ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

沖縄/北海道小史(連載第10回)

2014-01-30 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代(続)

【12】琉球併合と皇民化
 明治維新は、幕末の動乱を免れた南の辺境・琉球王国にも大きな転換をもたらした。明治政府は1871年の廃藩置県でいったん琉球王国を新設された鹿児島県の管轄としたが、翌年には琉球藩を設置し、時の国王・尚泰を藩王かつ日本の華族に叙した。
 明治政府は、台湾に漂着した琉球御用船員らが台湾先住民に殺害された一件等への責任追及を名目とした74年の台湾侵攻後の有利な情勢を利用し、従来、中国清朝と日本の双方に二重統属してきた琉球を日本の支配下に一元化することを狙い、琉球に対し清との冊封関係の断絶と日本の元号使用、王の上京などを求めた。しかし清との歴史的な関係を重視する琉球側が拒否し続けたことから、79年、政府は武官を擁した処分官を琉球に派遣し、武断的に廃藩置県を布告した。
 かくして日本の地方行政体としての沖縄県が設置され、独自王国としての琉球王国は終焉したのであった。ここまでのプロセスは、17世紀の薩摩藩侵攻時のような軍事作戦による侵略ではなかったため、日本史上は「琉球処分」という行政措置的な表現で言い表されるが、実際のところ、これは明治政府による力を背景とした「琉球併合」にほかならなかった。
 ちなみに、初代沖縄県令・鍋島直彬は最後の旧肥前鹿島藩主であった。この点、北海道の初代開拓長官を短期間務めた旧佐賀藩主・鍋島直正も同じ鍋島一族(宗家)の出であり、ここに明治初期の南北両辺境の行政をともに九州の土豪大名出身の鍋島家が担うという一致があった。
 こうして沖縄は正式に日本領土内に併合されたのであるが、元来独自の王国であったがゆえに、併合直後に旧王族士族の反乱事件などもあり、初代鍋島県政では要職を本土人で固めつつも、さしあたり旧慣温存の方針が採られた。
 だが、1890年代になると、封建的な土地改革や参政権要求、議会開設など、沖縄人自身による内発的な近代化運動も起きる中、政府はようやく沖縄近代化に着手する。それでも、例えば地方議会の設置は北海道では1901年であったのに対し、沖縄では09年にずれこむなど、北の辺境・北海道と比べても沖縄近代化の歩みは遅かった。
 こうした近代化政策は当然にも「皇民化」を伴うものであったから、沖縄伝統の宗教体系の抑圧排除と国家神道の強制が実施された。とりわけ日清戦争で日本が勝利し、沖縄の日本領有が国際法上も明確にされて以降、沖縄皇民化政策は徹底された。
 中央主導の沖縄近代化政策の中でも封建的な土地制度の改革は農民の生活改善に資する面もあったが、本土の地租改正と同様に農民の租税負担を増した。産業開発の面では、農業中心でめぼしい潜在産業に乏しいことから、換金作物として普及し始めたサトウキビをベースとした製糖業を除いて高度な工業化は難しく、本土資本の展開も地場資本の育成も進展せず、経済的には苦しい状況が続く。
 こうした状況は、日本が第一次世界大戦の勝者として旧ドイツ領の太平洋諸島(南洋諸島)を委任統治領として獲得すると、南洋諸島への沖縄移民を急増させ、沖縄をして全国随一の移民送り出し県とすることになったのだった。
 このように、沖縄はいったん内部的に日本に併合された後、経済的に従属・周縁化され、今度はそこから外部的に排出されてもいくという矛盾の中に置かれるのである。

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沖縄/北海道小史(連載第9回)

2014-01-20 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代(続)

