ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

年頭雑感2024

2024-01-01 | 年頭雑感

昨年最大の世界的な出来事は、中東ガザ戦争の勃発であることに異論はあるまい。同時に、これは今年も持ち越されて最大級の出来事になるだろう。対戦当事者はどちらも和平に向かう意思がなく、どちらかが滅亡するまで総力戦を続ける所存のようだからである。

この間、イスラエルは優位に立っているように見えるが、実際のところ、迷路のような地下通路が張り巡らされたハマースの地下要塞を攻めあぐねており、地上を壊滅させることで相手をあぶり出す作戦を取っているように見える。結果として、地上で大量犠牲者が出ているばかりか、救出すべきイスラエル人の人質にまで被害が及んでいる。

イスラエルがリスクの高い地下要塞攻めをためらい、地上壊滅作戦を継続すれば、意図しているとは言えなくとも、結果的にガザは更地となり、住民も排除されてジェノサイドに等しい事態となるが、第二次冷戦下にある分断された国際社会には、それを阻止するだけの力量はないだろう。

その第二次冷戦の契機となった一昨年来のウクライナ戦争も、解決の糸口は見えない。西側はウクライナ支持を口にしつつ、ウクライナに資金と兵器を供与して代理戦争を続けてきたが、ウクライナ軍単独でロシアを撃破することには無理があり、このままではウクライナでの戦争被害は拡大するばかりである。だが、西側首脳たちには、あえてロシアに宣戦布告して「欧州大戦」に発展させるような蛮勇はなさそうである。

一方、昨年の地球規模での最大事象と言えば、観測史上最も暑い夏、最も暑い日、最も暑い年というワースト「三冠」記録を達成する見込みとなったことである。その大きな要因として、昨年から続くパンデミック後のリバウンド過熱経済が拡大し、生産活動が極大化したことが想定される。化石燃料からの世界炭素排出量も過去最高を記録したことはそれを裏書きする。
 
その結果、地球環境の損傷にいっそうの拍車がかかった。地球環境の損傷は根治的に対処しなければ確実に進行して死に至る慢性疾患であるから、昨年は病気の進行度がさらに上がった年と言えるだろう。

しかし、世界の主流は依然として資本主義に固執し、それ以外のシステムを思考することすらしないから、地球の病気の進行を止める根治的な対策を打つ機運も生じない。昨年のCOP28での「エネルギーシステムにおける化石燃料からの漸次脱却」合意を含め、病気の進行を遅らせる対処を策しているに過ぎないから―その実効性すら怪しいが―、最終的な地球の死を防ぐことはできない。

外部環境的には資本主義はすでに終末期にあると言えるが、資本主義は強力な生命維持装置を装着したシステムであるから、本人や家族の同意なく生命維持装置の撤去はされないように、世界の大半の人々の同意なくして資本主義の生命維持装置も撤去されない。資本主義システムは今年もよろしく生き続けるだろう。

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年頭雑感2023

2023-01-01 | 年頭雑感

昨年は、ロシアによるウクライナ侵攻を主たる契機に、先の第一次冷戦が終結して三十余年ぶりに地球の東西が分断される第二次冷戦が開始された。その意味で、2022年は21世紀最初の四半世紀における画期点であったと言える。

これに伴い、第一次冷戦当時とは異なり、すでにグローバル規模に拡大していた資本主義にも打撃が加わり、パンデミックによる混乱からの回復基調を吹き飛ばすグローバルなインフレーションを惹起した。結果として、生活難も世界規模で拡大し、生活経済は破綻状態である。

他方、地球環境はパンデミックによる一時的な生産の総停止状態からの反動で、かえって急激な回復生産に向かったことにより悪化し、環境破壊は猛暑と大寒波という極端な寒暖差を伴う異常気象現象を症状とする慢性進行疾患のように固定化されている。それに伴う環境難民も増加していくだろう。

資本主義―その本質である貨幣経済―は、生活経済及び環境経済という視座から見る限り、すでに終わっている。そして、現今のグローバル規模での生活破綻や環境破壊には、主権国家という矮小かつ排他的な政治単位ではもはや対処できない。

その点に関連して、筆者は2018年の本欄で、「長期的には56パーセントの確率をもって人類は(主権国家を持たない)共産主義社会の建設に向かうと予測する。」と記したが、現状に鑑みると、この革命発生予測確率を5ポイント上昇させて、61パーセントに引き上げておきたい。

とはいえ、現状、資本主義と主権国家という二つのキー概念は、世界の大半の人々にとって、単なるイデオロギーを超えた無意識レベルに埋め込まれてしまっており、その転覆を思考すること自体を妨げていることは否定できない。資本(貨幣)と国家(権力)は、言わば強力な麻酔に匹敵する。

革命とは言うまでもなく自然現象ではなく、人間の意志的かつ集団的な行動であるから、意識の覚醒と覚悟とを必要とする。現状はそうした革命の主意的な条件を欠いているため、如上61パーセントは名目確率であり、実質確率はまだ50パーセントに満たないだろう。

資本(貨幣)と国家(権力)という二つの強力な麻酔から覚めるためには、単なる啓発とか啓蒙といった表層レベルの対応では足りず、生物的進化のレベルで、生物としての人類のさらなる進化を促進することが必要かもしれない。

