ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第462回)

2022-07-21 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(5)イエメン革命

〈5‐1〉統一イエメンと選挙制独裁
 イエメンは1990年の統一以前は北イエメンと南イエメンとに分かれていたが、両体制の分断は同時代の東西ドイツや南北朝鮮のような冷戦時代の明瞭なイデオロギー対立ではなく、アラブ社会主義(北)とマルクス‐レーニン主義(南)という社会主義内部の対立関係を反映しているにすぎず、共に親ソ連派であった。
 そうしたことから、南イエメンが支配政党内の権力闘争に起因する内戦を契機に崩壊危機に瀕すると(拙稿)、北イエメンが主導する形で、以前から模索されていながら双方の反対勢力による妨害のため実現していなかった南北統一のプロセスが急速に進んだ。
 このプロセスを導いたのが、1978年以来北イエメン大統領の座にあったアリー・アブドッラー・サーレハであった。彼は70年末の北イエメンの政治混乱を収拾し(拙稿)、出自の軍部を権力基盤としつつ、翼賛政党・人民総会議を通じた全体主義的な独裁体制を敷いていた。
 統一のプロセス自体は平和的に履行されたものの、当初は統一イエメン大統領にサーレハが横滑りし、副大統領に旧南イエメンの最高実力者であったアリー・サーリム・アル‐ベイド社会党書記長が就くという形で、南北の力関係を反映した体制となった。
 この非対称な関係性は、南部に分布する油田の利権も絡み、1994年に旧南イエメン派による武装蜂起と内戦を招いたが、サーレハ政権はこれを鎮圧し、再度の分断危機を乗り切った。前年の総選挙でも、統一後引き続きサーレハの翼賛政党であった人民総会議が圧勝しており、統一イエメンのサーレハ支配体制は固まった。
 この後、サーレハは統一後初となる直接選挙による1999年大統領選で圧勝、続く2006年大統領選でも勝利した。サーレハの体制は他のアラブ諸国とは異なり、選挙に基づく独裁体制(選挙制独裁)という21世紀に増加した新しいタイプの独裁体制であり、いちおう「民意」に支えられているため、その権力は強固に見えた。
 しかし、イエメンは産油量が周辺諸国に比べ圧倒的に少なく、石油収益に依存した経済発展が見込めないことや、未だ封建的な部族社会の慣習が残存していることもあり、アラブ世界でも最貧レベルの生活水準は容易に改善されなかった。
 そうしたところへ、サーレハが自身の名を冠した巨大モスクの建造などの個人崇拝に走ったり、大統領任期の延長による事実上の終身大統領制への道を画策していたこと、子息を軍精鋭の共和国防衛隊司令官に登用し、権力世襲の構えも見せていたことなどが、国民の間に来る革命へのマグマとなる反感を醸成していった。


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