ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第326回)

2021-11-09 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(3)ベトナム統一社会主義革命

〈3‐2〉戦勝と統一革命
 前回述べたように、アメリカは捏造されたトンキン湾事件を口実に、1965年以降、北ベトナムに空爆を仕掛けるいわゆる北爆に突き進み、さらには親米軍事政権の支配下にあった同盟国・韓国をはじめとする同盟国の有志軍も合わせて南ベトナム上陸作戦も展開した。
 本格化したベトナム戦争の経緯を詳述することは本稿の主旨を外れるが、結果から言って、南ベトナム解放勢力NLF‐LASV及びこれを支援する北ベトナムは実質上勝利した。ここではベトナム統一革命という観点から、革命の動因となった戦争とその勝因について述べるにとどめる。
 ベトナム戦争において特徴的なのは、未完に終わっていたベトナム独立革命の続戦という意義を持っていたため、NLF‐LASVとこれを支援する北ベトナム軍の士気は一貫して高く、戦争渦中の1969年に統一革命の総帥でもある北ベトナムのホー・チ・ミン主席が死去しても影響はなかった。
 NLF‐LASV側の戦力は1960年代初頭には2万人にも満たなかったのが、同年代半ばには3倍に増強され、さらに義勇隊のような協力組織の戦力を含めれば、総計15万人近くにまで膨張していた。これは、NLF‐LASVが短期間に農村部に浸透し、その大半を支配下に収めていたことを示唆する。
 対する南ベトナム反共体制は、安定しなかった。ゴー・ディン・ジエム政権はファシズムに傾斜した独裁を強めるが、それは抗議活動を刺激し、反体制運動はNLF支持層を越えて、広範化していった。
 ジエムは1963年の仏教徒の抗議活動に際しては戒厳令を発して弾圧体制を強化するも、国際的な批判の中、後ろ盾のアメリカに見限られる形で、軍事クーデターにより失権、殺害された。南ベトナムは軍事独裁制に移行するが、75年の体制崩壊まで政権が安定することはなかった(詳しくは拙稿)。
 そうした南ベトナムを傀儡化していたアメリカによる北爆や南ベトナムで実行された数々の反人道的なゲリラ殲滅作戦は、アメリカ国内を含め、全世界的なベトナム反戦運動の波を引き起こし、戦争の道義的正当性が大きく揺らいだ。
 一方、戦争が膠着状態を続け、米軍兵士の犠牲も増大する中、アメリカでは69年、それまでケネディ、ジョンソンと二代の大統領の下で戦争を主導してきた民主党政権からニクソン共和党政権に交代し、冷戦の緊張緩和や米中接近など外交政策が転換される中、ベトナム政策も大きく変化し、和平機運が高まる。
 北ベトナム側も68年にいったん中断されていた北爆の再開で大きな損害を負い、戦争継続の余力が乏しくなっていた事情もあり、秘密交渉を経て1973年、アメリカと北ベトナム間にパリ和平協定が成立し、ベトナム戦争は終結が宣言される。
 統一革命という点では、1968年10月に当時のジョンソン米政権が北爆を一時停止した後、翌69年6月にNLFが地下政府の形で南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立し、二重権力状態となった。この臨時政府は実質的な元首格のグエン・フー・ト(肩書は顧問評議会議長)をはじめ、全員が北ベトナム労働党員を兼ねており、北ベトナムの代理機関の性格が強かった。
 和平成立後、米軍が順次撤退する中、1975年の南ベトナム首都サイゴン陥落まで二年以上のタイムラグはあるが、アメリカ軍の支援を失った南ベトナム軍の反撃力は減弱しており、北ベトナム軍の南進により、同年4月30日、南ベトナム首都サイゴンは陥落した。
 この後の統一プロセスは、南ベトナムに進駐してきた北ベトナム労働党幹部や軍の主導で行われ、南ベトナム臨時政府は実権を持たなかった。政策的にも、北ベトナム主導での統合的な社会主義政策が矢継ぎ早に施行され、南ベトナム解放闘争を担ったNLF自体も、1977年、その役割を終え、解散したのである。
 他方、旧北ベトナム支配政党の労働党も1976年の党大会をもって共産党に党名変更したが、元来同党は他名称共産党であったので、これはイデオロギーの変更を伴わない形式上の党名変更であった。
 ちなみに、旧NLF指導者グエン・フー・トは共産党が支配政党となった統一ベトナム体制下で大きな権限を与えられることはなかったが、功労者としてある種の礼遇を受け続け、国家副主席や国会議長などの要職を歴任し、1990年代まで政権要人として活動を続けた。


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