そうした意味では、資本と国家にとらわれ、堂々巡りの思考に終始する現生人類の大半は生物的進化が止まった旧人類と呼ばざるを得ない。それに対して、いち早く資本と国家の麻酔から覚める人々は新人類と呼ぶに値するだろう。

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年頭雑感2022

2022-01-01 | 年頭雑感

パンデミック3年目に突入した本年には、これまで経験したことがないほどに、ほとんど更新感がない。現状では、今年中にパンデミック終息宣言が出る目途も立たないだろう。この間、世界の資本主義経済は、恐慌のように激しいクラッシュこそ見せていないが、言わば遅効性の毒が全身に回るような形で、確実にダメージを進行させている。

そうした目に見えないダメージは、経済活動の最末端に垣間見える。筆者の地元でも少なからぬ小店舗が廃業し、あるいは別の店舗に変わったりと、目に見える形での状況悪化が進行している。こうした零細資本は、経済悪化の直撃を最初に受けるからである。

このままさらに何年もパンデミック状態が継続するならば、資本主義経済には回復不能なほどの致命的なダメージが加わり、革命などなくとも、自然に朽ちていくだろう。コミュニストにとっては望むところであるが、資本主義者にとっては何とかして避けたい事態であろう。

それなのに、資本主義経済の保障人であるはずの政治が、ウイルス初発時のパニック・モードを解除して経済正常化を急ごうとせず、新たな変異ウイルスが拡散するたびに、恒例となったロックダウンなどの非常措置へ走りたがるのは、いささか不可解である。

その最も単純かつ穏当な理由として、出口戦略の鍵とみなされていたワクチンの有効性に早くも限界が現れ、ワクチン防御を突破するような変異ウイルスが出現したことで、出鼻をくじかれたことがある。これは、人智をあざ笑うかのようなウイルス側の生存戦略のせいである。

それとも関連する政治的な理由として、政治家が公衆衛生家に一部権力を事実上移譲してしまったことがある。今や、かれらの勅許がなければ、パニック・モードを解除することもできず、公衆衛生家が国内/国際政治を代行しているに等しい状況である。これは、対策の失敗の責任を負いたくない政治家にとっては、好都合な部分的権力移譲なのだろう。

もう一つのより深層的な理由としては、パンデミックを理由とする公衆衛生非常措置やワクチン接種義務化など、平常時では独裁体制でない限り得られないような強大な権力を得られる旨味の味をしめたということが考えられる。その点、現行法制上強力な非常措置を取れない日本では、改憲論議に結び付けられているのも、そうした傾向の日本的な表れである。

さらなる深層的な理由は、多くの業界にとってダメージとなるパンデミック下にあっても収益増に沸いている業界との結託関係である。この火事場泥棒的な業界として、ワクチンの開発・販売利益や治療薬の開発・増産による利益で潤う製薬業界や、巣籠もり需要の急増に沸く通販業界や運送業界など、かなりある。政治がこれら業界に寄生することで新たな汁を吸えるということに目ざとく気付いた可能性もある。

このように、パンデミックの継続は悪いことばかりではないようなのだ。「パンデミック政治経済」のような奇妙な利益複合体が形成されつつあるのかもしれない。そのような形での“新しい資本主義”とやらが誕生するのか、それとも、それは所詮、資本主義経済末期に咲く最後のあだ花に過ぎないのか。これが、今年の個人的な見極めとなる。

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年頭雑感2021

2021-01-01 | 年頭雑感

昨年は、新型コロナ・ウイルスに終始する異常な一年となった。ウイルスが年末には南極にも達し、地球の全大陸を制覇した。そればかりか、この微小な目に見えない構造体が、まるでエイリアンのように、外部から革命に近い激減を人間の生存場に及ぼそうとしている。

人間の生存場を建物に擬して、地盤(環境)‐土台(経済)‐上部構造(政治)の三層に分けて考えると、人間の生存の基盤となる地盤(環境)に対しては、約一年に及ぶ主要な生産・流通活動の縮小と人間の移動の自粛により、二酸化炭素排出量の大幅減という近年にない環境的な激変が見られた。

ただ、この激変はあくまでも感染防止策の適用による結果にすぎず、喉元過ぎれば熱さ忘れるの格言どおり、パンデミックが収束すれば、すみやかに元に戻るだろう。人間の心理には、現状を変更したくないという「一貫性の法則」が働く。パンデミックによって攪乱された元の大量生産・大量流通・大量消費‐廃棄の経済システムを変更したくないのである。

土台(経済)に関しては、過去30年のグローバルな経済的スタンダードとなっていた資本主義が大きく揺さぶられている。特に、全世界的なレベルでの外出・移動の制限・自粛は、現代資本主義の基軸である各種サービス産業分野に打撃を与え、結果として大不況を作り出している。言わば、現代資本主義の心臓部をウイルスが直撃しているわけで、その余波は長期に及ぶだろう。

ここでも、「一貫性の法則」が働き、資本主義指導層は、拙速に開発されたワクチン接種を急ぎ、「集団免疫」を獲得して、いち早く原状回復しようとしているところであるが、ワクチンの計画的な生産と供給というある種の計画経済の技術が歴史の彼方に忘却されてしまっている現在、果たしてワクチン接種が安全性を担保しつつ、どこまで迅速に進むかは不透明である。おそらく、ワクチンの確保・接種の国際競争が生じ、国ごと、さらに個人ごとにも明暗を分けるかもしれない。

