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連載論文&時評ブログ 

持続可能的計画経済論(連載第3回)

2018-04-30 | 〆持続可能的計画経済論

第1章 計画経済とは何か

(2)計画経済と交換経済
 市場経済とは市場という交換の場を中心に回っていく経済体制であるので、市場経済はすなわち交換経済である。特に現代の交換経済では、貨幣という媒介商品を手段として交換取引が連鎖的に成立していくから、市場経済は貨幣経済と実質上同義とみなしてもよい。
 ただ、理論上は経済運営が市場メカニズムによるか経済計画によるかという問題と、交換取引の媒介手段が貨幣によるかどうかという問題は別次元の問題であり、計画経済と貨幣経済を両立させることは可能とみなされている。そのため、実際、かつてのソ連式計画経済も貨幣経済下で行われていた。
 しかし、観念のレベルを離れて経済運営の実践問題として見たとき、貨幣交換を中心として回っていく貨幣経済と計画経済は調和しない。貨幣経済は貨幣交換の連鎖で成り立っているが、それは需要と供給の成り行きに依存しており、多分にして投機的な要素を持つ。マルクスの言葉によれば、それは「市場価格の晴雨計的変動によって知覚される商品生産者たちの無規律な恣意」によって動いていくものであるから、事前の計画によっては制御不能なものである。
 そうした貨幣経済を計画経済に適応化させようとすれば、それは公的機関、特に政府による価格統制という技術によらざるを得ない。理論上は、経済情勢と需要・供給の事前予測に基づいて公的機関が適正な価格を設定することは可能とされるが、実際のところ投機的な貨幣交換を完全に制御することは不可能であり、旧ソ連を含め、価格統制政策に成功した例がないのは必然と言える。
 してみると、計画経済は本来的に貨幣経済の外にあるとみなしたほうがよさそうである。これを貨幣の側から考えてみると、本来アナーキーな本質を持つ貨幣経済は真の意味での経済計画とは相容れないということになる。
 この理をより根本に遡って考えると、計画経済とはそもそも非交換経済であると言い切ってもよいだろう。貨幣交換か物々交換かを問わず、およそ交換をしない。それが純粋の計画経済である。少しでも交換経済の要素が残るなら、それは真の計画経済とは言えない。
 市場とはすなわち交換の場であるから非交換経済は非市場経済でもあるが、そうであってはじめて計画が必要的となる。なぜなら、非交換=非市場経済では、経済運営の規範的指針となる計画なかりせば物やサービスが生産・分配されていかないからである。
 まとめれば、純然たる計画経済はまずもって非交換経済であって、それゆえにまた非貨幣経済でもあるということになろう。そう見れば、貨幣経済下で行われていたソ連式計画経済がなぜ交換経済的要素を排除し切れず、計画経済としては規律を欠いた中途半端なものに終始したかも理解されるのである。

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奴隷の世界歴史(連載第48回)