【11】北海道開拓と同化・隔離
 1868年、明治維新が成ると北海道の旧松前藩領には当初、館藩が置かれた。館藩知事には、箱館に来襲した榎本武揚の旧幕府派軍勢によっていったんは津軽に追われていた旧松前藩主の松前家が復権する形で就任した。
 しかし71年、廃藩置県により館藩は2年ほどで廃藩となり、松前家の北海道支配も完全に終焉する。館藩はいったん館県となった直後、本州側の弘前県に合併された。他方で、明治新政府は北方開拓のため、69年という早い時期に開発行政機関として開拓使を設置し、旧エゾ地の開拓に着手していた。
 72年には北海道全域が開拓使の管轄下に編入され、北海道開拓が本格化する。特に74年から開拓使廃止直前の82年まで開拓長官の座にあった後の内閣総理大臣・黒田清隆の時代に、北海道開拓の基礎が築かれた。
 そこでの基本方針は明治維新政府の大方針である近代化ということに尽きるが、その手段として処女地・北海道では本州から移民を導入して、まずは農業開発に当たらせるという方法が採られた。同時に、北辺防備策を兼ねて屯田兵制度を創設し、本州から旧武士層の士族を授産を兼ねて屯田兵として移入させた。
 こうした北海道移民は全国規模に及び、再び中世の渡党以来の和人勢力移住の波が起きたわけだが、今度のそれは中央政府の政策によって移入された農業者である点、その移入人口が大量だった点に大きな違いがある。
 明治政府の北海道農業開発は当初、寒冷気候を考慮して大規模畑作が目指されたが、明治中期になると品質改良などの技術進歩により、江戸時代にはほとんどできなかった米作が発達し、明治末期には官民一体での米作開発が推進された結果、北海道は全国有数の米作地帯となる。
 平行して資源開発も推進された。中でも石狩と釧路を二大拠点とする石炭産業は長く北海道の主産業であり続け、下って昭和前期以降は金・銀・銅・鉛・亜鉛などの鉱業開発も進んだ。工業の面では、ビール製造に始まり、製紙、造船、製鉄などが順次発達し、それに伴う建設業の発展も見られ、北海道は勃興してきた近代資本にとっても広大な草刈場となるのである。
 初期の北海道における資本労働は、屯田兵の労力を補うものとして導入され、多くの犠牲を出した囚人労働が中止された後、いわゆるタコ部屋労働によって展開され、女工労働と並び、劣悪な搾取労働の象徴となった。また時代下って、日露戦争で勝利した日本が北洋漁業の権益を獲得すると、工場を兼ねた水産加工船が導入され、小林多喜二の『蟹工船』で取材されたような過酷な搾取労働が横行した。
 こうした明治政府の北海道開拓の裏には、処女地・北海道を「内なる植民地」として開発するという理念があった。それは同時に、旧エゾ地の住民であるアイヌに対する強制同化・隔離政策を伴っていた。
 同化政策はすでに幕末の幕府直轄統治時代に先鞭がつけられていたが、なお不徹底であった。開拓使が廃止された後、86年に北海道庁が設置されると、アイヌに対しては固有文化を抑圧する同化とともに、強制移住のような隔離も強化された。そうしたアイヌ政策の基本法として99年には北海道旧土人保護法が制定された。
 この法律に顕現した政府の対アイヌ政策は、授産・医療・教育などの面での一定の「保護」と引き換えに、アイヌ固有の土地や伝統文化を剥奪・制限するという両義的なものであり、アイヌを少数民族そのものとして保護するという趣旨のものではなかった。従って、学校教育は日本人と別枠の隔離教育とされた。こうしてアイヌ民族社会が崩壊する中、かれらは日本人道民から隔離された被差別民族として周縁化されていった。
 このような政策の下、北海道の日本化・近代的開発が大きく進展していく一方で、中央政府のアイヌ政策が表面上は民族回復へと転換された現代に至ってもなお容易に抜き難いアイヌに対する差別が構造化されていくのである。

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乗っ取られた「脱原発」

2014-01-15 | 時評

細川、小泉という20年前、10年前の元総理二人による突然の都知事選「脱原発タッグ」は、従来革新派のシンボルであった「脱原発」までが保守勢力に乗っ取られた事実を示している。

総理在任中はともに原発推進の立場だった二人の老公が突如「脱原発」をぶち上げて保守勢力を分裂させようとしていることには、最近後継者らから軽んじられていることへの老公二人の不満だけでなく、それなりの政治的な背景が隠されていると考えられる。

本質的には保守主義者であり、エコロジズムとは無縁の二人が「脱原発」という緑色の看板の裏に隠し持っているのは、電力自由化というエネルギー経済政策である。これは、小泉政権のシンボルでもあった郵政民営化とも共通する新自由主義的なアイテムである。

もっとも、日本の電力各社はすべて株式会社形態ではあるが、各々が地域独占企業として無競争の特権を与えられた準国策会社であるので、ここでの「自由化」とはそうした地域独占体制の解体を意味する。