上部構造(政治)に関しては、人々の日常行動を平素から管理・制約する全体主義国家ほど、強硬な感染予防策を適用して、感染拡大を抑え込むことに成功している。その点で、中国と米国が著しく明暗を分けているのは、象徴的である。

一方、自由主義標榜諸国でも、国家緊急権の法理を適用して、外出・集会の制限といった社会統制を強化する戒厳派と、ウイルスを過小評価して事実上放置する放任派とに分かれた。何が両者を分けているのかと言うと、資本主義経済防衛の意志の強さと共に、政府が持つ権限如何によるように見える。

例えば、米国のトランプ政権が放任政策を採っているのは、資本家出自で、資本主義防衛の意志が強いトランプ大統領の指向とともに、連邦制の合衆国大統領は、感染症対策に関する強力な権限を持たないことによるのだろう。その反面、小さな邦である州の知事に大きな権限があり、州レベルでは、戒厳派も少なくない。

戒厳派諸国(州)では日頃、自由を強調していながら、感染予防策として、○○人以上の集会の禁止など、政府の決定一つで全体主義国家さながらの人権制約措置が打ち出されたことが、人々にショックを与えた。これにより、標榜されてきた自由主義の内実が暴露されたとも言える。実は大義名分を掲げれば、政府は簡単に自由を奪うことができるという真実が明るみに出たのである。言わば、自由剥奪の予行演習。結果として、自由主義と全体主義の収斂現象が起きている。

さて、今年の展望であるが、地球支配層としては、地盤(環境)と土台(経済)に加えられている激変―地球環境の修復と資本主義の縮退―は望ましくないので、ワクチンという科学の魔法の力にすがって原状回復を進めるだろう。しかし、上部構造に起きている変化―自由の制限―は、権力にとって有益な面があると気づき、何らかの方法で維持しようとするかもしれない。

その結果を建物に擬して示すと、再び壊れゆく地球環境という地盤の中に回復された資本主義の土台の上に、自由を制限する管理主義的な国家が再築されるといった形になる。これは、楽観的だった過去30年間よりも、かなり守勢に回った資本主義防衛体制になると言えるだろう。

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年頭雑感2020

2020-01-01 | 年頭雑感

当ブログは本年度をもって開始から足掛け10年目の節目を迎えることになるが、西暦上の本年度は2020年代の初年度に当たる。新たな10か年の始まりである。

振り返って、2010年代とはどのような10か年だったか。始まりは2010年ハイチ大震災、翌年の東日本大震災というともに万単位の死者を出す連続震災という凶事であった。2001年代の始まりが01年の9.11同時多発テロ事件であったのと同様、どうも21世紀前半の10か年は多数の犠牲者を出す凶事で始まる傾向性がある。

経済的な面では、2010年代は2008年世界大不況の余韻が残る中で不穏に始まったものの、結局のところ、資本主義の根本構造が再検討されるようなことはなく、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のたとえとおり、再び振り子が元に戻っていった観がある。

2010年にGDPで世界第二位に立った中国は、共産主義からはますます遠ざかり、社会主義市場経済を越えて資本主義への合流の道を驀進し、軍事力の増強によっても、かつての米ソ二大超大国に匹敵する米中二大基軸が形成されたのが2010年代である。

両国はさしあたり貿易戦争という形で経済的に張り合っているが、しかし、中国の経済動向が2010年代末に陰りを見せる反面、米国はトランプ大統領の情緒不安定な政権運営のゆえに、2020年代の米中が文字通りの「二大超大国」となるかどうかは不透明である。

一方、従来、資本主義的に取り残されていた観のある中東・アフリカ地域にまで資本主義市場経済化が及ぶ中で、人口増の圧力から大量の移民が欧州に押し寄せ、これに対抗する反移民ポピュリスト政党/扇動政治家が欧州各国で躍進した。こうした反移民政治は、グローバル資本主義が肥大化することに反比例して、各国で台頭する排他的な「自国第一主義」の動向とも結びついている。

その英国的象徴が、欧州連合離脱である。この国は、今月末にも予定される連合離脱を経て、2020年代大英帝国再興の夢の実現に向かうようである。「アメリカ第一」を高調しつつ、歴史的な憲法を超越し、米国では前例のないファシズムに近い個人崇拝政治を繰り広げるトランプ政権も同種の流れにある。

また、「自国第一」をあえて掲げるまでもなく、自国第一が体質化されている日本では、国風元号改正を経て、一党集中政を達成した安倍政権の史上最長記録が更新され、さらに継続する兆しさえ見せている。

このような土台構造=国境を越えるグローバル資本主義、上部構造=国境を閉ざす自国第一主義という上下の奇妙なねじれ構造は、2020年代初頭の基調となるものと予想される。

他方、気候変動問題に関しては、各地で熱帯低気圧や熱波の被害が続き、森林火災の常態化といった異常気象が目立ち始める中、反環境政権としての性格を持つアメリカのトランプ政権によるパリ協定離脱という反動が惹起された。とはいえ、正統的環境保護派も資本主義市場経済への疑問は封印し、相変わらず「環境と市場の両立」テーゼに固執している状況である。

2010年代の経済的な面での動きは限定的な反面、政治的な面では激動があった。アラブ諸国で民衆蜂起が同時発生したが、一部を除き革命としては失敗に終わり、かえって援助国の介入によりリビア内戦、シリア内戦、イエメン内戦といった凄惨な連続内戦の引き金となり、これらすべてが2020年代持ち越し案件である。