2018-04-29 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制②:エジプト
 古代エジプト(特に古王国時代以降)は周知のピラミッドや壮麗な神殿などの巨大建造物の宝庫であるが、その影にはそれら巨大建造物の築造作業に当たった膨大な建設作業員の存在が想定される。古代エジプト王ファラオはそれだけの労働力を動員する権能を備えていたことはたしかである。
 その作業員たちの身分属性については、古代ギリシャの史家ヘロドトスや聖書の記述に影響され、奴隷とみなされてきたが、近年は奴隷説を否定し、専門技術者が存在したとか、農閑期の農民を動員したなどの修正説が盛んである。
 こうした古代エジプトのイメージアップには近年における考古学的研究成果が一定反映されていることは認められるとしても、重機が存在しない時代における巨大建造物の築造が相当な重労働だったことは間違いなく、厳重な監督下に行なわれた末端労働は実態として隷役であっただろう。
 このように古代エジプトの奴隷制に曖昧な点がつきまとうのは、同時代のエジプト史料上の用語が不安定かつ多義的なせいのようである。しかし、あえて分類整理すれば、真の奴隷と債務奴隷、強制労働者の三種に大別できるとされる。
 真の奴隷の多くは戦争捕虜であり、エジプトの対外戦争が増発するにつれて増加した。特にピラミッド建設が本格的に開始された第四王朝創始者スネフェル―彼の息子が「ギザの大ピラミッド」建造者クフ―の時代には、ヌビア人やリビア人を大量に奴隷化した記録がある。
 戦争捕虜は王の所有物とされ、主に兵士や警護官、鉱山労働者として投入されたほか、神殿や貴族などに下賜されることもあった。しかし、古代ローマのように農業労働に投入されることはなかったと見られる。王はこうした奴隷の配分や下賜の権限を保持していた。
 債務奴隷は古代中世に至るまで世界に広く見られた奴隷の一形態であり、債務返済の代償でもあった。債務を負っておらずとも、貧困ゆえに自ら身売りして奴隷となる貧困奴隷も債務奴隷に準じた形態である。こうした私的な奴隷売買は市場を通じて行なわれたが、取引は地方官の面前で監督された。
 三つ目は強制労働者であり、ピラミッド建設のような国家プロジェクトに従事したのは、かれらと見られる。ピラミッド建設に代表されるような大規模プロジェクトを好んだ古代エジプトは、強制労働者を組織的に徴用・配分する人身配分庁なる官庁も備えていた。
 こうした強制労働は古代東アジア律令制下の租税制度であった租庸調の庸(徭役)に類似した一種の税制とみなすこともできるが、古代エジプトの強制労働には報酬が支払われており、その点では賃金労働の萌芽と理解する余地もある。ただ、巨大建造物築造のような労働内容の過酷さに鑑みれば、実質的には奴隷制に近いと解釈する余地も十分にあろう。
 古代エジプトではメソポタミアのハンムラビ法典に匹敵するような体系的な法典が検出されていないため、奴隷の法的地位や奴隷をめぐる法律関係の詳細は不明であるが、断片的な事実は再現できる。
 それによると、奴隷には食糧が支給されたほか、財産を所有することができるなど、その待遇は懲罰的な神殿奴隷を除き、比較的良かったと見られている。また児童の奴隷化自体は認められていたが、児童奴隷を過酷な肉体労働に従事させてはならないという規制の存在は、児童労働保護の先駆としても注目される。

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貨幣経済史黒書(連載第11回)

2018-04-22 | 〆貨幣経済史黒書

File10:元禄バブルと正徳デフレ

 日本の貨幣経済は江戸幕府が金銀銅の各貨幣を統一し、いわゆる三貨制度を確立したことで本格的に展開されるようになった。中でも当時世界最大級だった佐渡金山と石見銀山が貨幣素材を産出提供する幕府直轄鉱山として機能していたが、乱採掘により17世紀末の元禄時代には生産量が落ち込んでいた。
 他方、江戸時代前期の日本は有数の貴金属の輸出国として、貿易を通じて金銀銅が海外へ流出していた。幕府の「鎖国」政策の目的の一つは貿易を制限することで貴金属の大量流出を防ぐことにもあったが、それでも蟻の一穴と言うべき長崎貿易を通じて海外流出を止めることは難しかった。
 その結果、元禄時代には市中の貨幣流通量が限界に達する反面、国内貨幣経済の発展は貨幣需要を増大させ、そのギャップがデフレーションを招来しつつあった。皮肉にも、時の将軍・徳川綱吉による放漫財政がデフレ抑止効果を果たしたが、それは当然にも幕府の財政赤字を累積させていた。
 そのような微妙な転換期に幕府の財政政策を担う勘定奉行に抜擢されたのが、荻原重秀であった。小旗本出自の彼がこの地位に抜擢されたきっかけは、佐渡奉行として衰退しつつあった佐渡金山の生産力回復で実績を上げたことが大きかっただろう。
 荻原の貨幣政策は極めて単純で、貨幣量を増やす代わりに貨幣価値を切り下げるということに尽きる。すなわち、従来江戸貨幣の基準貨であった慶長金/銀を改悪して、元禄金/銀を鋳造したのである。引用の形で伝えられる荻原の名言「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」は、端的に彼のポリシーを言い表している。
 このように国の信用下に発行された貨幣ならば、瓦礫であってもよいとする信用貨幣論は現在でこそ常識だが、金銀銅の貨幣素材に価値を認める実物貨幣が(世界的にも)主流だった当代には、先駆的な意義を持っていた。
 このように悪貨によって貨幣価値を切り下げる政策は貨幣の実質流通量を増やし、インフレーションを招いた。その規模については史料の限界から評価は分かれるが、豪商が退蔵していた貨幣の価値が下落したことで、商人層は貯蓄から投資へと動き、貨幣支出が増えるバブル的好景気に沸くこととなった。
 元禄時代の華美な町人文化は、こうして政策的に作り出された政策バブルであった。それは幕府の財政難の軽減にもいっときつながったことで、こうした通貨リフレーション政策を高評価する向きもあるが、宝永の大地震とそれに続く富士山の大噴火という自然災害がすべてを打ち砕いた。
 荻原はまたしても貨幣改鋳で対応しようとし、いっそう質を落とした宝永金/銀を発行したが、今度は大幅なインフレーションによる景気悪化を招来することとなった。元禄バブルの崩壊である。荻原自身、銀座と癒着して独断で改鋳を行なっていたことも発覚し、新将軍・徳川家宜の下で台頭してきた新井白石の画策により解任に追い込まれたのである。
 白石は「悪貨は天災地変を招く」との儒教的な価値観から、一転して貨幣の質を慶長金/銀のレベルに戻した正徳金/銀を鋳造した。これはインフレーションの緊急的な抑制には寄与したと見られるが、市中の貨幣需要に対応できず、デフレーションによる景気低迷を招き、最終的には白石の失脚にもつながるのである。

