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近代革命の社会力学(連載第128回)

2020-07-22 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(2)民族主義と社会主義の交錯
 フィンランドの1918年未遂革命は、長くロシアの実質的な植民地支配を受けた歴史とロシア支配下で急速な工業化が進展する中で、ロシアからの独立を目指す民族主義と労働者階級の解放を志向する社会主義の潮流が交錯する渦中で勃発した出来事である。
 前者の民族主義にはかなり長い前段階がある。古くは、1848年の第二次欧州連続革命の余波としてフィンランドにも民族主義の最初の芽が生じたが、顕在化したのは、1850年代のクリミア戦争後である。ただ、この時期の民族主義はスウェーデンと交戦したロシアに敵愾心を抱くスウェーデン支配時代の名残であるスウェーデン系知識人を中心とするものであった。
 1904年、自治権剥奪とロシア化政策に傾斜したニコライ2世治下のフィンランド総督としてロシア化政策の先鋒となったニコライ・ポブリコフ総督を暗殺したオイゲン・シャウマンも、スウェーデン系フィンランド人の軍人家庭の出自であった。
 当時のフィンランドでは、こうしたスウェーデン系フィンランド人が社会上層を占めており、土着のフィンランド人は伝統的な農民か、19世紀末の工業化の中で労働者階級を形成するようになっていた。こうした土着フィンランド人もロシアからの独立を希求はしていたが、それは社会主義的な志向においてであった。
 1899年に結党されたフィンランド社会民主党は、そうしたフィンランド社会主義運動の最初の核となった。同党は、後にボリシェヴィキが分岐することになるロシア側の社会民主労働者党とほぼ同時期に結党されたカウンターパートとなるべき党であった。
 同党は普通選挙制が導入された1906年までは議会外政党にとどまったが、その後、議会で伸張し、1916年総選挙では比較第一党に躍進した。ところが、ロシア十月革命後、フィンランド議会が独立宣言した直後の総選挙では一転して第一党の座を失った。このことが、急進派の革命的蜂起につながった。
 この背後にあったのは、スウェーデン系のブルジョワ民族主義勢力と土着フィンランド人系の社会主義勢力の対立構図であった。このように、ブルジョワ対プロレタリアの対立に、スウェーデン支配時代以来の民族対立がかぶさる構図は、帝政ロシア支配時代にはさしあたり民族主義という大枠に隠されていたが、ロシア革命に伴い、あっさり独立を達成したことで、とみに顕在化してきたと言える。
 この民族別階級対立関係は、革命派赤衛軍の司令官に土着フィンランド人アレクシ・アールトネンが就き、反革命派白衛軍の司令官にスウェーデン系のカール・マンネルヘイムが就くというように、内戦当事勢力両トップの顔ぶれにもはっきりと表れた。
 実際のところ、赤衛軍側要人には若干のスウェーデン系も含まれてはいたが、大半は土着フィンランド人であったのに対し、白衛軍側要人はスウェーデン系で固められており、このことがスウェーデンとドイツの支援を受けて内戦を優位に戦う鍵となった。


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