また、アラブ世界では、2010年代半ばに暴虐なファシズム集団イスラーム国の台頭と支配という激動があった。これは例によって米国の軍事介入により昨年までに打倒・排除され、2020年代持ち越し案件とはならなかったものの、組織再生ないしは派生組織の出現可能性までは排除されていない。

このような援助国が介入する内戦の多発化も2010年代の特色であり、旧ソ連を清算したロシアの覇権主義的な「復活」に伴う旧ソ連構成国ウクライナの侵食、それをめぐるウクライナ政府とロシアが支援するロシア系武装組織との内戦もその一つである。こちらは2010年代末に双方歩み寄りの兆しを見せたが、なお予断を許さない状況である。

こうした内戦とともに、大規模な民衆デモが世界に拡散したことも、2010年代の特色であった。とりわけ香港ではデモがほぼ恒常化したまま年越しという事態となっている。また、それらとは別筋のデモとして、青少年の反気候変動デモという波動も2010年代後期に隆起した。おそらく、これら民衆デモの波も2020年代に持ち越されるだろう。

ただ、こうした民衆デモの世界拡散が全般的な世界連続革命にまでつながる要素は乏しいと見る。この問題については、より特化された論評を要するため、稿を改めることにし、ここでの結びは次のことである。

2020年代の中間点2025年は21世紀最初の四半世紀という小さな節目にも当たり、さらに同年以降の第二四半世紀は2050年という大きな節目へのステップに当たる、という意味で、2020年代は21世紀史上架橋的な10か年となる。

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年頭雑感2019

2019-01-01 | 年頭雑感

この年頭雑感も今年でちょうど30回目を迎えた。当ブログ開設以前のものを読み返すと、主連載『共産論』で示した認識には全く到達しておらず、未熟で浅い考察が目立ち、現時点での考えとの明白な齟齬さえも見られるところであるが、筆者の30年来の思考の軌跡をたどる意味でも、恥を忍んで掲載している。

さて、昨年の漢字は、「災」であった。たしかに昨年は寒波に始まり、熱波、台風・ハリケーン、そして火山噴火など、世界中で年末まで様々な自然災害に見舞われた。しかし、このような地球規模での災害多発傾向は近年の常態であり、昨年に限ったことではない。

少なからぬ自然災害の要因と想定されている気候変動に関しては、昨年末ポーランドで開催されたCOP24会合で、産業革命以前と比べ、地球の気温上昇を2度未満に抑制することを2020年以降の目標とした2015年パリ協定の具体的ルール作りで合意した。

とはいえ、元来のパリ協定の目標設定が甘いうえに、2020年以降に先送り、人為的温室効果ガス排出ゼロは21世紀後半まで先送り―事実上の棚上げ―した二重の先送り施策でしかない。しかも、二大排出国の一つアメリカが2020年以降にパリ協定を脱退する段取りの中では、とうてい期待できる成果は上がらないだろう。

いずれにせよ、当ブログで折に触れて述べてきたように、地球を食い尽くすまで最大利潤を競争的に追求せんとする資本主義市場経済と地球環境の保護は根本的に両立しないのであるから、資本主義市場経済を絶対前提とするいかなる「環境対策」も付け焼刃でしかなく、その付け焼刃ですら、容易に折れてしまうだろう。

2010年代最終となる本年の時点で、人類が展望し得る主な選択肢は、三つである。

プランA
;環境より利潤を優先し、地球を食い尽くす

この選択肢は、資本主義市場経済の原理に最も忠実であり、野心的な資本家とその代理人政治家らが追求する道である。この選択肢は最終的に地球の滅亡へつながる道であるから、“その時”に備えて、映画さながらに他の惑星への選別的移住計画を必要とするだろう。

プランB
;環境保全の標語と甘い目標とを掲げ続ける

この選択肢は、環境保全を標榜しながら資本主義市場経済を温存せんとする諸勢力が行く道で、国際連合がその集団指導部である。この選択肢は、不可能を可能と信じる自己欺瞞―あるいは、不可能を知っている偽善か―に基づいているため、成果は上がらないだろう。

プランC
;環境保全を目的とする計画経済に転換する

この選択肢は、最も直截的かつ革命的であるがゆえに、明確にこれを志向する勢力は世界にまだ存在していない。この選択肢を採るには、一国レベルにとどまらない地球規模での根本的な社会革命を必要とするため、失敗リスクを伴う最も困難な道となるだろう。

現在のところ、人類はプランCを論外として思考から排除しつつ、プランAとプランBの間で揺れ動き、両勢力間で綱引きをしている状態であるが、このままではアメリカを味方につけたプランA勢力が最終勝者となるだろう。特に2020年米大統領選でトランプ再選となれば、その可能性は決定的となる。

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年頭雑感2018

2018-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「北」だという。理由はよくわからないが、ある解説によると、北朝鮮のミサイル問題が選字の要因の一つになったという。たしかに、昨年は北朝鮮が軍事的に激しく活動した。その北朝鮮と舌戦を展開したトランプ米政権の発足も「北」の出来事である。

ここ数年持ち越しのイエメン内戦、シリア内戦下での難民飢餓、ミャンマーのロヒンギャ虐殺等々も、おおむね地球の北側(北半球)の出来事であったが、南側もサハラ以南アフリカを中心に種々の苦難に見舞われている。