それにしても、従来あまり共通点がないかに見えた奇妙な元総理連合ではあるが、そうでもない。細川が結党した旧日本新党は、いくぶん曖昧ながら新自由主義のさきがけ的な政党であったし、短命に終わった細川内閣最大の「成果」である衆議院小選挙区制導入は、革新政党の弱体化に加え、その性質である地すべり効果の恩恵により10年後の郵政解散総選挙で小泉政権圧勝をもたらした技術的な仕掛けでもあった。

拙論でも論じたように、93年の非自民系細川内閣こそは、今日にまで至る戦後日本史の「逆走」を加速化させ、それをいっそう急進化させた小泉政権にもつながる突破口だったのである。一見唐突に見える奇妙な元総理連合には、そうした歴史的な符合性がある。

元総理連合の参戦により14年都知事選をめぐって保守勢力が分裂する形にはなるが、大局から見れば、保守勢力の一部が「脱原発」を乗っ取ることで、大震災後の反原発世論の風を利用して「脱原発」を軸に緑の党なども含む革新勢力が蘇生することを阻止する効果もあり、保守支配層にとって、この分裂は必ずしもマイナスとはならないだろう。

情けないのは、大震災後の二つの国政選挙でも世論の変化を有利に活用することができず、「脱原発」をまんまと盗み取られてしまった革新側の戦略的無策である。

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沖縄/北海道小史(連載第8回)

2014-01-14 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代

【10】幕末の両辺境
 
 17‐18世紀の沖縄/北海道の両辺境はそれぞれの仕方で幕藩体制に組み込まれ、程度の差はあれ、日本型の封建社会化が進んでいったわけだが、幕末が近づくにつれ、列強の接近に伴う幕藩体制の動揺の波が最初に押し寄せたのは、両辺境であった。
 最初の徴候は、北辺に現れた。18世紀半ば頃から、南下政策を追求していた帝政ロシアが千島列島のアイヌを介する形で、日本との通交を求めるようになってきたのだった。1795年のロシア特使ラクスマンの根室来航及び1804年のレザノフの長崎来航はそのハイライトであった。
 これに対し、対ロシア防衛の必要を痛感した幕府は、当初松前藩がロシア人来航の事実を幕府に報告せず、等閑視する態度を取ったことや、放蕩をもって悪名高かった時の第8代藩主・松前道広への不信もあり、エゾ地の直轄化を図り、1799年に東エゾ地を仮上知したのを皮切りに、1807年には松前藩そのものを陸奥梁川藩へ転封処分とした。 
 こうして旧松前藩領を直轄化して本格的にエゾ地経営に乗り出した幕府は、松前藩とは異なり、アイヌを蛮族とみなし、和人化する政策に転じた。これは、アイヌに対する強制同化政策の最初の一歩であった。
 米作に頼れない松前藩はアイヌ交易で成り立っていたから、アイヌ社会を維持しつつ、政治的統合を抑圧統制する政策を採ったが、幕府はアイヌに対するロシアの影響を排除する目的から、和人への同化に重点を置いたのであった。
 この間、松前藩は復領運動に努め、幕府側でも直轄統治の負担がかさむと1821年、幕府は政策を転換し、いったん松前藩を旧領に復したうえ、陣屋持ちだった同藩に初めて築城を命じて北辺警備の任を負わせるが、54年、日米和親条約締結という一大政策転換を機に、またも幕府の北辺政策が変化する。幕府は55年、再び松前藩領を直轄化するのである。こうしてアイヌ交易の利権も奪われた松前藩は、築城の出費もあり、窮乏した。
 ただ、時の第12代藩主・松前崇広は開明的であり、幕府の信任厚く、要職を経て64年には松前氏としては初の老中に抜擢された。その際、一部旧領の返還も実現し、松前藩は復権するかに見えたが、兵庫開港問題をめぐり開港を強行した崇広が朝廷及び将軍後見職・一橋慶喜と衝突して罷免・蟄居となった末、66年に病没すると、病弱な後継藩主の下、家臣間の対立からクーデターが発生するなど、藩政は混乱を極めた。
 結局、北方辺境領主・松前氏は幕末の北辺政策の二転三転により翻弄された末、維新の混乱の中で凋落していったのである。
 一方、南の辺境・琉球では、中国側宗主が明から清に交替したことを除けば、19世紀半ばに至るまで決定的な大変動は見られなかった。一大転機となるのは、1854年のアメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーの那覇来航であった。本州の浦賀に先立つ最初の黒船来航である。
 ペリーは王国側の拒絶を押し切って琉球上陸を強行し、首里城に入城する。この時点で、琉球は米国側と修好する意思はなかったが、結局、54年3月に日本との間で日米和親条約が締結されたのに続き、7月には琉米修好条約の締結に至り、那覇が開港された。
 このように、アメリカが日本開国を迫る前提として、当初から琉球に注目し、琉球を戦略的な足がかりにしようとしていたことは、今日に至るアメリカの東アジア政策で沖縄の占める位置を考える上でも、参考になるであろう。
 琉球はこの後、日本と並行する形でフランス、オランダと相次いで修好条約を締結し、日本とともに西欧列強との不平等な外交関係を余儀なくされていく。
 とはいえ、中国清朝と幕藩体制の薩摩藩への二重統属という立場を維持しながら、琉球王国がこうした外交関係を独自に結び得たことは、準独立国としての琉球王国の独異な地位を表している。従ってまた、琉球王国は北辺の松前藩のように幕末の動乱に直接巻き込まれることもなく、比較的平穏に維新を迎えている。
 他方、琉球の日本側宗主であった薩摩藩は、周知のとおり、琉球経由密貿易で蓄積した利益などを基盤に、単なる南の辺境領主を超えた幕末の雄藩となり、若手下級藩士を中心に討幕運動の主役としても勇躍し、明治維新を主導して新政府の支配層に座るという松前藩とは対照的な道をたどった。

