ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第461回)

2022-07-19 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(4)エジプト革命

〈4‐2〉チュニジア民衆革命の波及
 2011年エジプト革命は、近隣での革命が直接に波及してくる連続革命の典型的な事例であった。エジプトのムバーラク政権も軍人出自大統領の権威主義的な長期体制であって、チュニジアのベン・アリ政権との共通点が少なくなかったことも、革命の波及を助長しただろう。
 実際、エジプトでも、チュニジアのベン・アリ政権が崩壊した1月14日以降、抗議行動が始まり、チュ二ジア革命の端緒と同様に抗議の焼身自殺が相次ぐなど、類似の情勢が発現するが、野党の対抗力はチュニジア同様弱かったため、当初は2008年に結成された4月6日運動のような青年運動が主導した。
 これに対するムバーラク政権は、青年運動が駆使するインターネット通信の遮断や集会禁止措置などの強硬策で応じたが、1月25日の大規模なデモを阻止することはできなかった。29日にはムバーラクがテレビ演説で全閣僚の解任や経済改革の約束とともに、9月に予定される大統領選挙への立候補を取りやめることを公約したが、当面の辞職は拒否した。
 こうした政権居座りに反発した民衆は2月以降、さらに抗議行動を継続するが、老獪なムバーラクも元来弱体な野党を取り込み、与野党共同の憲法改正協議機関の設置を約束するなど、時間稼ぎをして抗議行動の懐柔を図っていた。
 こうした政権の巧妙な延命策のため、エジプトでの革命の経緯は、チュニジアとは相当異なるものとなった。大統領の退陣拒否の姿勢は強かったが、2月11日に全国で最大規模の100万人が参加するデモが発生すると、ついに辞職し、軍に全権を移譲する旨を副大統領を通じて発表した。

〈4‐3〉軍の政権掌握から民政移管まで
 こうして、ムバーラクは大統領を辞職したものの、国内にはとどまっており、ムバーラク政権の権力基盤でもあった軍に政権を移譲したことは、海外亡命・刑事訴追に追い込まれたチュニジアのベン・アリの二の舞を避けるためのムバーラクの巧妙な自衛策とも言え、革命としては失敗の部類のはずであった。
 ところが、民衆の間では大統領の辞職をもって「革命の成功」ととらえる認識が強く、2月18日には「革命勝利集会」が開催された。しかし、政権を掌握した軍最高評議会は憲法の停止と議会の解散を宣言し、半年以内の憲法改正国民投票と新憲法下での大統領及び議会の各選挙が実施されるまで評議会が政権を保持するとして、軍事政権を正当化した。
 とはいえ、軍事政権は政治犯の釈放や非合法野党の合法化を進め、3月には大統領任期の縮小を軸とする憲法修正案を国民投票で可決させるなど、最小限度の改革には踏み込んだ。しかし、治安情勢などを理由に民政移管が遅滞することに対し、民政移管要求デモが相次いだ。
 結局、明けて2012年1月にようやく議会選挙が実施され、イスラーム主義の新党・自由公正党が第一党に躍進する結果となるとともに、大統領選挙では6月の決選投票で同じく自由公正党のムハンマド・ムルシーが当選した。
 こうして、2011年エジプト革命は、軍政をはさんでイスラーム主義政権の成立というエジプト現代史上の転換点を迎えることとなった。ある意味では革命的結末とも言えるが、1952年共和革命以来、政治的な影響力を保つ世俗主義的な軍部と世俗主義勢力にとっては苦い事態であったことが、間もなく軍事クーデターによる反転の伏線となる。


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