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持続可能的計画経済論(連載第2回)

2018-04-16 | 〆持続可能的計画経済論

第1章 計画経済とは何か

(1)計画経済と市場経済
 計画経済について考える場合、計画経済とは何かということを初めに確定しておく必要があるが、実のところ、それが容易でない。
 計画経済というと「社会主義」が連想されるが、計画経済と社会主義は決して同義ではない。実際、今日の中国は「社会主義市場経済」を標榜し、社会主義と市場経済を結合させようとしているし、現代の社会主義体制は程度の差はあれ、みな市場経済への適応を指向している。
 また計画経済と統制経済とが同一視されることもあるが、これも適切な把握とは言えない。統制経済はしばしば戦時には政府が戦争遂行に必要な物資を集中的に調達する目的から体制の標榜を超えて導入され、資本主義体制の枠内でも戦時統制経済を取ることが可能なことは、例えば世界大戦中の戦時統制経済を見てもわかる。
 ただ、計画経済では通常は政府が策定する経済計画に基づき生産と流通が規制されるため、市場経済に比べれば「統制」の要素が強くなることは否めないが、それでも統制経済と計画経済は概念上区別されなければならない。
 一方、市場経済は計画経済の反対語とみなされているが、両者は通常考えられているほどに対立する概念ではない。市場経済を標榜していても、政府の経済介入の権限が広汎に及ぶ場合は計画性を帯びてくるし、また市場原理によって修正された計画経済もあり得るからである。
 前者―計画的市場経済―の実例は先の社会主義市場経済である。ここでは政府の経済計画は維持されるものの、本来の計画経済のような規範性がなく、それは経済活動の総ガイドライン的な意義にとどまる。またある時期までの戦後日本経済は、政府の経済企画と行政指導を通じた「指導された資本主義」という性格が強かったが、これも社会主義市場経済よりはゆるやかながら計画的市場経済の亜種とも言えた。
 後者の市場的計画経済の実例は多くはないが、旧ユーゴスラビアの「自主管理社会主義」はその例に数えられる。ここでは労働者自身が経営に携わるとされる自主管理企業間に一定の競争関係が見られた。また1960年以降の経済改革で利潤原理が一部導入された旧ソ連経済も、ユーゴよりは限定的ながら市場的計画経済の亜種であった。
 かくして計画経済と市場経済の概念的区別も決して厳格ではないのだが、一点、計画経済に必ずなくてはならない要件は、公式かつ規範性を持った経済計画に基づいて経済運営がなされるということである。先の計画的市場経済が市場経済であって計画経済でないのは、そこでの経済計画ないし企画は規範性を持たないからである。
 なお、そうした規範性を持った経済計画が経済活動の全般に及ぶか―包括的計画経済―、それとも基幹産業分野に限られるか―重点的計画経済―という点は政策選択の問題となる。

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持続可能的計画経済論(連載第1回)

2018-04-16 | 〆持続可能的計画経済論

まえがき

 本連載は2013‐14年に公表した旧稿『新計画経済論序説』を改題のうえ、実質的に改訂したものである。旧稿は筆者の『共産論』の中核を成す共産主義的計画経済の概要をより敷衍して論じたものであったが、旧稿ではなお「序説」の段階にとどまっていた。しかし、その後の考察を経て、いちおうの完成の域に達したことから、ここに改題して改めて公表するものである。構成や内容に根本的な変化はないが、一部用語を改め、かつ説明を補正した。なお、表題の「持続可能的」(sustainable)とは、環境的持続可能性を指向する計画経済という本連載の主意からの命名である。