いずれにしても、昨今はこうした南北の地球的問題をうまく解決する能力を国際社会が喪失していることが問題である。国際連合が機能せず、せいぜい型どおりの非難決議や制裁決議を出すばかりで、実質的な調停や救援の能力を発揮できない。

主権国家の増殖により、国連も200近い加盟国を抱えており、もはや統一的かつ実効的な意思決定をするには多すぎる加盟国数である。そのうえにトランプ政権に象徴されるような自国優先主義の潮流が主要国の間にも広がってきている。南北いずれの懸案も、今年解決するという見込みはない。

皮肉なことに、これら自国優先主義は呼号する「自国」の内部でも移民・少数派排斥政策により社会の分裂と不和を招き、国としての市民保護機能を果たせなくなっているのである。国家というスキームの終焉的な姿が露呈しているわけだが、こうした傾向は今年、一層顕著になるかもしれない。

さて、今年2018年は次の十年である2020年代へ向けてのカウントダウンの年とも言える。当ブログも今年で開設八年目を迎えた。主軸としてきた『共産論』も昨年二度目の改訂を終え、完成版に近づいている。その中で提唱してきた「自由な共産主義社会」へ向けた革命の芽はどの程度見えてきているだろうか。

短期的に見るなら、ほとんど何も見えてこない。それどころか、ますます遠ざかっていくようにも。だが、長期的には56パーセントの確率をもって人類は共産主義社会の建設に向かうと予測する。言い換えれば、残りの44パーセントは向かわない予測となる。

五分五分よりは幾分確率が高い56パーセンテージは微妙に控えめな半端数字であるが、次のような筆者なりの人類観に基づいている。

人類という動物は想像以上に頑固な保守的習性を持つから、資本主義の放棄は容易でなかろうが、今後、環境悪化・生活不安・人間劣化に加え、文明劣化という資本主義の矛盾・桎梏がいっそう表面化すれば、何らかの覚醒的な変化が起こるに違いない。

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年頭雑感2017

2017-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「金」だった。「金」が選ばれるのは、2000年以降で三度目となる。いささかうんざりだが、ある意味では21世紀初頭の現代日本を、さらには世界を象徴する文字なのかもしれない。人類はますます金万能主義にのめりこんでいるからである。

日本では昨年、原発震災から5年を経て、改めて原発避難児童に対するいじめの問題が表面化した。衝撃を覚えるのは、その内実が緊急避難当初以来の放射能忌避的ないじめに加えて、避難者が東電からの賠償金を受給できることにかこつけて多額の金銭をせびり取るたかり行為だったことである。

普通の子どもたち、それも小学生がこうした大人の恐喝まがいの行為に集団で走るのは、子どもの世界でも金万能的な価値観が蔓延していることを裏書きする。近年はマネー教育などと称して、歴史的に形成された数学的な観念にすぎない金銭価値を歴史から切り離し、絶対公理として技術的に教え込もうとするような潮流も見られるようである。これも資本主義のイデオロギー化が進行していることの一つの証であろうが、その中で子どもの世界も金に毒されているのかもしれない。

さらには福祉・医療など人道に関わる分野でも、障碍者施設襲撃テロ、解明は年越しながら病院内での意図的と見られる異物点滴による連続患者殺人疑惑など、信じ難い事件に見舞われた。こうした事象も、本来金銭価値を超えた人道分野でも、金銭価値の浸透による収益至上主義の風潮が現場の士気や初歩的な倫理感覚まで劣化させている可能性が想定される。

世界を見れば、国際的な番狂わせとなったドナルド・トランプの米大統領当選もまた、不動産王の富豪が米大統領に就くという点で、資本主義総本山米国での金と権力の結合をまざまざと見せつける結果となった。ある意味では金万能主義が隠れた国是である米国らしさの現れとも言えるが、今月末発足するトランプ新政権は軍部との結合にも強く傾斜しており、核戦力の強化に走る軍産複合体政権の性格を露にするかもしれない。そうなると、今年の漢字は「核」となりかねない。

一方、一昨年の「世界の漢字」として筆者が勝手に選定した「難」は、残念ながら昨年・今年とまだまだ続くだろう。もっとも、「難」の中心地の一つだったシリアでは、ロシアの軍事介入という荒業により全土停戦が年末駆け込みで成ったが、その過程で生じた目も当てられない人的物的被害は復興に歴史的時間を要する東日本大震災級のものである。

これに対し、トランプは私財を投げ打って難民を助けるのでも、依然として世界随一のアメリカの国富の一部を難民救済に供するのでもなく、入国禁止若しくはそれに準じた制限策をもって難民・移民の流入を阻止するという「米国優先」の独善的な施策に出ようとしている。「壁」も今年の漢字候補かもしれない。

「金」の殿堂である証券取引所ではトランプ・ショックから一転、強烈に金の臭いのするトランプ新大統領を好感して、活況の期待に沸く年初となるようだが、筆者にとっては、また一段と資本主義が限界を露呈する一年となる予感のする年初である。

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年頭雑感2016

2016-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「安」であった。これが選ばれたのは、「安保法制」をめぐる攻防が昨年最大級のイベントだったからのようであるが、たまたま「安保法制」を主導した時の首相の苗字の頭文字とも一致しているので、掛け字のようでもある。

