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近代革命の社会力学(連載第383回)

2022-02-21 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(4)東ドイツ解体革命

〈4‐1〉教条主義体制と「ベルリンの壁」
 東ドイツ(正式名称ドイツ民主共和国:以下では、通称に従い「東ドイツ」という)は、1989年に始まる連続革命の最初の主要な舞台となった旧国であるが、その前提として、革命前の東ドイツ体制の特質を見ておく必要がある。
 東ドイツは第二次大戦でのナチスドイツの敗北後、ソ連軍の占領下にあったドイツ東部地域が、英米仏の占領する西部地域とは別途、社会主義国として独立した経緯から、ソ連の最も忠実な衛星同盟国として東側陣営の領域を中欧まで拡張するとともに、ソ連が体制教義としたマルクス主義の理論的な祖カール・マルクスを輩出した国(ただし、出身地トリ―アは西ドイツ領域)としての自負からも、教条主義的な性格が強くなった。
 その政治体制には表/裏があり、表向きは複数政党制に基づく議会制の外形を装っていたが、実態はドイツ共産党とソ連軍占領地域のドイツ社会民主党が合併した他名称共産党としての社会主義統一党(SED)が事実上の独裁政党として政権を支配し、他政党は翼賛的衛星政党の役割に限局されていた。
 こうして実質上はソ連型の一党支配下で、ソ連にならった中央計画経済と農業集団化が急ピッチで施行されたが、こうした体制を忌避して西ドイツへ脱出する者が跡を絶たなかったため、西ドイツに比べて人口が圧倒的に少ない中、労働力流出と頭脳流出を避けるためにも、1961年、西への脱出口となっていた首都ベルリンの東西境界線の通行を遮断し、脱出者の銃撃をも辞さない厳重な警備態勢を敷いた。
 最初は鉄条網の設置に始まり、最終的にコンクリート壁となったため、「ベルリンの壁」として、東西冷戦による分断を象徴する物理的障壁となったが、東ドイツにとっては良策となり、以後、1970年代にかけて、東ドイツは優良な国営企業を通じた社会主義経済のモデル国家に成長していく。
 70年代オイルショックを機に経済は後退し、西ドイツとの経済格差も顕著になったが、他方で、女性の社会進出などでは進歩的な面もあり、東側陣営の中では安定した体制を保持していた。しかし、ソ連に忠実な教条主義は修正されることなく、特に1971年にSED第一書記(後に書記長)に就任したエーリッヒ・ホーネッカーは保守的な教条で固まり、体制改革に消極的であった。
 1976年以降は元首格の国家評議会議長も兼ねたホーネッカーの指導の下、80年代にかけては経済状況がいっそう悪化し、冷戦の「雪解け」を契機として72年に相互承認条約を結んでいた西ドイツからの経済援助を受け入れて弥縫する有様となった。このような東ドイツ晩期の西ドイツ依存策は、潜在的には体制崩壊と西ドイツへの吸収、東西ドイツ統一への序章だったとも言える。
 しかし、さしあたり1980年代末まで東ドイツ体制は安定していたが、それはナチスドイツ時代のゲシュタポに匹敵する秘密政治警察・国家保安省(シュタージ)とその協力者を通じた徹底的な監視網と抑圧に基づく「安定」であった。


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