序言

 計画経済は、資本主義的市場経済に対するオルタナティブとして、20世紀に社会主義を標榜したソヴィエト連邦によって初めて実践され、その後、ソ連の衛星諸国やその影響下諸国の間で急速に広まったが、同世紀末のソ連邦解体後、今日までにほぼ姿を消した。その意味では、計画経済は20世紀史の中の失敗に終わった一社会実験であるとも言える。
 しかし、20世紀的計画経済とはあくまでもソ連邦という一体制が実践した一つの計画経済―ソ連式計画経済―にすぎない。ソ連式計画経済が失敗に終わった原因については―本当に「計画経済」だったのかどうかも含め―検証が必要であるが、それだけが唯一無二の計画経済なのではない。むしろ真の計画経済はいまだ発明されていないとさえ言える。
 現時点では、市場経済があたかも唯一可能な経済体制であるかのような宣伝がなされ、世界の主流はそうした信念で固まっているように見える。だが、その一方で、市場経済は打ち続く世界規模での経済危機、国際及び国内両面での貧困を伴う生活格差の拡大といった内部的な矛盾に加え、地球環境の悪化という人類の生存に関わる外部的な問題も引き起こしている。
 こうした有害事象は口では慨嘆されながらも、まばゆい光である市場経済に伴う影の部分として容認されている。地球環境問題に関しては待ったなしの警告を発する識者たちでも、市場経済そのものの転換には決して踏む込もうとしない。あたかも「環境的に持続可能な市場経済」が存在するかのごとくである。
 だが、目下喫緊の課題とされている地球温暖化抑制のための温室効果ガス規制にしても、市場経済は真に効果的な解決策を見出してはいない。市場経済システムを温存するためには、生産活動そのものの直接的な規制には踏み込めないからである。
 地球温暖化に限らず、資源枯渇も含めた地球環境問題全般を包括的に解決するためには、生産活動そのものを量的にも質的にもコントロール可能な計画経済システムが必要である。そういう新しい観点からの計画経済論はいまだ自覚的に提起されているとは言えない。
 景気循環に伴う経済危機や格差問題の解決も重要であるが、そうした問題に対しては市場経済論内部にも一応の「対策」がないではない。だが、それらも決してスムーズには実現されないだろう。そうした問題の解決のためにも、計画経済が再考されなければならない。
 計画経済にはその実際的なシステム設計や政治制度との関係など、ソ連式計画経済では解決できなかった様々な難題も控えている。とはいえ、計画経済の成功的な再構築は、言葉だけにとどまらない環境的に持続可能かつ社会的に公正な未来社会への展望を開く鍵となるものと確信する。

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奴隷の世界歴史(連載第47回)

