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近代革命の社会力学(連載第98回)

2020-04-28 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(4)革命的政策展開と共和党の分解
 1910年10月革命で成立した第一共和政で、前面に出てきたのは共和党である。臨時政府初代大統領に就任したのも、共和党重鎮で文学者のテオフィロ・ブラガであった。臨時政府は旧王制との革命的断絶を強調するべく、国旗・国歌から通貨に至るまで、国の象徴を変更した。
 それだけにとどまらず、伝統的な国是であったカトリック教権主義との決別にも踏み込んだ。その具体化として、カトリック修道会の解散と財産没収が強行され、1911年には政教分離法の制定に至った。こうした精神面での革命は、当時国民の多数を占めた農民にとっては性急すぎ、革命の農村浸透を妨げる結果となった。
 政治的には、普通選挙制度が導入されながら、立候補者は共和党の指名を条件としたため、事実上の一党支配体制が形成された。その結果、新憲法に基づく議会の議員は中産階級中心となり、ブルジョワ支配の性格を強めた。このことは、当時新興の労働者階級と保守的な農民層の離反を招いた。
 労働者階級は革命直後から賃上げや時短を求めてストライキを起こし、12年にはゼネストを組織するほどの力量を示したが、革命政府はこれを弾圧し、反労働者階級の立場を鮮明にしていく。
 新憲法は議会中心主義を採り、大統領の任免も議会が行うこととされたため、大統領権限は弱く、議会共和制に近い形態であった。そのため、第一共和政の大統領は臨時政府初代のブラガを除けば、1926年の最終的な崩壊までに計八人を数えた。
 こうした不安定さは、共和党そのものの分裂によっても助長された。元来、共和党は共和主義という一点を共有する諸派の結集体であり、革命成就に際しては有効に機能したが、革命成就後、包括的なアンブレラ政党によく見られるように、速やかに分派活動が始まり、最終的には多数の派生政党に分解された。
 1913年の総選挙で、アフォンソ・コスタが指導する派生政党の民主党が勝利すると、農村部と軍の影響力を削ぐべく、非識字者(農民層に多かった)と現役軍人の選挙権を奪う法改正を行い、中産階級を支持基盤とする内閣を形成した。これによりブルジョワ民主政が確立されるかと思われた矢先、ポルトガル第一共和政は第一次世界大戦に直面する。
 世論が親英か親独かで二分される中、コスタは親英を打ち出すが、時の大統領マヌエル・デ・アリアガは1915年、コスタ内閣を反民主党内閣に建て替えた。対抗上、民主党はクーデターでこれを打倒したうえ、総選挙に勝利、最終的に連合国側で参戦したのである。


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