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沖縄/北海道小史(連載第7回)

2014-01-04 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行(続)

【9】薩摩藩の琉球支配
 北海道で渡党武将らによる封建化が進行していた頃、南の琉球王国では、第二尚氏王朝の下で独自の封建社会が発展していた。16世紀はその全盛期であり、同世紀後半には奄美大島まで版図を拡大した。その歴史的進路が大きく変化するのは、17世紀初頭の1609年、薩摩藩の武力侵攻を受け、降伏した時である。
 成立したばかりの幕藩体制の下で、北の辺境領主であった松前氏に対し、南の辺境領主というべき地位にあった薩摩藩主・島津氏は元来、渡来系平安貴族・惟宗氏の末裔とされる武将であり、早くから薩摩に土着し、戦国時代を生き延びて幕藩体制下では南端の薩摩藩を安堵されていたのだった。
 その島津氏が突然琉球へ侵攻した理由として、江戸幕府成立直前、仙台に漂着した琉球船を徳川家康が保護・送還したことへの謝恩使の派遣要求を琉球側が再三拒否したことへの征伐とするのが通説である。
 しかし、元来は友好関係にあった琉球と島津氏の間では、16世紀末頃からすでに使節の接遇や島津氏も協力した豊臣秀吉の朝鮮侵攻への琉球の消極的態度などをめぐる外交的な摩擦が生じ始めていた。
 そこへ、発足当初の薩摩藩は初代藩主・忠恒(家久)の父で先代当主・義弘が関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に独断で加担したために家康からは好感されていなかったことや、藩財政も苦境に陥っていたことなどの諸事情が絡み、初代藩主として藩の安定化に腐心していた家久が先の琉球船問題にかこつけて琉球の付庸化を企図したというのが真相と考えられる。
 琉球側は第7代尚寧王の時代であったが、基本的に貿易国家であった琉球では軍備増強が行われてこなかったことから、3000人の軍勢で侵攻してきた薩摩藩を撃退できるだけの軍事力は保持していなかった。とはいえ、当初はゲリラ戦的な抵抗の構えも見せたが、現実主義者であった尚寧王は抵抗継続の道を選ばなかった。尚寧王は捕虜としていったん江戸に連行され、奄美大島については薩摩藩に割譲、琉球本島も以後、薩摩藩に従属することになる。
 薩摩藩は当初、琉球に対して厳しい軍事的な占領統治で望んだが、次第に支配内容を緩和していった。薩摩藩にとっては琉明貿易上の利益を吸い上げることが中心的な狙いであり、完全に琉球を藩領に併合することは想定していなかったのである。
 他方で、こうした一定の自治が認められた間接支配関係の中で、琉球では引き続き明、続いて清からの冊封を受けつつ、薩摩藩を通じて幕藩体制にも統属するという形で日中から二重の封建的支配を受けることが一貫した外交方針となった。このような二重支配下で、琉球王国では独自の伝統を保持しながらも、日本の影響を受けた士農分離などの「改革」が進められ、徐々に日本型の封建社会に近づいていく。