「安」の本来的な意味は安らかということだが、昨年の「安」は決してそのような本義で選ばれたのではなさそうである。むしろ「安」のあり方をめぐって、国内的にも先鋭な対立が生じたことの反映だろう。そういう微妙な選字のせいか、報道もほとんどなされなかったように見える。意図的な報道自粛だとすれば、そこまで報道の自由の減弱が進行していることになる。

それはともかく、「安」をめぐる対立は真の「安」と見せかけの「安」との間で生じている。真の「安」は文字どおり、安らかで泰平であることだが、見せかけの「安」は軍事的な手段で確保される無事のことである。

難民数が過去最高を記録した昨年、世界の漢字を選ぶとすれば、おそらく「難」になるはずであるが、これも後者の見せかけの「安」が生み出した「難」である。

こうした「難」の高まりをめぐっても、二つの「安」の対立は生じ得る。一つはこれを人道問題ととらえ、難民保護の強化を訴える立場であるが、それは見せかけの「安」を脅かすと認識されるので、反対論も盛り上がり、反難民を高調する勢力を勢いづかせるだろう。そこから新たなファシズムが欧米でも派生してくる可能性は十分にある。

本来、人は難民として外国で保護されるのではなく、自分が生まれ育った場所で平穏に生涯を過ごすのが一番の「安」であるが、そのためには真の「安」を脅かす見せかけの「安」を一掃すべきところ、各国の支配層は見せかけの「安」に拠っている。

見せかけの「安」の究極的な狙いは、グローバル資本主義の集大成的な構築という点にある。昨年の「難」も、大きく見れば、そのような晩期資本主義の構造が生み出した生活破壊であり、その大元を再考しない限り、「難」を真の「安」に変えることはできない。しかし残念ながら、今年も世界はそのことに気がつこうとしないだろう。

かくして、毎年の「年頭雑感」が実質上同一の内容に帰するのはさびしい限りだが、それが現実である。「新年」の実感は年々薄れ、前年からさらに後退が進む「更年」としてしか認識できないこの頃である。

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年頭雑感2015

2015-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字に選ばれたのは、「税」であった。「税」が選ばれたのは、言うまでもなく消費増税に絡めてのことである。消費税は現代資本主義国家においてはよくある間接税であり、増税派が引き合いに出すように、欧州では20パーセント前後の税率は常識となっている。

ただ、欧州型消費税は正式には付加価値税と呼ばれ、商品の付加価値に課税するという仕組みが明確であり、納税義務者も末端消費者ではなく、付加価値を生み出す事業者(資本家)である。厳密には一致しないが、マルクス的に言えば資本家が賃労働者を使って生みだす剰余価値に課税する雇用者税の一種となっている。そのため、広く薄く課税するのではなく、付加価値が低い品目では税率軽減ないし非課税とされる。

しかし、日本では付加価値税と呼ばず、端的に消費税と呼ぶのは、納税義務者ではない末端消費者が商品を購入するつど一律に負担するまさしく消費行為にかかる税となっているからである。末端消費者の多くは一般労働者であり、商品の購入費は賃金を原資とすることが多いことを考えると、日本の消費税は理論上間接税でありながら、所得税とは別途、賃金から徴収する直接税的な機能を持っていることになる。

この点で、日本型消費税と欧州型付加価値税は、原理的な同一性にもかかわらず、異質の税制とみなしてよいであろう。日本型消費税は大衆からの収奪的性格が強いのに対し、欧州型付加価値税は資本に対する抑制的な性格が強い。

ただし、欧州型でも事業者の価格転嫁により、商品の価格が高騰し、欧州は全般に物価高となりやすく、低所得層の暮らしは厳しいものとなる。消費のつど収奪されても、比較的物価が抑えられている日本のほうがまだ暮らしやすいという側面もあろう(反面、零細事業者の価格転嫁が困難)。

とはいえ、賃金抑制の時代の消費増税は暮らしを直撃する。それでも、増税政権が選挙で勝利した。しかし、投票率は戦後最低の約50パーセント、つまり半数の有権者が集団的に棄権した。政権の宣伝機関と化したマス・メディアはその事実から目を背け、「圧勝」という見かけの数字だけ強調するが、戦後最大規模の棄権には政治的に象徴的な意味があるのだ。

さて、日本国内では「税」がキーワードとなった昨年であるが、世界ではおそらく「戦」であろう。シリア、イラク、リビア、ウクライナなどの「戦」はすべて今年に持ち越しである。そして、今年も目覚しい進展は望めまい。

世界が金儲けに狂奔し、マネーゲーム以外のことには二次的以下の関心しか抱かなくなっている。遠い国の「戦」より目先の「金」。そういう意味では、世界のキーワードは「金」かもしれない。悲観的ながら、2015年もそんな年となるだろう。

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年頭雑感2014

2014-01-01 | 年頭雑感

一昨年から前年度の漢字をもとに年頭に当たっての雑感を記してきたが、2011年は「絆」、12年は「金」ときて、昨年の漢字は五輪の「輪」だという。

大震災の年は精神主義路線で「絆」になったが、翌年には「金」、そしてまさに金の生る五輪誘致に成功して「輪」と、瞬く間に物質主義路線に完全復帰したようである。それが資本主義的な“復興”の意味なのだろう。

