ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第395回)

2022-03-15 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐4〉救国戦線政府の権威主義化と分裂
 ルーマニア革命の突発的な性格は、革命後に革命政権となった救国戦線評議会(以下、単に評議会という)が革命渦中に突然出現し、一挙に政権を掌握したという点にも表れている。そのため、評議会の設立経緯や政権掌握過程の詳細には今なお不透明な点が残る。
 通常の革命政権は何らかの形で未然に結成され、一定期間の公然もしくは非公然の活動を経た革命組織が担うものであるが、評議会の土台となった「救国戦線」なる組織が未然に結成され、活動していた形跡はなく、評議会議長から革命後最初の大統領となるイリエスクも長く政治活動を封じられ、政治警察の監視下にあった人物である。
 確かなことは、チャウシェスク体制から離反した軍部の支援があったこと、さらに評議会はイリエスクをはじめとする主要幹部の大半が共産党出自であったことである。そのため、評議会が真の革命政権かどうかについて疑念が持たれ、一族独裁体制下で冷遇されていた共産党非主流派による「革命の乗っ取り」がなされたという否定的な見方もある。
 ともあれ、評議会はチャウシェスク夫妻の即決処刑という電撃的な荒療治で独裁体制に区切りをつけ、革命を早期に収束させることには成功した。そのうえで、共産党による一党支配体制を廃止したばかりか、党自体を完全に解散・清算するというドラスティックな政体変更に及んだ。
 一方、評議会自身が政党化することについては当初否定的であったが、1990年2月に救国戦線として政党化し、評議会を暫定国民統一評議会に改称した。そのうえで、同年5月に予定された複数政党制に基づく総選挙には独自候補者を擁立する方針を決めた。
 これに対し、90年3月、革命端緒となったティミショアラ蜂起の参加者を中心に、イリエスクも含む旧共産党幹部や旧政治警察要員の向こう10年間の公職追放や市場経済化の推進などを柱とする「ティミショアラ宣言」が発せられ、これに呼応する抗議のデモ活動が隆起した。革命政権が新たな二次革命にさらされるような新局面であった。
 この反救国戦線運動は、90年5月の総選挙で救国戦線が圧勝、イリエスクが革命後初代の大統領に当選しても同年7月にかけて継続されたが、これに対して救国戦線政府は政府支持の鉱山労働者らを動員して力で鎮圧した。死者も出したこの弾圧事件は後に反人道犯罪として立件されることになるが、裁判所はイリエスクに対する公訴を棄却している。
 このように救国戦線政府は発足当初から権威主義化の傾向を見せたが、92年になると救国戦線内部で脱社会主義化のスピードをめぐる対立などから、これに慎重なイリエスク派と反イリエスク派に分裂したことで、新たな独裁党が出現することは免れた。
 とはいえ、92年選挙ではイリエスク派の新党・民主救国戦線(翌年、社会民主党に改称)が第一党となり、実質上救国戦線政権が維持されたが、96年選挙では敗北、イリエスクも同年の大統領選挙で野党系候補者に敗れ下野したため、ひとまず救国戦線系政権は終焉することとなった。


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