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近代革命の社会力学(連載第39回)

2019-11-11 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(4)イタリア・カルボナリ党革命  
 1820年1月のスペイン立憲革命は、イタリアにも飛び火した。特にシチリア・ブルボン朝(ボルボーネ朝)が支配していたナポリ王国である。ここでもスペインと同様、ナポレオンの支配からナポリを奪回したボルボーネ家がシチリアと併せた両シチリア王国を再建し、絶対王政の確立へ向かっていた。
 両シチリア王国初代の国王となったのはボルボン朝スペイン王カルロス3世の三男フェルディナンドであった。フェルディナンドはある程度開明的ではあったが、それは啓蒙専制君主的な「開明」であり、本質的には絶対君主制の支持者であった。  
 一方、この頃、南イタリアではカルボナリ党が急速に勢力を増していた。かれらはナポレオンの義弟としてナポリ王に擁立されながらナポレオンと対立したジョアシャン・ミュラ(ナポリ王ジョアッキーノ1世)によって利用庇護されるという奇遇によって、勢力を拡大したのであった。
 そのミュラもナポレオン帝政崩壊後に王位を剥奪され、フェルディナンドが復位したわけだが、彼はカルボナリ党に対抗するため、アウトローをかき集めた暴力団組織(カルデラリ)を結成してカルボナリ党の壊滅を狙った。
 しかし、このような半端な弾圧策はカルボナリ党をかえって勢いづかせた。特にナポリ王国軍内にカルボナリ党が浸透していた状況下、スペインの立憲革命に触発されたナポリ軍のカルボナリ党将校らが反乱を起こし、時の王フェルディナンド4世に対し、自由主義的な憲法の発布を強制することに成功した。  
 シチリアでも呼応する反乱が起きたが、ここでは革命そのものよりシチリアの分離独立を求める力が強く働いたことが裏目となり、軍内の反独立派によって間もなく鎮圧され、革命は未遂に終わった。両シチリア王国領土が本土ナポリと言語・文化的に相違のあるシチリア島にまたがっていたことが、革命の統一に水を差す結果となったと言える。  
 さらに、イタリアでは翌1821年、サルデーニャ島を支配するサルデーニャ王国の本土側領地トリノでも、カルボナリ党の革命が発生した。サルデーニャ王家はブルボン系ではなく、南仏サヴォワ地方の古い領主に出自するサヴォイア家であったが、その統治はやはり絶対主義的であった。
 革命はいったん成功し、自由主義的な憲法が制定され、絶対主義を展開していた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世は退位、革命政権との交渉に当たったサヴォイア分家出身のカルロ・アルベルトを摂政に迎えつつ、王弟カルロ・フェリーチェが新たに即位した。  
 こうして南イタリアで革命が成功していくことに脅威を感じたのは、北イタリアを支配するオーストリアであった。従来、オーストリアは南イタリアの諸王家にもハプスブルク家出身の妃を送り込み、姻戚関係を結ぶことで、南イタリアにも強い影響力を及ぼしてきたからである。  
 オーストリアはウィーン体制下の五国同盟(英・露・墺・普・仏)を招集して武力鎮圧方針を決定、これに基づき、1821年3月から4月にかけて南イタリアに侵攻し、ナポリとピエモンテを制圧、革命政府を打倒したのである。  
 こうして、南イタリアにおけるカルボナリ党革命はいずれも短命に終わった。しかも、ローマ教皇ピウス7世のカルボナリ党糾弾声明が発せられるに至り、カルボナリ党は本拠をフランスに移したため、これ以降はフランス版カルボナリ党であるシャルボンヌリー党が活動の中心となる。


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