だが、今や商業体育の祭典のロゴマークのようになってしまった五輪の「輪」には、五大陸の連合という近代五輪創始者の理想が込められていた。五大陸を象徴する五色の輪が部分交差しながらつながる紋章は、すべてを一色に統合してしまうイメージの「和」とは異なり、異質のものが違いを保ったまま「輪」になるという趣意で、相互の差異を認め合いながらつながる多様性の中の連合という思想に通ずる。

しかし、現実には五輪自体が事実上参加国間のメダル獲得競争とスポンサー資本・メディア資本の商戦の場と化している。また五輪思想の政治版とも言うべき国際連合も統合力を欠き、ばらばらの主権国家首脳らの顔見世パーティーの儀式となりつつある。

五大陸はそれぞれの大陸やその周辺地域内ですら輪になれず、ばらばらである。その最たる地域が目下の東アジアである。この地域には、最大国中国を筆頭に、日本、韓国、朝鮮、台湾のまさに五つの統治主体が存在するが―極東までせり出すロシアを加えれば六つ―、それぞれが国益を主張し合い、互いに反発を招くような国家行為を繰り出し、対話も途絶しているため、もはや冷戦状態にある。

東アジアの五主体はいずれも東洋系の漢字文化圏として共通するものがあり、本来まさに「五輪」の連合も可能な条件を備えているにもかかわらず、歴史の過程でそれぞれがイデオロギーや歴史観を異にする異質の政治体制を取り、米ソ冷戦時代には所属陣営間で分断された過去をひきずるため、まとまりが悪い面はある。それにしても、このところの緊張関係は尋常ではない。

残念ながら、こうした緊張を緩和する実際的な糸口は今年も容易には見えてこないだろう。しかし、「和」ならぬ「輪」の思想は、緊張をほぐすうえで有用な改善薬にはなるはずである。

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年頭雑感2013

2013-01-01 | 年頭雑感

一昨年の漢字は「絆」だったが、昨年は「金」だという。

一昨年は3・11があったせいか、「絆」という精神的価値に関わる漢字が選ばれたが、昨年は「金」という物質的価値を象徴する漢字に舞い戻ってしまったようだ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のたとえどおりなのだろうか。

昨年の「年頭雑感2012」では、絆の中でも家族的絆、社会的絆が先細る中で、第三の絆と呼ぶべき政治的連帯、特に反原発デモの行方に注目したわけだが、これも結局は全国的な広がりに欠け、年末の総選挙でも脱原発を掲げた政党が軒並み大敗する一方、原発推進勢力が「圧勝」となり、世界を驚かせた。

昨年の「雑感」で「デモを通じてどんな社会を作り出したいのか、社会的な討議とそれに基づく具体的な変革の行動とが必要である」と指摘しておいた課題がなお未達成であることも一因であろう。

それにしても、ひとたび事故が起こればあらゆる絆を破壊する原発を「卒業」できず、金を落としてくれる原発への執着はなお強いようである。ここには、環境軽視・労働搾取で量的な拡大成長を遂げたかつての“成功体験”―それは、環境・生活という点では“失敗体験”なのだが―への未練を断ち切れない日本社会の姿が垣間見える。

ただ、当然と言うべきか、市場は資本主義守護神の復活に安堵し、ご祝儀相場の活況となったようだ。

結局、日本社会は3・11からほとんど何も学ばず、さしあたり3・11以前へ戻ることになったわけだが、振り出しに戻ってここから今度はどこへ行くのか、社会はまだ考えあぐねているようでもあり、先行きは不透明である。 

不透明といえば、世界情勢も不透明である。欧州債務危機に象徴される世界的規模の経済危機も解決の道筋は見えず、米国の斜陽化も進むだろう。

中国も右肩上がりの成長に陰りが見え始めている。極東アジアでは冷戦への逆行的な軍拡競争のきな臭さが漂い、中東の政治危機、アフリカの食糧危機も持ち越しである。

2013年は内外情勢ともに見通しづらい霧中のように不透明な一年になりそうだ。

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年頭雑感2012

2012-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は、「絆」であった。こういう漢字が選ばれたのは、2011年の日本を揺るがせた3・11で「絆」の大切さを再確認した人が多かったためだと言われる。

ただ、裏を返せば、近年はそれだけ「絆」が脆弱化していたということを暗示もしている選字である。

「絆」と言った場合、真っ先に念頭に浮かぶのは、今なお家族の絆であろう。家族が人間の社会性の基盤であることは、時代が変わっても変わらない法則と言ってよい。

ところが、戦後の家族モデルである核家族ほど脆弱な家族もない。この家族は「両親+子ども」のせいぜい4人ないし5人で構成されるのが標準で、近時は3人、2人家族も珍しくない。そして、1人だけの単身世帯=無家族も急増中。世帯構成員数は減少の一途である。 

家族はかつて最低限度の福祉機能さえ備えていたが、現代の最小核家族に福祉機能を期待しても、もはや望み薄だ。

そこで、言わば公的な絆としての社会保障・社会福祉という領域が発達してきた。しかし、この領域の発達ぶりは各国や国内の各自治体ごとの格差も激しく、ピンからキリまで勢ぞろいである。

しかも昨今は、こうした社会的絆を最小限度のものに切り縮めようとするイデオロギーも盛んになり、「市場の要求」に従い公財政の均衡を最優先する傾向が強まってきたことで、社会的絆も溶解・解体の途上にある。

結局、家族的絆も社会的絆も脆弱化した心細い時代に私たちは生きていることになる。はて、どうすれば?

