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近代革命の社会力学(連載第58回)

2020-01-07 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(3)パリ包囲戦と第二次革命の胎動
 第二帝政崩壊後に成立した臨時国防政府は、何よりも戦争処理を緊急課題としつつも、急進派に鼓舞された民衆の革命的な沸騰に対しても対処するという二重の課題を背負っていた。その点で、1848年の二月革命後の臨時政府とは置かれていた状況が全く異なる。
 二月革命政権では、とりあえずは労働者階級を代弁する社会主義者も入閣する保革連立政権の形を取ったが、水と油の連立は長続きせず、早期に瓦解した。そうした反省もあって、このたびの臨時政府では、社会主義者などの急進派は初めから排除されていた。そのため、急進派及び民衆の間には不満が渦巻いていた。
 そればかりか、戦争政策の点でも、早期講和を模索する臨時政府と徹底抗戦を求める急進派・民衆は鋭く対立しており、この対立関係は容易に解消できそうになく、新たな第二次革命への動因となりかねなかった。
 そうした中、国際労働者協会(第一インターナショナル)が主導して、1870年9月、臨時政府の監視という名目で、パリ市各区監視委員会が設立され、さらに監視委員会の上部組織として、パリ二十区共和主義中央委員会(パリ中央委)が設置された。
 この時点でのパリ中央委はまだ民間組織的な性格のものではあったが、「赤いポスター」と題し、言論出版の自由や市長公選、国家警察の廃止(自治体警察への純化)といった急進的な提案を含む綱領を公表したのである。一方で、パリ中央委は徹底抗戦を唱え、防衛必需品の調達や市民の武装化も提案した。
 その直後、プロイセン軍がパリへ向けて進軍し、以後、パリ包囲陣を築く中、パリ中央委は新たな段階に進む。パリ市議会を労働者を主体とする自治体(コミューン)に再編するという決議を採択したのである。これにより、パリ中央委は革命組織へと昇華されることになった。
 10月31日には、パリ防衛上最後の砦であったメッス要塞が陥落し、フランスの敗戦は決定的となった。これに対し、革命派は臨時政府の総辞職と市議会選挙を要求して、市庁舎にデモをかけ、乱入した。
 この「10月31日蜂起」は、さほど大規模なものではなく、臨時政府は市議会選挙を約束すると見せかけて革命派を引き上げさせたうえ、革命派指導部の検挙に踏み切るという騙し討ちに成功した。
 市議会選挙は区長選挙にすり替えられ、臨時政府は何とか急場を切り抜けたものの、戦況は悪く、パリ包囲の中、燃料・食糧が欠乏し、パリ市民は窮乏した。この兵糧攻めは成功し、明けて1871年1月、ついに臨時政府は休戦協定に調印した。
 こうして、外患を取り除いた臨時政府は2月、正式な新政府を樹立するため、国政選挙を実施する。選挙結果は、革命派を抑えて穏健共和派の勝利であった。ここで登場するのが、首相格の行政長官に就任した七月王政時代の生き残りの策士アドルフ・ティエールである。
 彼はさしあたり南西部ボルドーで新政府を立ち上げ、後にパリの革命を粉砕する計略を秘めていた。このような策は、彼自身が1848年の二月革命の際、当時の国王ルイ・フィリップの諮問に対して進言しながら、却下されていたものであった。
 ともあれ、ティエールの新政府はプロイセンとの講和を急ぎ、2月末には早くも仮講和条約の締結に漕ぎ着ける。このようなティエール政権の融和的態度は革命派を憤激させ、革命行動をさらに先鋭化させることになった。
 とはいえ、敗戦という現実を無視して精神論的に徹底抗戦に執着する非現実的な態度とともに、パリ一市に限局された革命行動という革命派のパースペクティブの狭さが、策士ティエールの術中にはまる元になるとは、この時点ではまだ気づかれていなかった。


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