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沖縄/北海道小史(連載第6回)

2014-01-03 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行(続)

【8】松前藩のアイヌ支配
 コシャマインの蜂起の鎮定以後、蠣崎氏は実力を伸ばし、安東氏に臣従しつつ道南地域の現地総督的な地位にのし上がっていく。特に信広の孫・義広の代には、再びアイヌの大規模な蜂起を鎮定して安東氏の信頼を強め、渡党第一人者としての地位を確立、その子の季広の代には安東氏をはじめとする有力家と縁戚関係を結び、もはや渡党にとどまらない戦国武将として自立化の動きを見せた。
 季広の子・慶広は戦国時代にあって豊臣秀吉、次いで徳川家康に巧みに取り入って渡島領主としての地位を認証され、松前と改姓した。この頃、本来の主家・安東氏は秋田に拠点を移し、長く分立していた二家を統合して秋田氏を名乗るようになっており、松前慶広は安東氏からも独立して道南の封建領主としての地位を確立する。
 家康が江戸幕府を開くと、慶広は家康から家臣として認められ、黒印状を得てアイヌ交易の独占権を獲得することに成功した。そのため、慶広をもって初代松前藩主に数えるが、この時点での松前氏の扱いはいまだ厳密には大名とは言えず、辺境の島主にすぎなかった。第5代藩主松前矩広の晩年になってようやく一万石格の大名に昇格するが、幕末になるまで無城の陣屋持ち大名であった。
 こうして成立した松前藩主・松前氏の役割は幕藩体制下の北辺の辺境領主というもので、実際北方防備の任務を持っていた。このことが、幕末、列強ロシアの接近に伴い、松前藩を政治的にも困難な立場に追い込んでいく伏線となる。
 一方、松前藩の物質的な基盤は挙げて商業、特にアイヌ交易に置かれた。これは渡党時代からの伝統であると同時に、当時の農業技術では米作が不可能であった北海道の地理的条件からして必然的なものでもあった。そのため、松前藩は自らも官船を出して交易を行うほか、家臣の知行も商場を与えて交易権を分与するという形で行われた点で、他に例を見ない独異な藩であった。言わば重商主義的な政策を採ったのである。
 18世紀以降は、交易権を与えられた請負商人の上納金(運上金)に依存する場所請負制が確立され、商業資本の発達が他藩に先駆けて促進された。この結果、アイヌは和人経営の漁場で労働者として使役されることも多くなった。
 藩は直接的な支配が及びにくいエゾ地のアイヌに対してはその政治的統合を阻止する分断政策で臨んだ。1669年のアイヌ族長シャクシャインの武装蜂起を鎮定して以降もアイヌに対しては服従強制と武断的な統制策を基本としたが、一方で藩財政の生命線であるアイヌ交易を維持するため、民族浄化・強制同化政策は避けたため、アイヌ社会の伝統は松前藩の支配下で長く保持される結果となった。  

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沖縄/北海道小史(連載第5回)