2018-04-15 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制①:メソポタミア
 前章では古代ギリシャ・ローマの奴隷制に焦点を当てたが、あえて時代を過去へ逆にたどる構成を採ってきた本連載の最終章となる本章では、古代ギリシャ・ローマより遡る古代国家における奴隷制の諸相を概観する。国家と奴隷制の結びつきの起源を探る試みである。
 古代国家と言えば、「文明」の創始と結びつけられて美化的に語られることが多い。実際、そのような開明的な側面も認められることはたしかであるが、その裏には他人を隷属させて労役を課す奴隷制の創始という暗黒面も認められる。「文明」の持つもう一つの顔である。
 「文明」の発祥地と言えば、在来の通説に従う限り、メソポタミア地方であり、中でも当地に最初の文明的都市国家を築いたと目されるシュメール文明が嚆矢であるが、今日では死語となったシュメール語には奴隷を意味するイル(男性奴隷)/ゲメ(女性奴隷)という対語が存在していた。
 これらの奴隷には、戦争捕虜として連行された者の他に、商人から購入された者もあり、奴隷制の根本的な骨格はすでに「文明」創始期から出揃っていたことがわかる。ただし、奴隷労働力が生産活動全般を担うことはなく、奴隷は専ら家内奴隷として家事・家内生産に動員されていた。
 シュメール文明を征服・継承してメソポタミアに最初の統一国家を一時的に築いたアッカド帝国の時代に「自由民/奴隷」という初歩的な身分制が整備されたと見られるが、奴隷は家畜同様に売買される身分ながら、独立して生計を立てたり、解放されて半自由民となることもできるなど、柔軟性があった。
 後にシュメール都市国家を再建したウル第三王朝創始者ウル・ナンム王が制定した現存する世界最古の成文法であるウル・ナンム法典(紀元前2100年乃至2050年頃)には奴隷に関する規定が数か条搭載されており、中でも逃亡奴隷の捕縛者に報奨金を出す奴隷の逃亡抑止のための規定の存在は、奴隷制が単なる社会慣習から法制度に昇華されたことを示している。
 続いてこの地の覇者となり、かつ精緻な法典を制定して文明国家を発展させたのがバビロニアであるが、中でも有名なハンムラビ王が制定したハンムラビ法典は奴隷に関する詳細な規定を擁する。おそらく、これは体系的な奴隷法制としては史料的に現存する最古のものであろう。
 そこでは奴隷の逃亡幇助が死罪とされ、奴隷の逃亡抑止がいっそう厳格に図られている。さらに奴隷は宮殿台帳に登録されるとともに、奴隷には刻印を義務づけ、それを抹消する行為も死罪とされるなど、奴隷の国家管理が明確にされている。
 とはいえ、バビロニアの奴隷制もやはり家内奴隷を中心とする限定的な制度である。後代の新バビロニア時代になると、神殿に所有され神殿の雑務に従事する神殿奴隷や、王室に従属する王室奴隷などのカテゴリーが誕生するが、それらも広い意味では神殿なり王室なりの「家内労働」に当たる家内奴隷と言い得る存在であった。

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貨幣経済史黒書(連載第10回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File9:ミシシッピ・バブル事件

 英国の南海バブル事件と同時期に並行する形で、海を越えたフランスでも同様のバブル事件が起きていた。バブルの舞台となった貿易会社ミシシッピ会社にちなんで「ミシシッピ・バブル」とも呼ばれるこの事象の発端と問題の金融スキームは南海バブルとよく似ている。
 異なるのは、フランスではジョン・ローという特定の人物が明確に主導したことである。ローは元賭博師のスコットランド人銀行家・経済理論家であり、ルイ14世の死去後、ルイ15世の治世初期の摂政オルレアン公フィリップ2世に招聘され、財政再建を委ねられたのである。
 ミシシッピ会社はフランスの北アメリカ領土と西インド諸島との貿易を独占する国策会社としてルイ14世時代の1684年に設立されていたが、14世時代のフランスは対外戦争と王の浪費癖により極度の財政赤字に陥っており、ミシシッピ会社も経営破綻寸前であった。
 ローが目を付けたのが、破綻寸前のミシシッピ会社であった。彼は1717年、これを西方会社と改称、北アメリカ・西インド諸島との25年間の貿易独占権を獲得したうえに、東インド会社などの既存貿易会社も合併したインド会社なる独占貿易会社へと急拡大したのである。
 従って、正確には「インド会社バブル」と呼ぶべきかもしれないが、インド会社の業務の中心がミシシッピ流域のルイジアナ植民地の開発・貿易事業―ミシシッピ計画―にあったことから、「ミシシッピ・バブル」の通称が与えられている。
 インド会社はローの肝いりで設立した王立銀行(現フランス銀行)まで傘下に入れ、短期間で一大総合企業グループに成長したのであるが、中核事業である貿易業務は振るわなかった。しかし、本質的に投機家であったローは巧みな宣伝活動によってインド会社株の購入を煽り立てたのであった。
 ローはインド会社株の新規発行を続け、株購入資金を傘下の王立銀行から貸し付ける信用取引を強力に推奨した。ローの見込みによれば、この信用取引を通じて政府の信用保証がある不換紙幣を増発し、政府債務(国債)をインド会社株式に転換すれば、財政赤字を解消できるというのだった。こ
 国債を株式に転換するスキーム自体は、先行の英国の南洋会社と同様であり、影響関係も想定される。違いは、このように王立銀行まで傘下に入れて信用取引を煽るというより投機性の強い博打的やり方にあった。しかし、それは信用性が低く市場価格が低迷していたフランス国債を高い額面価格でインド会社の株式に転換するという無謀な計画であった。
 当初はこの方法で政府の全債務をインド会社株式に転化することに成功し、政府は株主となった債権者に対して、利息配当の形で返済していった。この間、1719年には、インド会社株価は500リーブルから1万リーブルへと急騰する。この発行価格の数十倍という異常な株価高騰は、インド会社の業績には全く見合わないものであった
 1720年、ついに信用不安が発生し、パニックに陥った株主は所有株の一斉売却に走った。本位貨幣と交換できない不換紙幣もあだとなり、翌年、インド会社株は暴落、会社は経営破綻に追い込まれた。株主には信用取引の債務だけが残された。
 ローは解任された後、国外へ亡命し、貧困のうちに客死した。こうしてミシシッピ・バブルは終わったが、このバブルは実態の不確かな未開地開発計画も絡む一種の証券詐欺事件と見ることもでき、今日なら刑事事件として立件されることもあり得た国家的詐欺事件であろう。

