ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第292回)

2021-09-09 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(3)総選挙から独立革命への急進
 1969年の東パキスタン民衆蜂起により、アユーブ・カーン独裁政権が倒れると、いったんは東西パキスタン融和の機運が訪れる。1970年末に、独立以来初となる東西合同の議会選挙が実施されたのである。この選挙では、東パキスタンの地域政党である人民連盟が単独で過半数を獲得し、第一党に躍進した。
 とはいえ、同党の獲得議席はすべて東パキスタンに偏り、西パキスタンでは一議席も獲得できなかった。この極端な地域的偏差は旧パキスタンのように変則的な飛び地国家で単純に総選挙を実施すれば起こり得る選挙政治の陥穽であり、東西融和の機運をかえって削ぐ結果となった。
 この選挙で西パキスタン側の多数を占めたのはパキスタン人民党であり、同党を率いたのは創設者でもあるズルフィカール・アリー・ブットであった。ブットは選挙結果にもかかわらず、ムジブル・ラーマンが率いる東パキスタンの人民連盟が単独で政権党となることを拒否し、二人首相制を提唱したが、これは東パキスタン側で批判を受け、頓挫した。
 ところで、この1970年12月の総選挙は、その前月に東パキスタンが巨大サイクロン(ボーラ・サイクロン)の被害に見舞われるという異例の被災状況下で実施されたことも、事態を複雑にした。推計死者数20万乃至50万人とも言われる甚大な被害を受けた東パキスタンに対し、アユーブ・カーン辞任後の暫定軍事政権は迅速な救援対応に失敗し、被災者や東パキスタン指導者から厳しい批判にさらされていた。
 この大災害が独立革命の直接的な契機となったとは言えないが、中央政府に対する東パキスタン被災者の怨嗟が独立への精神的な動因となったことは否定できない。このように大災害が革命への精神的な動因となった類似の事例として、大震災が動因となった1970年代末の中米ニカラグアにおける革命がある(後述)。
 1971年に入っても、救援・復旧が進展しない東パキスタンではゼネストや暴動が頻発し、事態が混迷を深める中、ブットとラーマンの間では、ブット大統領‐ラーマン首相という権力分担による連合政権の樹立で交渉がまとまりかけていた。
 しかし、軍部の頭越しに行われたこうした動きに反対した暫定軍事政権は新議会の招集を遅らせて時間稼ぎに出たため、ラーマンは71年3月、東パキスタンの独立を求め、市民の不服従と武装抵抗を呼びかけた。これに対し、軍部は同月25日、ラーマンを拘束するとともに、東パキスタン独立を阻止するための軍事掃討作戦を開始した。
 この強硬策を受けて、翌日には東パキスタンで結成された武装抵抗組織・自由の戦士(ムクティ・バヒニ)によって独立宣言が発せられ、4月にはバングラデシュ臨時政府と制憲議会が設置され、独立宣言が公式に採択される運びとなった。
 こうして、東西融和のチャンスは恒久的に失われ、以後はパキスタン軍とバングラデシュ独立抵抗組織との間での熾烈な戦闘に進展していった。1971年の年末まで続いた独立戦争は単なる内戦を超えて、国際的な紛争に発展した。
 まず分割独立以来、パキスタンと緊張関係にあり、すでに係争地カシミールをめぐって二度の武力紛争を引き起こしていたインドはバングラデシュ独立を支援する形で介入してくるが、アメリカも当時ソ連との関係を深めていたインドへの牽制上、パキスタンを間接的に軍事援助していたことが後に発覚する。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