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近代革命の社会力学(連載第403回)

2022-03-29 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(2)体制内改革とその限界
 東西冷戦構造の東側盟主として強固な基盤を誇っていたソヴィエト連邦が革命的に解体されるに至るには、数年前まで遡る体制内改革のプロセスがある。それは、1985年3月にソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフが主導したプロセスであった。
 ゴルバチョフが新書記長に就任した当時のソ連は、「発達した社会主義社会」を謳う中央計画経済が行き詰まり、生産力の長期的な低下と恒常的な物不足に見舞われるとともに、アフガニスタン軍事介入の泥沼化、さらには党指導部の高齢化に伴う書記長の頻繁な死亡交代といった閉塞状況にあった。
 その点、54歳で党書記長に就任したゴルバチョフには党の若返りと体制立て直しが期待されていた。そのゴルバチョフが打ち出した改革は「ペレストロイカ」(再建)と「グラスノスチ」(情報公開)という内外の人口にも膾炙した二つのロシア語のスローガンに集約される。
 前者は、それまでの思想・言論統制の緩和に始まり、1987年からは計画経済の大幅な修正に踏み込み、個人営業や自由設立型の協同組合企業の公認も行った。後者は、書記長就任早々の85年4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所の大事故を契機に伝統的な秘密主義的施政の転換を進めたものであった。
 これらの改革はあくまでも主権国家としてのソ連邦の一体性はもちろん、ソ連共産党の一党支配制を護持したままでの体制内改革にとどまっていたうえに、中央計画経済の中途半端な修正はかえって生産活動を混乱させ、物不足に拍車をかけた。
 しかし、ゴルバチョフの外交面での新機軸である「新思考」に基づく同盟諸国への不介入方針により、1989年に始まる連続革命を容認し、同盟諸国の一党支配体制が続々と崩壊していったことは、ソ連体制にも跳ね返り、ソ連自身の一党支配体制の見直しが避け難くなった。
 その点、すでに連続革命前年の1988年の憲法改正により、国の名称由来ながら形骸化していた人民主権機関である最高会議(最高ソヴィエト)に代えて、より西欧式議会に近い人民代議員大会を創設していたが、1990年3月には、複数政党制の導入と大統領制(人民代議員大会による選出)の新設という政体変更に踏み切った。
 これが意味したのは、従来「指導政党」としてソ連共産党が国家権力を独占し―連邦構成共和国内でも各共和国共産党がソ連共産党の指導下で構成共和国を地方的に統治する―、党が国家に優位するという体制構造を改め、党と国家を分離したことである。
 この間、ゴルバチョフは党内に台頭してきたボリス・エリツィンに代表される改革の遅さを批判する急進改革派と改革そのものに懐疑的な保守派との間に挟まれ、急進派を追放することで保守派に配慮していたが、自身が導入した人民代議員大会制度により党指導部を追放されていたエリツィンが代議員に当選・復権し、後にソ連邦解体革命の立役者となるのは皮肉であった。
 こうして、1990年の時点では、ゴルバチョフ改革は体制内改革を超え出て、ソ連体制そのものを揺さぶる方向へ動き出していたが、同盟諸国のような民主化要求デモに直面することはなく、当面は新設の大統領に選出されたゴルバチョフの執権体制が継続されるかに見えた。


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