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近代革命の社会力学(連載第29回)

2019-10-15 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(10)反動化と帝政への変質  
 テルミドール9日のクーデター後の革命の軌道修正局面で、共和歴3年憲法に基づき1795年に樹立された総裁政府は中道的な集団指導制の不安定さを露呈し、復権してきた王党派や総裁政府に不満を募らせた急進派など左右両翼から挟撃されるような形で、たびたび政変にさらされた。
 その最初のものが、1796年5月、フランソワ・ノエル・バブーフに率いられた急進的な平等主義者あるいは共産主義者のクーデター計画であったが、これは密告により、未然に摘発された(いわゆる「バブーフの陰謀」)。
 続いて、1797年9月、総裁政府は、山岳派崩壊後に息を吹き返した王党派をクーデターで政府・議会から追放した(共和暦によるフリュクティドール18日クーデター)。
 これに成功しても、総裁政府は事実上の指導者バラスをはじめ、腐敗していたため、これに反発する共和派内部からの突き上げが激しくなったことから、今度はこれら反主流派を排除すべく、1798年5月にも政変が起こされた。  
 しかし、これで終わらず、1799年6月には反主流派が巻き返して、新たな政変を起こす。その中心となったのは、かのシエイエスであった。革命初動で第三身分の決起を促した功績を持つ彼は、恐怖政治期には逼塞して粛清を免れていたところ、1799年に総裁の一人に選ばれて政界復帰を果たしていた。  
 彼が主導した1799年6月政変は共和暦でプレリアール30日クーデターとも呼ばれる。これによって成立したプレリアール派政権は、謀略家フーシェを警察大臣に起用して復権しかけていた山岳派を弾圧し、急進派の排除を断行した。プレリアール派政権下で革命過程は反動化し、後退を始めた。  
 一方、対仏同盟による干渉戦争では、戦況が悪化していた。総裁政府は1798年に国民皆兵法を制定して総動員体制を築こうとするが、農民の反乱などで徴兵は功を奏さず、フランス軍は敗北を続ける。その隙を突く形で、国内でも王政復古派の反乱や策動が活発になっていた。  
 こうした内憂外患に対処すべく、シエイエスは軍人を引き入れて体制の強化を目論んだ。そこで注目したのが、革命戦争で活躍中の若き軍人ナポレオン・ボナパルトであった。シエイエスはナポレオンと組み、1799年11月、クーデターを起こして総裁政府を打倒した(共和暦によるブリュメール18日クーデター)。
 シエイエスの構想では当初、自らが大統領に近い「大選挙人」なる最高職に就くつもりであったが、野心的なナポレオンはこれを拒否し、自身を含む三人の統領から成る体制を速攻的に作り上げた。当初は三人の統領による合議制として発足した「統領政府」であったが、シエイエスを名誉職的な元老院議長に追いやると、ナポレオンが事実上の最高実力者となる。  
 この統領政府は形の上では先行の総裁政府の焼き直しに見えるが、実態はナポレオン中心の体制であり、ナポレオンは世紀をまたいで着々と自身への権力集中を進めていく。これが最終的に帝政へと進展していく過程で、18世紀フランス革命は正式に終焉したのである。  
 とはいえ、ナポレオン帝政も革命の産物ではあった。元来フランス人ですらなく、イタリアにルーツを持つ没落したコルシカ島貴族出身のナポレオンが最高権力の座に就けたのは、渡仏して革命戦争に参加し、軍功を上げたことが要因にほかならないからである。
 ナポレオン帝政下では、10年余りに及んだ長い革命下で混乱した経済の回復や近代的な法典の整備などの成果面とともに、革命で廃止された奴隷制すらが復活するなどの反革命反動が同居していたが、最終的には帝政崩壊を介してブルボン朝の復古を準備する力学が上回ったと言えるだろう。


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