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近代革命の社会力学(連載第381回)

2022-02-15 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(2)ポーランド「円卓会議」と平和的体制移行
 1989年に始まる連続革命が生起するに当たっては、ポーランドで先行した体制移行が大きな誘因となっている。ここでは革命ではなく、支配政党と反体制勢力による円満な協議を通じて平和的体制移行がなされているが、そのプロセスは周辺諸国に対しても、参照項的影響力を持った。
 そのため、ポーランドの平和的体制移行は、連続革命事象の外にありながら、その開始の契機となった序曲的要素として把握することができることから、その概要をここで見ておくことにする。
 第二次大戦後、ソ連の衛星同盟国となったポーランドは1956年のポズナニ蜂起以来、ソ連とその統制下にある統一労働者党(他名称共産党)による一党支配体制への反体制運動が根強いところであったが、ソ連式の計画経済がソ連に先行して行き詰まり、西側からの借款に依存する中、恒常的な物不足から市民の不満が高まっていた。
 その受け皿となったのが労働運動であり、とりわけ1980年に結成された自主管理労組「連帯」であった。当時のポーランド労組は、ソ連モデルにならい、支配政党傘下の翼賛的な官製労組が基本であり、独立系労組は非合法であったが、ポーランドでは体制の制約を超えた労働運動も盛んであった。
 「連帯」もそうした流れの中で結成された非公認労組であったが、それが強固に組織化され、以後、ポーランド反体制運動のうねりとなるに当たっては、「連帯」結成前年の1979年、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の里帰り訪問も大きな精神的動因となっていたであろう。
 こうした動きに危機感を募らせた体制側は、1981年に事実上の軍事クーデターによって救国軍事評議会を樹立し、戒厳統治を開始した。これは軍も党によって統制されるソ連式社会主義体制下では珍しい軍事政権の形態であったが、このような力による強硬策では根本的な「救国」はできず、経済的にはさらなる苦境に立たされた。
 83年にはヨハネ・パウロ2世が再び訪問、軍事政権を率いていたヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍に対して暗に自由化を促したことが契機となり、同年に戒厳令は解除された。
 ヨハネ・パウロ2世は、80年代、ハイチやフィリピンも訪問し、それらのカトリック優勢諸国の民衆革命に対しても少なからぬ精神的影響力を及ぼしたことはすでに見たが、ポーランドもその例外ではなく、ヨハネ・パウロ2世の赴くところ、体制変動が起きるのであった。
 以後、戒厳令下で弾圧されていた「連帯」は、その指導者レフ・ヴァウェンサ(日本語誤称ワレサ)を中心に全国的な民主化運動の中核として台頭していく。そうした中で、盟主ソ連に改革派ゴルバチョフ指導部が発足したことは、大きな転換点となる。
 戒厳令解除後も民政の形で継続していたヤルゼルスキ体制は革命への進展を恐れ、「連帯」との協議を通じて体制改革を進める方針を決め、1988年から「連帯」と水面下で交渉し、89年2月に政権と「連帯」、さらにカトリック界オブザーバーを含めた公式協議会・円卓会議の設置に漕ぎ着けた。
 この協議会を通じて、一党支配体制の放棄と二院制議会の設置、大統領制の導入、経済改革などの諸問題が幅広く討議され、同年6月の総選挙では「連帯」系の党派が躍進する結果となった。といっても、下院はなお統一労働者党が制し、議会による選出となった新設大統領にはヤルゼルスキが選出されるなど、連立的な過渡的体制ではあったが、とりあえず平和的な体制移行が実現したのである。
 こうして、ポーランドでは革命によらずして、さしあたり一党支配体制の廃止が実現したのであるが、これが可能となったのは、ポーランドでは革命ではなく、団体交渉を基本手段とする労組が反体制運動の主軸となったことに加え、体制側代表者のヤルゼルスキが元来、旧貴族階級出自の軍人という社会主義体制指導者としては稀有の人物で、ある程度柔軟性を持っていたことも寄与していたであろう。
 ポーランドにおけるこうした先行的な体制移行は、周辺の類似体制諸国にも大きなインパクトを及ぼし、抑圧されていた反体制運動に刺激を与えた。しかし、他諸国ではポーランドのような平和的な体制移行が可能な条件は乏しく、多くが革命的経過を辿ることになる。


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