ここで登場願いたいのは、第三の絆と言うべき政治的な絆、つまり政治的連帯である。政治とは生物の中で人間だけが実践する社会連帯的な営みである。これを通じて、私たちは自分たちの社会の地平を切り拓いていくことができる。

しかし残念ながら、現代日本では、この絆が前の二つの絆にもまして脆弱化している。

政治的連帯行動はほとんど不発となり、政治は行政専門職の手に委ねられてしまって久しい。そして、社会的絆の解体に熱心なのもかれらである。この状況を変えない限り、「絆」を言葉としてどれほど叫んでも空しい美辞麗句に終わる。

この点で、昨年の3・11に付随した原発大事故を契機に、1960年代頃までは盛んだったデモ行動が再活性化してきたことは注目される。

たしかにデモは民衆の政治行動として意義ある手段であることは間違いないが、それだけで社会を変革するパワーを持つわけでないことも、60年代の経験が証明している。

デモを通じてどんな社会を作り出したいのか、社会的な討議とそれに基づく具体的な変革の行動とが必要である。そうでなければ、デモは一過性の政治イベントと化し、今度はイベント企画業者の手に委ねられることになる。

2012年は、こうした政治的絆がどこまで回復されるか、また新たに進展するかが問われる年になるだろう。

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年頭雑感2011

2011-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「暑」。記録的猛暑となったことが選字の理由のようであるが、昨年の猛暑は「暑」を越えた「熱」のほうがふさわしかっただろう。この異常気象の要因を人為的な気候変動にと見るか、あるいは一時的な異常気象に過ぎないと見るか、気象学上の論争が起こるだろう。

一方、政治の世界では、戦後初の完全なる政権交代が起きた一昨年2009年が「熱」であり、政権交代後初代の鳩山内閣が内紛から総辞職した昨年は「冷」であった。一年足らずでの総辞職は1993年の政権交代時の細川内閣を思い起こさせる。ともに「名門」出自の坊ちゃん宰相であった点でも、歴史を繰り返している。

菅首相の就任は、ある意味では民主党生みの親のご登場という意味もあり、本来の民主党政権となる可能性はあるが、そうなると、この党が持つ保革両義的な性格が濃厚になり、政策の焦点が定まらなくなる可能もある。今年の注目点になるだろう。

アメリカでも、2009年に熱狂の中、誕生したオバマ政権に対する中間審判となる上下両院選挙で、大統領与党の民主党が下院を落とし、上下院で「ねじれ」となった。早くもオバマのメッキが剥がれてきたか。

経済的な面では、2008年の世界大不況から一年余りを経て落ち着きを取り戻しつつあるように見えるが、そのダメージは何年も続くだろう。資本主義は新たな段階を迎えていると言える。

そうした中、長年温めてきた拙論『共産論』の草稿が完成した。これは、従来、旧ソ連の体制イデオロギーというプリズムを通した解釈されがちであった共産主義の概念について、ソ連のプリズムを除去して、一から再考・再定義する試みである。

ソヴィエト連邦解体からちょうど20周年を迎える節目に当たる今年は、この試みを公表するにふさわしい年度であると思う。その際、資本主義的著述の常道である商業出版は避け、ウェブ・ブログを通じた無償公開がふさわしいのではないかと考えているが、方法は考慮中である。

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年頭雑感2010

2010-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字は「新」。これは、8月の総選挙で戦後初の完全なる政権交代が成った昨年にふさわしい選字と言える。たしかに、昨年の選挙結果は、長年の自民党優位が岩盤化した戦後日本にあっては、投票箱を通じた革命と呼んでもよいほどの「新」ではあった。

しかし、冷静に考えれば、これは2008年世界大不況の余波現象と言える。敗戦直後の破綻を除けば、戦後で例をみないほどの不況に陥ったショックが冷めやらない中で、レジームチェンジへの願望が高まったことが大きい。

それに加えて、自公連立の麻生内閣の不人気、さらにはその麻生内閣が解散総選挙を先伸ばして、支持率が落ち込んだ時に解散するという政治日程上のミスを犯した敵失にも助けられている。完全なる政権交代は、民主党を中心とする野党連合の完全なる自力で勝ち得たものではないことには留保が必要である。

他方、アメリカでも政権交代があったが、こちらの新しさは政権交代そのものではなく、史上初めてアフリカ系のバラク・オバマ氏が大統領に就任したことである。これは、黒人奴隷制と人種差別の黒歴史を持つアメリカではまさしく革命的な出来事であった。

だが、ここでもいくつか留保が必要である。まずこの政権交代はやはり2008年大不況の余波であること。アメリカはその震源地として最も破局的影響を被っていることが、レジームチェンジ願望を生んだ。

もう一つは、オバマ氏は黒人奴隷の子孫ではなく、アフリカからの直接移民の子弟であり、かつ母親は白人であるということである。つまり、アメリカにおける典型的な黒人―黒人奴隷の子孫にして混血していない黒人―ではなく、移民かつ混血であるということ。その意味で、彼をアメリカ史上初の黒人大統領と呼ぶことは、半分だけの正解である。

このように日米において昨年生じた「新」には慎重な留保が必要であり、どちらも今年以降の展開を見極める必要がある。「新」と見えたものがまさに見かけだけであったり、速やかに「旧」に復してしまうことは、歴史上しばしばあることだからである。

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