943年半ばまでに中部山地からイタリア占領軍を駆逐することに成功し、その余地に解放区「自由ギリシャ」を設定することに成功した。枢軸側では、43年9月のイタリアの降伏後、ドイツがギリシャ占領を引き継ぎ、レジスタンス勢力の掃討を強化した。
 これに対し、EAMはドイツ軍への攻勢を強めつつ、1944年3月には、自由ギリシャ地域に民族解放政治委員会(以下、解放委員会)を樹立した。これは事実上の革命政府であり、標榜上の首都はアテネに置かれたが、事実上の首都は中央山地のエブリタニアに置かれたため、俗に「山岳政府」とも呼ばれる。
 解放委員会は、当時カイロに在所したギリシャ王国亡命政府や、イタリアの降伏後、ドイツが引き継いでいた占領統治下のアテネ傀儡政府に対抗したものであり、当然にも、アテネの最終的解放と共産党主導による新政府の樹立を目指していた
 解放委員会は共産党主導で立ち上げられたが、その綱領は簡素かつ穏健であり、初代議長には王党派系レジスタンス組織・国民社会解放運動(EKKA)出身者が充てられるなど、他党にも開かれた構成となっていた。
 そうした中、ギリシャの各政治組織代表者は、1944年5月、中東のレバノンに集結して解放後の政権構想に関して討議し、当時亡命政府首相であった進歩的保守主義者ゲオルギス・パパンドレウを首班とする挙国一致政権を樹立することが決定されたのである。
 この挙国一致政権構想では、EAMにも閣僚ポストが配分される予定であり、これで収まれば、共産党がそのまま平行移動的に支配政党に座ったユーゴやアルバニアとは異なる形であるが、共産党も加わった連合政権による新生ギリシャ王国が成立するはずであった。
 しかし、レジスタンスにおける最大の寄与を自認するEAMとしては、こうした他党主導の連合政権構想には不満があり、政権構想決定後も、レジスタンス終盤に向けて独自の活動を強化したため、政権構想には早くも暗雲が立ち込めていた。


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