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近代革命の社会力学(連載第449回)

2022-06-27 | 〆近代革命の社会力学

六十四 ネパール共和革命

(3)共和革命への力学
 ギャネンドラ国王による2005年2月の二度目の自己クーデターによる全権掌握は、国王にとっては大きな賭けであるとともに、大きな失策ともなった。というのも、今回は2002年の自己クーデター時以上に挙国一致的な抗議運動を誘発し、外国の支持も失ったからである。
 統一共産党を含む六政党に、統一共産党に参加しない共産主義諸派から成る統一左翼戦線も加わった政党連合(七党派連合)が結成され、05年12月にはインドで内戦当時勢力であった毛沢東派とも協定を結んだことは革命の端緒となった。
 この協定では、毛派も武装革命を放棄し、複数政党制に基づく立憲民主主義を容認し、早期に制憲議会選挙を実施することも合意された。これは国王が専制回帰の口実ともしていた内戦の早期終結に向けたステップともなる。
 これに対し、国王側も2006年に入って反対派を拘束するなど弾圧を強化したが、七党派連合側は同年4月に全国ゼネストを組織して対抗した。その結果、同月末にかけて、首都カトマンズで数十万人規模の抗議デモが隆起した。
 他方、前年2月の自己クーデター以後、主要な支援国である英・米・印の支持を失い、国際圧力も強まる中、ついに国王は4月下旬、独裁放棄に同意し、議会の再開と新首相の任命に応じた。結果、七党派連合の中心でもあるネパール会議派主導の暫定内閣が成立した。
 ここまでの経緯は1990年の民主化革命時と類似しているが、前回と決定的に異なるのは、今般は君主制そのものの是非が浮上したことである。その最初のステップとして、2006年5月、再開された議会が国王の権限を著しく制限する法案を可決した。そこには王室財産の国有化やネパール王制の精神的な基盤でもあったヒンドゥー国教の廃止も含まれていた。
 ただ、この時点では国王は権限をほぼ剥奪されながらも君主制は存置されていたが、君主制廃止を求める毛派との協議が進むと、まず07年に君主制が暫定的に停止となり、翌08年4月の制憲議会選挙で意外にも毛派が第一党に躍進したことで、君主制廃止は既定路線となった。
 その結果、08年5月28日、毛派主導の制憲議会で君主制廃止と連邦共和制移行が決議され、ギャネンドラ国王は廃位の上、王宮からの退去を命じられることとなった。こうして、統一王朝成立以来、およそ240年に及んだシャハ王朝が終焉した。
 このように今回の民衆蜂起が共和革命に進展したのは、毛派との内戦終結へ向けた条件作りとともに、専制に回帰した国王が王党派を十分に組織できなかったことも影響している。その点、ほぼ唯一の王党派として国民民主党が存在していたが、基盤が弱く、分裂した上に制憲議会選挙に惨敗し、君主制廃止を阻止できなかった。
 一方、過去の共和革命ではしばしば専制君主が処刑されたり、少なくとも海外亡命に追い込まれてきたこととは対照的に、ネパール共和革命では国王は廃位後も一般人として国内に在住することが許され、革命が制憲議会を通じて完全に平和裏に進行したことは特筆すべき点であった。


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