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近代革命の社会力学(連載第276回)

2021-08-06 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(5)スーダン革命

〈5‐2〉自由将校団革命から反革命的転回まで
 1964年民衆革命は特定の革命政党や革命的組織によって実行されたものではなく、自然発生性が強かったがゆえに、革命後、退陣した軍事政権に代わる安定的な体制を構築することができなかった。
 軍事政権時代には抑圧されていた政党政治が復活し、独立運動にも尽力したウンマ党が軸となったが、安定的な与党とはならず、政権の中心となる首相は1969年までに四人を数えた。建国以来の南スーダン問題も、未解決であった。
 そうした中で、軍部内に育っていた左派系将校グループが自由将校団を結成し、1969年5月、クーデターに成功した。ガアファル・ヌメイリ大佐に率いられた自由将校団内部では当初クーデターに反対する声が強かったが、ヌメイリが主導して決行を早めたとされる。
 自由将校団主導という点では、エジプトの1952年共和革命に範を取ったものではあったが、スーダンはエジプトと異なり、建国以来共和制であったので、69年5月の政変は革命よりクーデターの性格が濃厚ではあった。
 しかし、自由将校団は政権掌握後、国家革命指令評議会を設立し、社会主義に大きく傾斜していくため、社会主義革命の性格が前面に表れることになった。
 ヌメイリは1971年に形だけの国民投票で大統領に就任すると、唯一の合法政党としてスーダン社会主義者同盟を結党し、社会主義体制を明確にしたうえ、銀行その他の産業の国有化や土地改革に取り組んだ。
 この初期の施策は自由将校団にも浸透していたスーダン共産党の影響と協力も受けており、共産党の発言力が増していた。しかし、共産党内の親ソ派と民族派の対立から、前者が71年に軍内の共産党細胞と連携して大規模なクーデターを起こすと、ヌメイリはこれを辛くも鎮圧、共産党を弾圧して幹部党員を処刑した。
 この共産党によるクーデター未遂事件は社会主義政策にも修正的な変容をもたらすとともに、外交面でもソ連からの離反と(当時ソ連と対立していた)中国や西側への接近という転回をもたらすことになった。
 一方で、72年には帝政エチオピアの仲介により、55年以来継続していた南スーダンとの紛争(第一次スーダン内戦)をアディスアベバ合意により解決し、懸案であった南スーダン問題をひとまず解決するなど、初期のヌメイリ政権はスーダンに一定の安定をもたらすことに成功した。
 とはいえ、69年革命はアラブ社会主義革命の潮流の中では、67年の第三次中東戦争にエジプトが敗北し、ナーセルの威信が落ちた後の事象であり、70年にはナーセルも急死したため、アラブ社会主義の大義は70年代以降急速に失われていった。
 そうした国際力学の変化の中で、長期執権を狙うヌメイリはイスラエルと和解したエジプトのサーダート政権を支持する一方、80年代に入ると、一転して社会主義からイスラーム主義に大転回し、イスラーム法体系シャリーア法の導入など保守的回帰を示した。
 このように、革命指導者自らが明確な反革命反動に出るのは稀有のことではあるが、その背景として、元来69年革命は一部の宗教保守派の支持も得ていたこと、76年の宗教保守派によるクーデター未遂事件後、イスラーム勢力との政治的和解プロセスを進めていたことがある。
 しかし、より直接的には盟友だったエジプトのサーダート大統領が1981年、イスラーム原理主義者によって暗殺されたことがあると考えられる。当時、スーダンでもムスリム同胞団のようなイスラーム勢力が台頭していたことも、ヌメイリ自身の政治的延命策としてのこうした変節を後押したであろう。
 だが、この大転回はアディスアベバ合意の破棄を意味し、非イスラーム教地域である南スーダンを憤激させ、再び南北紛争(第二次スーダン内戦)を招くという致命的な失政につながった。ヌメイリが政治生命の延命のためにした大転回が、政治生命を短縮する皮肉な結果となったのである。
 1985年に援助国アメリカや国際通貨基金(IMF)の圧力を受けた緊縮政策が物価高騰を招くと、ストライキや抗議活動が隆起する中、ヌメイリは権力基盤である軍部に見放される形でクーデターにより失権、エジプトへの亡命を強いられることになった。


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