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近代革命の社会力学(連載第334回)

2021-11-23 | 〆近代革命の社会力学

四十八 バヌアツ独立革命

(2)言語分割と独立運動の混迷
 英仏共同統治下のニューヘブリディーズ諸島では、1950年代から英仏主導で経済開発が進められたが中でも、農牧業分野では、主として仏語圏島でフランス人入植者による牧場経営が発展した。
 しかし、これはバヌアツにおける伝統的な部族共同体の土地(ある種の入会地)を侵害する一種の囲い込みを結果したため、先住部族共同体の土地を守る運動が隆起した。特に仏語圏で最大のエスピリトゥ‎‎サント島でこの運動が最初に興ったが、フランス側は関係者を拘束し、弾圧した。
 他方、1970年代になると、英語圏島でも、先住民の運動が隆起したが、この運動を率いたのが、後に初代首相となるキリスト教司祭のウォルター・リニであった。この運動は土地回復よりも独立に重点を置いたより政治的な運動であり、リニは運動を政党化した。
 最初に独立運動が直接行動として発現したのは、1974年3月、もう一つの仏語圏島タンナ島が独立宣言を発した時である。このプチ革命はすぐさまフランス側によって鎮圧されたが、これを機に同年11月、英仏当局は植民地議会の設置を決定した。
 ただ、この頃になると、英語圏島と仏語圏島の対立が表面化してきていた。英語圏島は土地回復にとどまらず、即時の独立に傾いており、南太平洋からの撤退を検討していた英国もこれに好意的であったが、仏語圏島は段階的な独立を主張していた。
 仏語圏島は、土地回復を求めてはいても、即時の完全な独立には否定的であり、段階的な独立後も、連邦国家として、仏語圏の自治を求めていた。近隣に南太平洋における枢要な海外領土であるニューカレドニアを擁するフランスも即時独立に反対であり、フランス人入植者系の政党も当然これに同調していた。
 そうした中で行われた1975年11月の総選挙では、英語圏のリニが率いるニューヘブリディーズ国民党が勝利し、入植者を含めた仏語圏政党は敗北を喫した。この結果に不服の仏語圏エスピリトゥサント島は分離独立を宣言し、議会が招集できず、英仏共同当局は議会の開会延期を決定した。
 結局、翌年1976年に最初の議会が開会されるも、英語圏と仏語圏の対立は解消されることなく、議会は空転したため、改めて77年にロンドンにて英仏当局と先住バヌアツ人との協議が開催される運びとなる。
 こうして、言語分割は独立の方法をめぐる紛争を引き起こし、これに共同宗主である英仏の植民地政策の相違が絡み、ニューヘブリディーズ諸島の独立運動は混迷を深めていくのであった。


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