ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第179回)

2020-12-16 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(7)内戦の内外力学
 スペイン・アナーキスト革命の最大の後退・挫折要因となった内戦は、1936年7月から39年4月にかけて、およそ三年に及ぶ激戦となったことから、同時進行していた革命以上に焦点化され、関連資料も多い。しかし、ここでは内戦そのものではなく、革命と関連づけながら、内戦をめぐるスペイン国内外の力学について叙述する。
 この内戦は、前にも触れたように、モロッコ駐留軍の反乱が本土に波及することで全土規模の内戦に発展したものであり、基本的な対立構図は、共和国軍から事実上分離した保守派軍部と中央の左派連立政権である人民戦線政府と間の抗争であった。
 ただし、人民戦線政府は地方のアナーキスト系革命勢力とは拮抗関係にあり、統一的な勢力として凝集することはできていなかった。それでも、内戦が激化すると、前回見たとおり、政府は革命の担い手でもあった地方の民兵団を政府軍(共和軍)に統合しつつ、地方革命を強制回収して、内戦に総力戦で臨む態勢を作ろうとした。
 しかし、こうした中央政府の強権的とも言える集権化措置はアナーキスト勢力に不満を与え、共和派は最後までまとまりに欠けていた。その意味で、内戦当事者としての「共和派」という用語は多分にして便宜的な総称であり、その内部は事実上の分裂状態にあった。
 他方、保守反乱軍側は当初こそ劣勢にあったが、1936年10月に戦闘指揮能力に長けたフランシスコ・フランコ将軍が反乱勢力の総統兼総司令官に就任して以降、フランコを実質的な元首格としてまとまり、反撃態勢を整えた。
 スペイン内戦の大きな特質として、海外からの国際支援網が形成されたことがある。ことに、反乱勢力は当時欧州に台頭していたイタリア、ドイツ、ポルトガルのファシズム体制とイデオロギー的な親和性が強かったことから、これら三国の軍事的・経済的な支援を取り付けたほか、軍国疑似ファシズムの初期にあった日本も、限定的ながらフランコ側に武器を提供している。
 他方、共和派に対する海外諸国からの支援はソ連とメキシコに限られ、しかも人民戦線生みの親でもあるソ連がほぼ中心的であった。ソ連は、緒戦では軍用機を提供するなど共和派への強力な支援を行ったが、次第に親ソ派のスペイン共産党を操り、主導権を握らせようとしたことが裏目に出た。
 ソ連とその諜報機関を後ろ盾とするスペイン共産党は次第にアナーキストやそれと共闘する反ソ派コミュニストへの弾圧組織と化し、共和派内部に恐怖政治的な雰囲気を醸成することになった。それは、共和派の統一より分解を促進したことであろう。
 国単位の支援とは別に、共和派に対しては世界から徴募した義勇兵から成る国際旅団が支援した。国際旅団はソ連がコーディネーターとなって、各国の共産党員を中心とする義勇兵を募集して前線に送り込んだものであった。
 これとは別に、海外から個人単位で義勇兵として参加する文化人・知識人もいた。その一人であるイギリスの作家ジョージ・オーウェルは現地で、アナーキスト革命の理想郷とともに、スターリン主義者の横暴や欺瞞を見聞したことで、スターリン主義への批判を強め、後に、スターリン主義国家を念頭に、イデオロギーと戦争を支配道具とする独裁国家を戯画的に描写したディストピア未来小説『1984年』を著した。
 とはいえ、ソ連の影響力は否定しようもなく、内戦は次第に共産党対反共保守勢力という典型的な構図に近いものへと収斂していくことになる。このことは国際的な力学にも影響し、英米など反共自由主義諸国をスペイン内戦不介入の方向へ動かし、結果的には共和派を見捨て、反乱側勝利を容認する等しい状況を作り出したのであった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