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貨幣経済史黒書(連載第9回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File8:南海バブル事件

 17世紀オランダの「チューリップ・バブル」はごく単純な商品投機バブルであったが、より複雑な国策金融会社が絡んだ大規模なバブル事件は、オランダの後を追い、金融大国にのし上がろうとしていた18世紀初頭の英国で発生した。
 南海会社という国策金融会社を舞台としたため、「南海泡沫事件」の名でも知られるこのバブル事件の発端は、当時の英国政府が財政赤字解決のために創始した巧妙な金融スキームにあった。それは、1711年に南アメリカ大陸方面との貿易を独占する勅許会社として設立された南海会社に国債を引き受けさせ、公的債務を整理するというものであった。
 折りしも、スペインとの戦争で有利に講和した1713年ユトレヒト条約に基づいて獲得した西インド諸島との奴隷貿易の権利(アシエント)を行使して南海会社の貿易事業が軌道に乗れば、債務整理のスキームも成功するはずだった。
 ところが、元来アシエントの割当が不足していたことや、従来からの海賊による密貿易の存続、さらには再びスペインとの関係が悪化し、四か国同盟戦争に突入したことなどの諸事情から南海会社の業績は不振であった。そこで1718年に富くじ発行という苦肉策に出たところこれが大当たりし、さらに翌年にはイングランド銀行との入札競争に勝ち、国債と南海会社株を交換する権利を得た。
 これは、英国債と南海会社株を等価交換することで、南海会社の増資を水増しし、南海会社株の株価を吊り上げていくという投機ゲーム的な危うい金融スキームによっていた。しかし、資本主義勃興期の当時、余剰資金の投資先を探していた中産階級にとっては、魅惑的な金融投資とみなされ、空前の南海会社投資ブームが発生した。
 実際、1720年には南海会社の株価は100ポンドから1000ポンドへと一挙に10倍に跳ね上がった。つられて、他の会社株も高騰、南海会社と同様のスキームを持つ無許可の投機目的会社も乱立され、市況は過熱状態になった。危機感を抱いた当局は、泡沫会社規制法を制定し、政策介入を試みた。
 こうした沈静化措置も影響して、20年末から21年にかけて南海会社株価は暴落した。バブルがはじけたのである。破産者や自殺者が続出する事態に、政府は調査に乗り出した。これを指揮したのが、英国の「初代首相」と目されているロバート・ウォルポールだった。
 調査の過程では、南海会社重役の不正や政治家の収賄の疑いも浮上したが、鍵を握ると見られる会社の会計主任が逃亡先ベルギーで拘束されたものの送還されず、うやむやに終わった。政界や王室まで巻き込む疑獄に発展しかねないことを恐れたウォルポールが真相究明より会計監査などの再発防止策を優先させたせいと見られている。
 南海会社の設立を主導したのはウォルポールの政敵でもあった時の大蔵卿ロバート・ハーレーだったが、彼は南海会社の金融投機スキームが本格的に始動する前の14年には失脚・解任され、バブルがはじけた時には引退しており、直接の責任を問われることはなかった。
 南海バブル事件は証券取引所と証券監督行政が未整備だった近世の事件であるが、自らも投資し大損したアイザック・ニュートンの「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」という反省の弁に見られる株式取引の投機性という本質自体は今も変わらない。