2014-01-02 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行

【7】道南和人支配の始まり
 北海道でアイヌ社会が形成・確立されていくと、アイヌ勢力との商取引関係を持つ有力な和人も増えていった。そうした和人商人の中には、道南地域に定住し、武士化する者も現れた。やがて渡党と呼ばれるようになったかれらは、中央の支配が十分に及んでいなかった道南に館―いわゆる道南十二館―を築き、武将としてしのぎを削るようになる。
 しかし鎌倉幕府の支配力が全国的に及ぶようになると、道南渡党らも津軽地方の土豪もしくは中央派遣の武将で、エゾの統制を委ねられていた安東氏の管轄下に置かれるようになる。安東氏は室町時代も生き延びるが、15世紀前半、南部氏に本拠の津軽を追われると道南に移転し、1456年には配下の有力渡党の中から三名を守護に抜擢し、道南支配を強化した。
 この措置の翌57年に、アイヌの有力族長コシャマインが武装蜂起した。この事件は一和人と一アイヌの口論がきっかけとされるが、タイミングから見ると、安東氏による一方的な道南支配強化による何らかの利害関係の変化が和人と取引関係にあったアイヌ勢力に動揺を与えたことも背景にあったと考えられる。
 いずれにせよ、一時は十二館の大半を落とされるなど窮地に陥ったこの大事変を鎮圧するに当たっては、先に安東氏から守護に任ぜられていた花沢館主・蠣崎季繁の婿養子・武田(蠣崎)信広の功績が大きかった。後の大名・松前氏の実質的な祖となる信広は、義父と同様、若狭武田氏の一族とされ、若狭から移住し、当時は花沢館主・蠣崎氏の客将であったところ、その能力を認められて家督を継いだとされるが、義父ともども武田氏流というのは仮冒の疑いが強い。
 義父の蠣崎季繁も若狭から移住して安東氏の娘婿となるという同様の経歴を持つことからすると、かれらはともに若狭方面から流れてきた商人の出自を持つ渡党にすぎなかったと考えられる。
 ちなみに、本来の蠣崎氏は陸奥で安東氏に取って代わった南部氏の家臣で、陸奥の田名部に拠点を置く武将であったが、コシャマインの蜂起が起きた57年に蠣崎蔵人信純が主君・南部氏に対して反乱を起こして追討され、エゾ地へ逃れるという事件があった。
 この陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏の関係については不明であり、武田信広ははじめ陸奥に移住し、南部氏から田名部の蠣崎という地の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗ったとする史料もあり、錯綜している。
 仮に、陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏が同一とすれば、南部氏に追われて敗走してきた信純と信広は同一人物で、彼は花沢館にかくまわれたが、折からのコシャマインの蜂起を鎮定して安東氏の信頼を勝ち得、安東氏の縁戚でもあった花沢館主の家督を継ぎ、安東氏被官として改名・再生したという大胆な推理も可能であろう。この場合、信広が当初武田姓を名乗ったのは、陸奥蠣崎氏が元来武田姓だったことによるものだろう。 
 いずれにせよ、安東氏の支配下で道南に割拠していた渡党の中から蠣崎氏がコシャマイン事変後、急速に実力を伸ばし、やがて自立化した戦国大名・松前氏へと成長していくのである。

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年頭雑感2014

2014-01-01 | 年頭雑感

一昨年から前年度の漢字をもとに年頭に当たっての雑感を記してきたが、2011年は「絆」、12年は「金」ときて、昨年の漢字は五輪の「輪」だという。

大震災の年は精神主義路線で「絆」になったが、翌年には「金」、そしてまさに金の生る五輪誘致に成功して「輪」と、瞬く間に物質主義路線に完全復帰したようである。それが資本主義的な“復興”の意味なのだろう。

だが、今や商業体育の祭典のロゴマークのようになってしまった五輪の「輪」には、五大陸の連合という近代五輪創始者の理想が込められていた。五大陸を象徴する五色の輪が部分交差しながらつながる紋章は、すべてを一色に統合してしまうイメージの「和」とは異なり、異質のものが違いを保ったまま「輪」になるという趣意で、相互の差異を認め合いながらつながる多様性の中の連合という思想に通ずる。

しかし、現実には五輪自体が事実上参加国間のメダル獲得競争とスポンサー資本・メディア資本の商戦の場と化している。また五輪思想の政治版とも言うべき国際連合も統合力を欠き、ばらばらの主権国家首脳らの顔見世パーティーの儀式となりつつある。

五大陸はそれぞれの大陸やその周辺地域内ですら輪になれず、ばらばらである。その最たる地域が目下の東アジアである。この地域には、最大国中国を筆頭に、日本、韓国、朝鮮、台湾のまさに五つの統治主体が存在するが―極東までせり出すロシアを加えれば六つ―、それぞれが国益を主張し合い、互いに反発を招くような国家行為を繰り出し、対話も途絶しているため、もはや冷戦状態にある。

東アジアの五主体はいずれも東洋系の漢字文化圏として共通するものがあり、本来まさに「五輪」の連合も可能な条件を備えているにもかかわらず、歴史の過程でそれぞれがイデオロギーや歴史観を異にする異質の政治体制を取り、米ソ冷戦時代には所属陣営間で分断された過去をひきずるため、まとまりが悪い面はある。それにしても、このところの緊張関係は尋常ではない。

残念ながら、こうした緊張を緩和する実際的な糸口は今年も容易には見えてこないだろう。しかし、「和」ならぬ「輪」の思想は、緊張をほぐすうえで有用な改善薬にはなるはずである。

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