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民衆会議/世界共同体論[改訂版]・総目次

2018-04-04 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事をご覧いただけます。


改訂版まえがき&序言
 ページ1

第1章 「真の民主主義」を求めて

(1)民主主義の深化 ページ2
(2)直接民主主義の不能性 
ページ3
(3)国家は民主的でない ページ4
(4)民主主義と共産主義 ページ5

第2章 民衆会議の理念

(1)民衆主権論 ページ6
(2)半直接的代議制 ページ7
(3)民衆会議と議会の異同 ページ8
(4)民衆会議とソヴィエトの異同 ページ9

第3章 民衆会議の組織各論①

(1)全土民衆会議と地方民衆会議 ページ10
(2)二つの類型:連合型と統合型 ページ11
(3)民衆会議の基本構制 ページ12
(4)全土民衆会議の組織構制 ページ13
(5)地方民衆会議の組織構制 ページ14

第4章 民衆会議の組織各論②

(1)総合的施政機関 ページ15
(2)民衆会議の立法機能 ページ16
(3)民衆会議の行政機能 ページ17
(4)民衆会議の司法機能 ページ18
(5)民衆会議と経済計画 ページ19

第5章 民衆会議代議員の地位

(1)代議員免許 ページ20
(2)代議員の抽選及び任期 ページ21
(3)代議員の諸権利及び義務 ページ22
(4)特別代議員 
ページ23
(5)民際代議員 ページ24

第6章 世界共同体の理念

(1)国家なき世界へ ページ25
(2)民族自決から人類共決へ ページ26
(3)恒久平和の機構 ページ27
(4)グローバル民主主義 ページ28

第7章 世界共同体の組織各論①

(1)世界共同体と領域圏  ページ29
(2)世界民衆会議 
ページ30
(3)世界共同体と汎域圏 ページ31
(4)汎域圏代表者会議 ページ32

第8章 世界共同体の組織各論②

(1)非官僚制的運営 ページ33
(2)主要機関と専門機関 ページ34(改訂中につき、非表示)
(3)紛争解決機関 ページ35
(4)民際共同武力 ページ36
(5)人権保障機関 ページ37(改訂中につき、非表示)
(6)世界共同体協商機関 ページ38

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民衆会議/世界共同体論(連載最終回)

2018-04-03 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第8章 世界共同体の組織各論②

(6)世界共同体協商機関
 世界共同体(世共)は、主権国家の連合体にすぎない国際連合や欧州連合などとは異なり、排他的な主権国家体制を止揚して成立する地球規模の統治機関である。従って、国益を第一に追求する排他的な主権国家間の駆け引きで成り立つ外交活動というものがそもそも存在しなくなる。
 より具体的には、主権国家が外交特権を保持する外交官を交換的に派遣し合って外交活動を行なう伝統的なやり方は廃される。また主権国家の外交事務を仕切り、外交官の派遣元となる外交官庁(外務省)も廃止される。
 それに代わり、世共を大きな枠として、その内部で世共と構成領域圏間、または世共をはさんで構成領域圏間での政治経済的な各種調整―協商―が行なわれるのである。ここに言う協商とは、歴史用語で「三国協商」などと言うときの「協商」とは意味が異なり、各種の調整的な協議活動そのものを指している。
 そうした協商活動を取り持つ機関として、各領域圏に世共の代表機関(世界共同体代表部)が設置される。世共代表部は一名の駐在代表及び二名の副代表と事務局で構成され、世共と構成領域圏間の協商業務に当たる。世共代表は派遣先領域圏の出身者の中から世共事務局長によって任命され、事務局長の代理者としての地位を有する。
 しかし、世共駐在代表は外交特権を有しないため、派遣先領域圏で犯罪を犯せば当該領域圏の法律により処理されるが、身柄を拘束するに際しては、次に述べる領域圏民衆会議協商委員会の同意を要する。
 領域圏民衆会議協商委員会は、世共の協商相手方窓口となる組織である。この委員会は民衆会議の常任委員会として設置され、議会の外交委員会に相当するような性格を持つが、その任務はまさに協商そのものであって、言わば議会外交委員会と外務省を併せたような複合的な任務を負う。民衆会議協商委員長は外務大臣に匹敵する地位を持つ。
 なお、以前の回で見たように、各領域圏は世共に対し大使代議員を派遣するが、世共に各領域圏の代表機関は設置されない。その点は、現行国連に加盟各国の代表部が設置されるのはちょうど逆向きの形になる。ただし、領域圏大使代議員の事務を所掌する小規模な事務所は設置される。

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